ロシアの地にて 第二十四話
圭吾が向かったのは、あのシベリア抑留者の収容施設だった。
建物の裏手、この前老婆がパンを撒いていた辺りに足を止める。
圭吾は手に抱えてきた『鳩の書』を胸の前に持つと、誰もいない空き地に向かって声を張り上げた。
「俺、貴方たちを日本に連れて帰りたいんです。でも、それには『イーレイ』に行かないといけないみたいで。……そやから、どなたか道案内頼めませんでしょうか」
日が暮れ始め、あたりは静かな闇が舞い降り始めていた。
圭吾の声は、ただ風の中に漂い消えていく。
しーんと静まり返った、何の反応も帰ってこない空き地。
圭吾がさらに言葉を続けようと、息を吸い込んだ時。
がさっと、一つ。かすかな靴音がした。
音のする方へ視線を向けると。そこには一人の男が立っていた。
まだ若さの残るその男は、しかしどこか存在が希薄で。薄っすらと後ろの景色が透けて見えていた。
その男は静かに圭吾の前まで歩いきて、目の前で足を止めた。
「……貴方が、道案内してくれはるん?」
圭吾の問いに男は頷くと、圭吾のポケットを指さした。
「?」
圭吾は自分のポケットを弄ってみる。入れていたものは、収容所の住居棟で拾った手帳だった。
「もしかして、この手帳。貴方のやったん?」
男は、にっこりと爽やかな笑顔で応えた。
「……そうか。すみません。読んでしもうた」
男は表情を崩さず、嫌そうな顔はしなかった。
こうやって直接面してみると、本当に普通の人なのだ。と、圭吾は改めて思う。
大学の友達でいてもおかしくない、同じ会社の同僚としていてもおかしくない。普通の人。
そんな普通の人が、こんな故郷から遠く離れた地で、あんな悲惨な生活と死を体験しなければならなかった……その事実が、何ともやりきれなかった。
「もしかして、俺がそこでタトゥーの男に殺されそうになった時に助けてくれたのも、貴方ですか?」
圭吾の問いに、男は小さく頷いた。
圭吾は男に頭を下げる。感謝の意を込めて。
『助けられて良かった。生きていたときは、助けたくても助けらなかった人たちも沢山いたから』
そんな言葉が脳裏に流れてきた。
圭吾は、はっと顔を上げる。伝えたいことは沢山あった。けれど、感情がこみ上げてきてしまってうまく言葉にできない。
そんな圭吾に、男は優しく微笑んだ。
そして、手を伸ばす。圭吾の持つ、『鳩の書』に。
男が手を伸ばすと、あれだけ固く閉じられていた本が、圭吾の手の上でぱらぱらと独りでにページを捲りだした。
開かれたページに男は手を触れる。
次の瞬間、男の身体が
黄金の鳩は圭吾の目の前で一度羽ばたきすると、空高く舞い上がった。圭吾の頭の上を大きく円を描いて飛ぶと、ある方向へと羽ばたいて飛び立った。
あっけに取られていた圭吾だったが、鳩を見失ってはいけないと気付いて、慌てて本を閉じるとズボンの後ろに刺し、走って鳩を追う。
いつしか、圭吾の周りにあったはずの森も収容所も姿を消し、あるのはただ闇だけだった。
その闇の中を、黄金の鳩が飛んでいく。
圭吾は必死でその鳩の後を追いかける。
もしここで鳩を見失ってしまったら、永遠にこの闇から出られないような気がしていた。
鳩は、圭吾を置いて行くことなく、圭吾が追いつけるギリギリの速さで飛んでいく。
どれだけ走ったのだろうか。
1時間だったのかもしれないし。
1日だったのかもしれない。
気が遠くなりそうなくらい長い時間。しかし、疲れもせず。眠くもならず。
圭吾はひたすらに、先を飛ぶ黄金の鳩を追い続けた。
永遠とも思われたその闇が、けれど突然に薄れていく。
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