ロシアの地にて 第二十三話

 数日後、バイカル湖の氷は大半が溶けてしまった。

 この湖にも一足遅れの春が来ようとしている。

 ヒト型に戻ったヴォルフは、今日もいつものように散歩に誘って連れてきた圭吾に静かに笑む。


「氷も溶けた。私も、そろそろ行くことにするよ」


「……そっか」


 せっかく仲良くなったヴォルフと別れることに一抹の寂しさを感じて、圭吾は少し胸に重いものを感じながらバイカル湖の煌く水面を眺めていた。もう湖面は白一色ではなく、陽光を受けてキラキラと輝いていた。

 ヴォルフは金色の瞳で、圭吾をじっと見つめる。


「圭吾よ。お前は、これからどうするつもりなんだ。いつまでもパンを焼いているわけでもないのだろう?」


 ズボンのポケットに両手を突っ込んで、うーんと圭吾は唸る。


「あのな。あの収容所跡に残った人たちの魂を、どうにか日本に連れて帰ってやりたいねんけど。なんか、良い方法ないかな」


 ふむ、とヴォルフは顎を掴んで考え込む。

 そんな都合の良い方法なんてないやんな、と言おうとして口を開きかけた圭吾の言葉をヴォルフの言葉が遮る。


「それならば。神に頼んでみるといい」


「神!?」


 素っ頓狂な声を上げる圭吾に、ヴォルフはさも当然というように大きく頷く。


「我々ぐらいの者には、そこまでの力はないが。神といわれるような存在の方々なら、なんとかなるかもしれん。行ってみるいい」


「……行くって、どこへ?」


 ヴォルフは指を天に向けてさした。


「楽園と言われるところさ。『イーレイ』とも言う。行き方は……そうだな。お前が一緒に暮らしているあの老婆に聞くといいさ。あの人は気まぐれだからな。助けてくれるかもしれんし、くれないかもしれないが」


 なんだか話が急に大きくなって、圭吾は目を丸くしながらヴォルフの話を聞いていたが。とにかく方法があるのなら、やってみるしかない。


「……わかった。ありがとう。聞いてみるわ。……ほんま、世話になったな」


 ヴォルフは金色の目を細め、ふっと笑った。


「いや。私の方こそ、楽しかったよ。久しぶりに。……人だったころのことを思い出した。また、いつか会おう」


 圭吾も、静かな笑顔で応える。


「ああ。今度は、その美味いっていうビール、土産に持ってきてや」

「わかった」


 ヴォルフは湖の岸へとゆっくりと歩いて行く。

 湖の端までくると、身をかがめて湖に右手を浸けた。

 その手が何かを握る。


 それは、誰かの『手』だった。

 その『手』を握ったまま、ぐっと引き上げると。湖の中から一人の女性が浮かび出てきた。その女性は、ヴォルフに引かれるままに湖から岸へと上がる。岸へ上がると、感謝の意を示してか、胸に片手をあててヴォルフを見上げた。そして、そのままヴォルフについて歩いて行く。その女性に続いて、湖から次々と人が出てくる。初老の男、走る子ども、老婆……みな、笑顔で。帰還できることを喜んでいるようだった。

 湖からは何十人、何百人という人の列がヴォルフを先頭に続いた。


「さあ。みんな、行こう。故郷に帰ろうではないか」


 湖から出てくる人の群れを、圭吾は黙って見送った。

 ヴォルフは一度、圭吾の方を振り返り。


「До побачення(ポポパチェンナ:ウクライナ語:さようなら)!」


 と叫んで手を上げる。圭吾も手を上げて返すと、にっと笑って。後はもう振り向くことなく行ってしまった。





 ヴォルフの一行が完全に見えなくなるまで見送った後。


「さて、と。俺も行くかな」


 圭吾は森の中へと一人で入っていく。いつもそうなのだが、ヴォルフと一緒にいると遠くへも行けるのに、自分一人になると途端に森の中で行ける場所は限られてしまう。

 何らかの作用で、空間がねじ曲がっているというか。

 距離感とかどうなっているのか圭吾にはよくわからないが、森の中に入るとすぐに鳥足の家についた。


 圭吾は鳥足の家に入ると、ペーチカで夕飯を作っていた老婆に先ほどヴォルフに言われたことを頼んでみる。

 老婆は、相変わらず不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せて圭吾の話を聞いていたが、何も応えはせずに、ふんっと鼻を鳴らすだけだった。


(無理なお願いやったかな……)


 何となく気まずく思いながら、老婆の作ってくれたスープを食べる。一緒に添えられているパンは、圭吾が今朝焼いたものだ。

 だいぶ、パンの焼き方も上達した気がする。


 食事が終わって、いつものように圭吾が外の水がめの水で食器を洗っていると。窓から老婆が顔を出し、圭吾に戻ってくるよう促した。

 食器を布巾で拭いて家の中の食器棚に戻すと、圭吾は老婆の元へ行く。

 老婆は本棚の前に居た。


「ばーちゃん。何?」


 老婆は本棚から一冊の薄い本を取り出すと、圭吾の手に渡した。

 それは、古い黒ずんだ皮の表紙の本だった。金箔で何やらタイトルが書かれいる。圭吾には読めないが、そこには『鳩の書』と書かれてあった。

 開こうとするが、なぜかページが固まってしまっていて開けない。


「? なんや? この本」


 無理に開けようとすると破いてしまいそうだったので、どうしたらいいのかわからず老婆に助けを求める視線を向ける。

 しかし老婆は圭吾の問いには答えず、その代わりにドアを指さした。


「それを持っていけ。そして、死人しびとに案内を乞え。『イーレイ』へはそれが導いてくれるだろう」


 驚いて圭吾は老婆を見た。聞いていないようにみえた圭吾の頼みを、しっかり聞いてくれていたのだ。

 老婆は、変わらず不機嫌そうにしていたが。


「ばーちゃん。ありがとう。俺、行ってみる」


 思わず圭吾は老婆を抱きしめた。老婆は、ますます不機嫌に圭吾の頭へと拳骨を一つ落とす。

 老婆の力なので、さほど痛みはなかったが。


「痛って。ごめんなさい、調子に乗りすぎました」


 えへへと笑うと、圭吾はさっそく家を出た。

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