ロシアの地にて 第七話
そのとき、目の端に固定電話の子機が映る。リビングの本棚の上から三段目。
圭吾は本棚の前まで行くと、本棚に凭れて座り込み、無心にある番号を押した。
受話器からは呼び出し音が流れる。圭吾は祈る気持ちで、その呼び出し音を聞いていた。
しつこく鳴らし続けていた呼び出し音が、ふいに途切れ、低い男の声が耳に入る。
『はい』
聞きなれた声。圭吾はその声を聴いて安堵で、僅かに笑みを漏らす。笑ったのは随分久しぶりな気がした。
「イザ。助けてほしい。囲まれた」
その言葉だけでイザは、現在圭吾が置かれている緊迫した状況を察したようだった。
『状況を教えてくれ』
簡潔で短い返答。時間がないことも、イザは理解しているようだった。
圭吾は背を本棚に預け、足を投げ出したまま。一旦ナイフは脇に置いて。右肩に受話器を挟んで会話を続けながら、銃らしきもののマガジンボックスを外して、ポケットから出した弾をがちゃっ、がちゃっと詰めていく。
「敵は6人。分かっている限りでは、AK47らしいのが二人。マカロフっぽいのが二人。刃物が一人。丸腰一人。今、俺は無人の人家に居て、おそらく囲まれてる」
『お前の被害と持ち物は?』
「3か所撃たれた。拳銃による傷が左脹脛と脇腹。内臓は多分大丈夫。アサルトライフルの傷が左肩。全く動かせない。失血も酷いが、とりあえず接着剤で抑えた。持ち物は、キッチンでみつけたナイフと。あと、変な銃」
『変な銃?』
「ああ。なんや木製の銃身で、アサルトライフルぐらいの大きさ。マガジンが一番後ろにある」
僅かな間があってイザが、たぶん、と言って続ける。
『それ、TKB022じゃないかな。だとしたら、妙な形してるだろうけど、ちゃんと使えるアサルトライフルだよ。弾は、AK47と同じ7.62×39mm弾だ。マガジンが後ろなのはブルパップ方式ってやつ。小回りの利くコンパクトさの割には、命中率と射程はいいはずだ。薬莢が下に飛んでくるらしいけど、それさえ気を付ければ』
お前に向いてるんじゃないか?とイザは付け加える。
そして。それで……と、イザはこの状況で自分が最善と思える戦略を圭吾に伝えた。
「……わかった。それで、やってみる」
圭吾は電話口で頷く。拳銃での射撃を得意とする後方支援型のイザは、こと戦略を考えることにおいては長けていた。かつて一緒に行動していた頃、窮地に追い込まれた際にイザの俯瞰的な視点と経験からくる戦略で、突破口をみつけ窮地を打破できたことは一度や二度ではない。そんなこともあって、イザと会話できたことで彼と共にこの場で戦っているような感覚に、圭吾の心に冷静さを取り戻す。
けれど、取り戻せないものもある。
圭吾の瞳が途端に頼りなげに揺れた。電話に向かって話しかける唇が、小刻みに震えた。
「イザ……俺、どないしよう。今、食いたくて。食いたくて食いたくて、仕方がないんや。一昨日飯食ったっきり、ほとんど何も食ってへん。そやから、さっきからずっと、そればっか考えてて」
空腹はとっくに極限に達し、身体が、本能が求める。
食べ物を。
いますぐ、欠けたものすべてを補える完全な食べ物を。
かつて、何度も口にした。
もうとっくに忘れたと思っていたのに。あの時の感覚が蘇っていた。
身体の奥の方から湧き上がる激情に、支配されそうになる。
『食いたいって。………ヒト……か?』
圭吾がこくんと頷いたのが、受話器越しでも気配で分かったのだろう。イザは、そうかと一言呟いたあと、少し間をおいて意識して言葉を選びながら諭すような声音で言葉を紡ぐ。
『圭吾。今も頑張って耐えてるんだろうけど。まだもう少し頑張れ。限界まで。んでも、もしどうしても駄目ってなったら』
もし、食ってしまったら。
『その時は、またリハビリ付き合ってやるよ。まずは、生の豚肉から……だったっけ?』
イザの意外な言葉に、圭吾は目を丸くする
イザは絶対にダメだとは言わなかった。極力努力して、それでも駄目なら。一旦欲望を受け入れた後、次を考えればいい。いつだってやり直しなんてできる。イザらしい考えかただなと、圭吾は思わず小さく笑みをもらした。
「わかった、ありがとう」
少し気持ちが楽になる。なんだ、食ってもいいじゃん!とは思わないけれど。
間違えても、人の道に外れても。また、戻ればいいんだよ。そう言われた気がした。
戻れるだろうか?
小首を傾げると、一人苦笑を浮かべる。少し心に余裕ができていた。
圭吾は立ち上がると、イザに最後に、家族に今の状況を知らせてほしいと頼んで、電話を切った。
複数の男たちが草を踏み土を蹴る足音が、この民家の周りを取り囲むのを圭吾の鋭い聴覚が掴んでいた。
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