ロシアの地にて 第二十六話
初めは歩いていたが、すぐに駆け出す。
早く帰りたかった。一刻も早く、戻りたかった。自分が居るべき場所に。
自分を待ってくれている人のところに。
鳥足の家が見えてきた。
圭吾はその足元を走り抜けると、振り返って窓に向かって声を張り上げる。
「ばーちゃん! 俺、もう、帰らなあかん!」
圭吾の声に気付いて、老婆が窓を開け顔を出した。
相変わらずの仏頂面だったが。
老婆は真っすぐ森の奥を指さす。
「行きな。この先をずっと行って、お前を待っている人のところに着ければ、お前は元に戻れるはずだ」
圭吾は、満面の笑顔で手を振る。
「ばーちゃん、ぎょーさん世話になった!」
あの老婆の名前を、圭吾は知っている。ヴォルフの素性を、かつて読んだ民話の中から思い出したときに、一緒に思い出していた。老婆の名は。
「バーバ・ヤーガ! ありがとう!」
圭吾の言葉に、老婆はほんのわずか、口端を歪めて笑ったように見えた。
「あんたに会えて、ホンマに嬉しかった!」
そう言うと、圭吾は老婆が指さした方向に体を向け、再び駆け出す。
夜の森の中を。ただひたすらに駆けて行く。
待ってくれている人のところへ。
楓子は民家の室内で、何度目かわからないため息をついた。
イザの携帯への発信元だった、この民家。
楓子はすぐにここに来たかったのだが、事件の現場となっていたため昨日まで警察の規制線が張られており、一般人は近づくことができなかったのだ。
この民家の周囲からは2体、近くの森からも数体の死体が見つかった。
いずれも、アサルトライフルなどでの銃撃、もしくは長い刃物での切り傷で即死に近い状態だったという。
また、この民家のキッチン付近にあった血痕は、鑑定の結果、楓子と三親等以内の人物の血だということも判明した。
さらに、数日前にはこの民家から数百メートル離れた廃ホテルで多数の死傷者がでる事件も起こっており、この民家の事件との関連が取りざたされていた。
どちらも被害者は、この界隈を縄張りにしていたマフィア崩れの武力集団だということがわかっている。
血液の鑑定結果から、圭吾がこの武装集団に攫われ、何らかの事件に巻き込まれたことは明らかだった。
楓子は、圭吾のものと思われる血痕が見つかった本棚の元へと行く。電話機は、警察に没収されてしまっているが。
この場所から圭吾がイザに助けを求める電話をかけてから、既に一か月近くが経っていた。
「圭吾……あんた、今、どこにいるのよ」
もう社内の上層部や親せきの中には、生存を絶望しする声が強くなっていた。冷静に考えると、そうなのだろう。
生存を信じたい。でも。地元の警察に言われたのは、出血量から見て生存は極めて厳しいということ。
せめて、死体だけでも見つければ諦めがつくのに。そんな気持ちすら沸いていた。
「圭吾……ばか。ばか、ばかっ!」
乾いた瞳からは何も出てこない。今はただ怒りで悲しみを誤魔化していた。
お付きの者に、そろそろホテルに戻りましょうと声をかけられる。
楓子は小さく頷くと、外へ足を向けようとした。
と、そのとき。
声を、呼ばれた気がした。
後ろから。自分の名を。
楓子は振り返ろうとした。その肩をポンと大きな手が掴む。
「……やっと、たどり着けた」
そう呟く声。
どこから現れたのか、今まで誰もいなかったはずのその場所に。
楓子よりも頭一つ背の高い、男性が立っていた。
楓子が、子どものときから知っている、その顔。
圭吾だった。
楓子の後ろに、いたその顔を見て。楓子は顔をくしゃくしゃにして訳の分からないことを叫んで圭吾の胸を拳で叩いた。
「……どこ行ってたのよ。どこ行ってたのよ! どこ行ってたのよ!!!!」
楓子は圭吾の胸を何度も叩いた。
圭吾は困ったように、目じりを下げて楓子を見下ろす。
「ごめんな。楓子。……ただいま」
言いたいことは沢山あったはずなのに。
「…………おかえり、圭吾」
それ以上何も言えず、楓子は圭吾に身を預けて、ただただ泣くしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます