2016年5月 海鞘を投げる日(後)
「うわー、めっちゃアパートですねえ」
「ほんと、アパートだ」
今日の宿は、外見はただのアパートだった。しかし中は鍵のかかる部屋が三つ、広くて綺麗な洗面台、電子レンジ、ポット、洗濯機、冷蔵庫が常備されている。お風呂トイレが共通、という点をのぞけば、ほぼシングルが三つあるようなものだ。これなら安心である。
「さて」
私の眼下にごろりと見事なほやが五つ。必要そうな道具は駅前で一通り買ってきた。包丁、紙皿、割りばし、新聞紙、醤油、酒、サランラップ、タッパー。机上の想定ではバッチリの布陣だ。
「数井さん、ほや食べたことある?」
「ないですねえ」
ほやを食べたことがない! それはぜひとも味を教えて差し上げねば! 内なる宮城県民の血が騒ぐ。しかし。
「でもね、私、ほやを捌いたことがなくて」
「じゃあ、捌き方を誰かに聞きましょう。誰かできる人はいないんですか?」
ほやを捌いていた一番身近な人間といえば。
「母……かなあ」
「じゃあご実家に電話しましょう、はい、今すぐ!」
数井さんがスマートフォンを差し出してくる。や、電話くらい自分のやつでするよ。
「え、いや、親にいきなり質問の電話とかおかしくない?」
「そうです? 僕、実家の母にアイロンのコツとか聞きますよ。あ、今はもっぱらショートメッセージですけど」
「でも、ほやの捌き方なんていかにも、今、宮城に来てるぞ! って丸分かりだし……そのう……何を言われるか……」
口に出してみると、どんどん実家に電話したくない気持ちが募ってくる。っていうか、なんでそんなこと考えなきゃいけないんだろう。ええい、数井め。
「自分が親と仲いいからって、私も問題ないとは限らないっしょ? ネットで調べるからもう勘弁して」
数井さんが見る間にしおれていく。言い過ぎたな。でも、私だって母親に電話なんかしたくない。
「えー、まず、ほやの二つの突起には、+と-のついたもの二種類があります。そのうち、+のついているものを切り落とします」
インターネットで解説ページを読み上げながら作業を進める。よく洗ったほやは投げるときとは違って、もったりと食べ物としての質量をアピールしてきているようだ。
+のついた先端を包丁で落とし、中の液体をタッパーに移す。液体の色合いは、軽く白濁、潮汁に似ている。
「この白い水が、ほや水、っていうらしいよ」
赤い殻に包丁の切っ先を押し込む。見た目は果物のようだが、その硬さ、手ごたえは生き物の皮みたいなところもある。果物でいえばアケビの皮が一番近いかな。 力づくで殻を割り開くと、中から鮮やかな黄色の中身が現れる。縦に繊維質のような筋が入ったところはパイナップルのようだが、赤い外側に中は黄色という色合いはマンゴーにも似ている。殻と身の隙間を親指で引きはがすように剥いていく。最後に、殻と身をしっかり繋いでいる根っこに親指を滑り込ませると、きゅぽん、と吸盤が抜けるみたいに外れた。根元の外側はわさびの根に煮ている。つくづく、植物に似ている海産物だ。
「ほやって投げられるために生まれてきたみたいなとこあるよねえ」
人の手元を淡々と写真に撮る数井さんに話しかける。
「ウニは痛そうだし、ボードに刺さって困る。貝は割れるし、タコは逃げそうだし、なまこは内臓が出ちゃう。どれも投げるのに向いてない。でも、新鮮なほやなら、固いゴムまりみたいに、ボンッて跳ねるだけ。ほんと、ほやチンコ考えた人は天才だね」
「そう聞くと、楽しそうに聞こえてくるから不思議ですね」
私の手の中に、くったりとした黄色の果実がある。殻を喪ったほやだ。今度は身に刃を入れる。くっ、と差し込むと、中からくすんだ緑の糸が大量に飛び出した。いわゆるわた、だ。
「うわあ」
数井さんが一歩下がった。生きてたんだから、いろいろ飛び出すんだよ。身を裏返して洗い、わたや排泄物を落としていく。確かに見た目はきつい。私だってこれを見ている側だったら嫌になる。だけど、自分の手でやっているから、平気。身にしっかり張り付いてなかなか落とせない黒いわたがある。包丁で軽くしごく。
「ああもう、こんなもんでいいや!」
だいたい綺麗になったということにする。食べやすい大きさに切って、ほや水で洗って、一つ完了。
「はい、手ぇ出して!」
数井さんの手の平に、ちょんと一切れ載せてあげる。
「では味見ー」
私がひょいと口に入れたのを確認してから、数井さんも恐る恐る口に運んだ。
「どう? 食べられる味?」
どうしてもほやが食べられない、という人も珍しくはない。
「海で溺れたときのことを思い出します」
「それって、美味しいの、不味いの?」
「鼻にまで磯の味が広がるっていうか……もちろん美味しいです!」
「じゃあ、もっと食べていただきましょうか」
ほや捌き続行。まだ勘はつかめないが、自分ひとりでなんとかできそうだ。宮城の子に生まれて良かった。
殻に刃を入れる、剥く、洗う。そんな単純作業を繰り返しているうちに、だんだん気分も落ち着いてくる。
「……さっきは、その、ごめんなさい、数井さん」
流しからは目を離さない。数井さんを見たら何も言えなくなる。
「いや、その、僕のほうこそ、配慮がなかったというか」
親のこと、弟に出された宿題、いろんなボールが手元にある。それらは全てしっとりとしていて、まだ生きている。投げるか、捌くか。
「私ねえ……ずっと母親とケンカ、してんのよ」
厚い殻にぐっと刃を刺す。
「ケンカというか……もう、わけがわからない」
「原因、とかは?」
殻の切れ目を広げていく。
「私と弟が仲が良すぎて気持ち悪い、って、母に言われてる」
殻と身をつなぐ最後の砦、根っこに指を入れる。さっきより強い力で抵抗されている。でも外れるときは、あっさりだ。
「笑い話、なんだけど。高校生のとき、男子ってエッチな漫画の貸し借り、やっぱりする?」
「僕はあんまり縁がなかったけど、周囲はやってました」
「女子高も似たようなもんで。あれは誰から回ってきたのかなあ。ヤンちゃんだったか、アメさんだったか。とにかく、私のとこにもそういう漫画が回ってきたの。クラスで流行ってて」
女子高って、実にしょうもないものが流行る。でも女子高以外の高校を知らないから、存外に高校とはそうしたものかもしれない。
「持って帰ったら、たまたま親に見つかって。たまたま漫画の中に、姉と弟もののが混ざってて」
私が弟大好きなのを知っていた誰かが、好意で混ぜてくれたのかもしれない。細やかでバカバカしい好意。
「母親に気が狂ったみたいに怒られた。けがわらしい、いやらしい、汚らしい、前からおかしいと思ってた、そんなことを。ずっと言われ続けて」
一旦怒りが静まったのかと思うと、数日経って、茶わんを渡すようなタイミングで、ぼそっと「気ちがいなの?」とか呟かれる。そんなのがずーっと続いた。
ほやの中身に刃を入れると、またどばどばと細長い内臓が飛び出す。洗い落とす。ほやの肉を裏返すと、まだまだ残っている。
「で、まあ、とっとと東京の大学に進学しましたよ」
それから母とは疎遠だ。父はもともと多忙で、そんなに縁がない。だから、ほやの捌き方なんて聞けないんだ。丁寧に教えてくれたその次の言葉に、どんな毒が篭っているかわからないから。
笑い話だと前もって言ったのに、数井さんはぴくりとも笑わなかった。残ったほやは淡々と向いた。ほや刺しと、レンジで簡単酒蒸しを作った。
「日本酒が本当に甘くなる! ほや、すごいですね!」
数井さんがようやっと笑ったのは、本格的にほやを食べ始めてからだった。これならもう海に落ちた味とは言わないだろう。
「しかし、ほやだけ、というのも晩御飯には足らないよねえ」
「そうですねえ……なんか食べに行きましょうか? こんなこともあろうかと、新幹線で調べてきました!」
「また食べログか!」
「今回はブログ読みました!」
ネット頼みのところは一緒だ。
というわけで、数井さんお勧めの屋台村まで歩いてきた。車ベースの屋台がいくつも軒をつらねていた。屋外だが席がたくさん並んでいる。子供も大人も好きなものを食べて飲んで、のんびりしている。
「おっ、こたつ席ですよ!」
五月も半ばだが、東北の夜にこたつは嬉しかった。そんなに寒くはないが、こたつが存在するということ自体がよろこばしい。
あちこちの屋台から、湯飲みにたっぷりの地酒、へそほや、名物石巻焼きそば、名産金華サバの炙り、などを手に入れる。いずれも素晴らしく酒の進む食べ物である。こたつ、酒、肴。天国か。
「そうそう、私、弟から宿題が出てるんすよね」
勝負のことを思い出したのは、湯飲みの日本酒が三杯目に突入した頃だった。
「数井さんとの仲を清算しろ、って言われてて」
「えっ、まだつきあってもいないのに!?」
こたつの天板が揺れる。数井、落ち着け。酒がこぼれる。
「なんかねー、ヨウが言うには、私ずるいんだって。数井さんの私への好意を利用してるだけなんだって。だから、そこんとこちゃんと清算しろって」
数井さんが手の中の湯飲みをもてあそぶ。
「僕だって、小野さんを利用してるのに」
「えっ、そうなの?」
「だってそうじゃないですか。僕だってはっきり何か告白とかしたわけじゃないし」
やっぱり『歩道橋になりたい』発言は告白じゃなかったよ!
