ロシアの地にて 第二十五話
まるで夜が明けるように。朝もやに夜の帳が打ち消されていくように。
空から降り注いできた光に、闇に眼が慣れ切っていた圭吾はまぶしそうに目をしばたたかせた。
しばらく目を光に順応させていると、次第に辺りの様子が見えてくる。
見えるようになって、辺りの鮮やかな景色に驚いた。
地面には鮮やかな新緑の草が生え、原っぱのように緑の絨毯が続く。遠くには、森も見える。
何より驚いたのは、上空に張られた巨大な枝だった。
空高くに沢山の太い枝が伸び、様々な葉を茂らせている。
巨大な。とても巨大な大木の枝だった。その枝が四方に空を覆っていた。
枝には、沢山の鳥たちが行きかい、雲がかかっていてそれよりも上は見えない。
ただ、それだけ大きな木の木陰にいるというのに、地面に暗さはなく、まるで光が枝や葉を透過してくるかのように明るい日差しが地面に降り注いでいた。
黄金の鳩は、その巨木の幹の方へと飛んでいく。
幹もとても立派なもので、街を一つ飲み込んでしまうのではないかと思われるほどの太さがあった。
一旦足を止めて景色に見入っていた圭吾だったが、鳩が行ってしまうことに気付いて再び駆け出す。
幹の方へと近づくにつれ、あちこちに乳白色の泉が見えてきた。
その中でも一際大きな湖のような泉の向こうに、鳩は飛び立つ。
そして幹の側にたおやかに座る一人の女性の肩に止まった。
地面まで伸びる長く艶やかな黄金の髪の美しい女性だった。
圭吾は、なんとなく直感で、その人は近寄ってはいけない存在だと感じる。
人間ではない。人間よりも、遥かに格の高い、存在。
黄金の鳩は、女性の肩から飛び立つと大きく螺旋を描くようにして天の枝の方へと昇って行く。
鳩の軌跡を目で追って。思わず圭吾は手を伸ばした。
あの上の世界は、きっと魂が帰っていく場所。
死んだ人が昇って行く場所。
そこは、神聖で。光に満ちていて。
天国とか、極楽とか。宗教によって表現は違うが、きっとそういうものなのだろう。
自分の、愛する人もあの向こうにいるのだろうか。
手で掴もうとするが、その世界は遥か天高く、自分には到底届かない。
(アウリス……)
知らず圭吾の双眸から涙が零れ落ちる。
あそこに、自分が行けることはおそらく永遠にないのだと思う。
永遠に……。
それはわかっているけど。
一目でいいから。
もう一度だけでいいから。
あの人に、会いたかった。
触れたかった。
話したかった。
圭吾は手を下ろすと、目をつぶって胸に下げているペンダントをぎゅっと握った。
高まって溢れそうになる自分の感情を、そうやって抑え込む。
しばらくそうやって落ち着きを取り戻してから、圭吾は改めて幹の麓に座る美しい人を見た。
美しい人は温かく微笑むと、圭吾に向かってゆっくりと二度手招きをした。
(来いっちゅうことなんやろか……)
とはいえ、美しいその人と圭吾の間には大きな乳白色の泉が横たわっている。
圭吾は靴を脱ぐと裸足になって、その泉に足を踏み入れる。
乳白色の水は冷たくはなく、気持ちが良かった。泉はそれほど深さはなく、圭吾の膝上ほどの水位しかないようだった。
ズボンが濡れることも気にしないで、ざぶざぶと歩いてく。そして圭吾が泉の中ほどまで歩いてきたところで、美しいその人は掌を上に向けて圭吾に何かを促す。
その人は、泉の水を手で梳くって飲むような動作をしてみせた。
圭吾は足を止めて、乳白色の水面を見下ろす。これを、飲めということなのだろう。
一瞬躊躇はしたが、ここで迷っていても仕方がない。
圭吾は意を決すると、身をかがめて手を椀の形にすると乳白色の水を掬い取って、口をつけた。
薄いミルクのような、でもどこか草原を思わせるような味がした。爽やかな、けれど、あたたかなものが体に染み込むような。
一口飲んだところで、空からあの黄金の鳩が舞い降りて来て圭吾の肩に止まった。
次の瞬間、眩いばかりだった周りの景色が一転し、いつの間にか圭吾はあのシベリアの収容所の敷地にいた。すっかり日も暮れて、フクロウの鳴く声が森に木霊している。
(戻ってきた……)
肩に止まった黄金の鳩を見ながら、思う。これで、もう大丈夫だ、と。
圭吾は手に掬ったままの乳白色の水を地面にパッと撒いた。
そして、声を張る。
「帰りませんか!」
夜の虫が、足元でちちちと鳴く。
「俺と一緒に、日本へ帰りませんか!」
圭吾の声は、収容所中に響いた。
しんとした静寂。
耳が痛くなるほどの静寂のあと。
どこからともなく、ざわざわと人のざわめきのようなものが沸き立つように聞こえてくる。
それも、前からも左右からも後ろからも。
圭吾はきょろきょろとあたりを見回す。
そこかしこに、人影が見えてくる。一人二人ではない。十人百人、いやもっと。千人、それ以上いたかもしれない。
始めは薄っすらとしていたが、しだいに濃くなる人影たち。
徐々にその表情や身なりまで鮮明になってくる。
疲れて汚れて、やせ細ってはいたが。顔を綻ばせた男たちが、圭吾の回りに大勢その姿を浮かび上がらせてきた。
肩を叩きあって喜び合うもの。歓声をあげるもの。ただ静かに成り行きを見守るもの。
でも、誰もの顔が明るかった。
静かに夜に沈んでいたこの空き地が、今は喜び合う男たちの顔であふれていた。
あっけに取られていた圭吾だったが、はっと自分がやるべきことを思い出す。
圭吾は目の前にいる男に、手を差し出した。握手を求めるように。
目の前にいた男は、にっこりと笑むと圭吾の手をしっかりと握る。握った瞬間、その男の姿は掻き消えた。圭吾の中に吸い込まれたように。
それが合図だった。
次から次へと男たちが圭吾と手を握ろうと集まってきた。
圭吾と手が触れると、圭吾の中へと吸い込まれる。男たちの手が次々と折り重なって圭吾に触れ、吸い込まれていった。
「くっ……」
沢山の霊たちが集まり重なり、それはもう人の輪郭に見えず光の塊のようだったが、それが次々に圭吾の中に入ってくる。
身体の中に押し入られるような圧力を感じて、圭吾は思わず目を閉じた。しかし、その圧力が、ふっと途切れる。
目を開けると、再び空き地に静寂が戻っていた。
圭吾は大きく息をついた。額には汗がにじむ。
身体が酷く重い。そして、酷い吐き気のようなムカムカした感じに襲われる。
先程の賑やかさが嘘のように、空き地は再び夜の闇に沈んで静まり返っていた。
圭吾は額の汗を服の袖で拭うと、
「よし。じゃあ、行くか」
最後にもう一度収容所の方を一瞥してから、森の中へと歩いて行った。
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