「なのに小野さんは、友達っぽい感じで、面白いことにつきあってくれるんです。こんなの、都合よすぎるでしょう」
自然薯掘り、脱出ゲーム、酒蔵めぐり。いろいろ遊んだよね。
「だからその、この関係は、ウィンウィンってやつです!」
「あ、ダメな企画書によく書いてある言葉!」
「ダメ言わないでください。だから清算とか、止めましょうよ。もう少し、このままで」
もう少し、このまま、か。なんと甘い言葉だろう。ほやが水を甘くしてしまうように、この言葉もなんでも甘くしてしまいそうだ。
もう少しだけ、投げる日を後にしてもいいかなあ。それまで海鞘は待ってくれるだろうか。
* * *
カタカタと小刻みな振動でで目が覚めた。夜中の三時、なんだこれ、地震? 初期微動? 三十秒以上続いている。長すぎない? 震源どこ? 起き上がって自分が服のまま寝ていたことに気づく。すっかり酔っぱらって帰ってきたからなあ。ネットを見ても特に情報らしい情報はない。目を閉じる。振動は断続的に続いているかと思えばぴたりとやみ、また思い出したかのように鳴る。なんだこれ、心霊現象?
「そーゆーの、いやなんだけどなあ」
廊下に出て数井さんの部屋のドアを叩く。地震にしては長すぎた。かといって理由がわからない揺れも嫌だ。廊下はシンと静かだ。
「数井さん、数井さん」
何度目かのノックでゆったりと扉が開いた。眼鏡を外して半眼の数井さんだ。すさまじくぼやっとした顔をしている。すまん。
「なんでしょ」
「なんか、揺れてない?」
「そうかなあ」
首を傾げるとぴょんと立った寝癖が揺れる。
「とにかく、私の部屋に来てみてよ」
「はあ」
数井さんを連れて部屋に入ると、また壁がガタガタと揺れている。さっきより強い。
「ほら、ほら!」
「はあ」
起きているのか寝ているのか判然としない返事だ。
遠くでキャンキャンと犬の鳴くような声がする。きゃんきゃんきゃんきゃん、と犬が絶え間なく鳴けば壁もまた揺れ続ける。ここ、ペットありの宿だったんだ。
「めっちゃ揺れてるせいか、犬まで鳴いてる。犬、うるさすぎ」
「はあ……犬、ですか」
数井さんはのっそりとベッドに座った。待った、そこ私の寝床。
「犬でも地震でもないですけど、うるさければ部屋、変わりますよ」
「え! じゃあ何?」
まさか本当に心霊現象なの! 数井さん霊とか信じる人なの!
「……」
数井さんの目がぎゅっと細くなる。眼鏡ないとこんな顔なんだな。なんというか、間の抜けている。
「本当にわかってなさそうですねえ」
どうやら私の顔を眺めていた数井さんは一つため息をついた。
また犬が鳴いている。さっきより大きな声だ。甲高い小型犬の声がリズミカルに続いて私たちの空間を埋める。壁が揺れる。天井がガタンっときしむ。
「わっ」
霊か! 思わず飛びすさると数井さんに衝突した。
「ごめん!」
「落ち着いてください」
「じゃあ、何なの?」
「あーそれは……そのう、あれ、じゃないですか」
なんだよあれって! やっぱり霊なのかよ! うわあ! そういうのだめなんだよ!
「ねえ」
数井さんに手を差し出す。数井さんが黙って握り返す。私たちの手はどちらがどちらともつかず、ただ熱かった。酔いのように温度を帯びていた。よかった、生きてる人がいて。
「小野さん」
腕を引かれて身体ごと数井さんにぶつかる。背中にすっと他人の手が回る。
「あのう」
数井さんの腕の中に抱え込まれている。彼の発する熱の輪の中にいる。
「そこまでしなくても」
心霊現象は苦手だが、人がいれば平気になれる。
「僕のほうにも、いろいろと」
抱きしめられるわけでもなく、ただ腕の中にいる。顔が数井さんの鎖骨に当たって痛い。鈍くさい私でもわかってきた。これ、肉体関係一歩手前だ。遠くで犬が鳴く、長く鳴く。
「こういう近さになってから、明日、平静でいられるほうじゃないよ」
「僕もですよ」
ため息の熱が耳をかすめる。
「こんなうるさい霊、はじめてだよ」
「霊?」
数井さんが、ちょっと身を離して私の顔を見た。
「眼鏡がないからよくわかんないんですけどね……今、すごく真顔なんですよね、小野さん」
「たぶん?」
きゃんっ、きゃんっ、と犬がふた声鳴く。
「あれを、心霊現象だと?」
「もしくは、天井をきしませるほどでっかい犬」
「セントバーナードかなんかでしょうか」
「もしくはセントバーナードの霊とか」
自分で言ってみて嫌になる。霊では撫でまわすこともできない。
「はあ……この人、わかってんだか、わかってないんだか……」
数井さんのため息が長い。
「まあ、隣の部屋に行けば聞こえないでしょう。とっととあっち行って寝てくださいよ。僕はここで寝ますから」
スマートフォンだけを持たされて廊下に出される。ドアが閉まってすぐに、鍵のかかる音がした。
「なんだかなあ」
仕方がないから数井さんのベッドで寝た。寝床の中で数井さんのスマートフォンにしこたまメッセージを送る。「明日は早いぞ」「きゃんきゃん」「七時半出発って言ったのはおまえだ」スタンプもべたべた押した。肌にまとわりつく数井さんの熱を追い返すように。
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