2015年9月 五叉路の標(後)
空は黒く重たく、今にも雨が降り出してきそうだ。
「数井さん、傘、持ってる?」
「ないですねえ」
これから自転車でまた七キロ帰るのだ。今降られたらまずい。
「ね、そろそろ引き返さない?」
「そうですねえ……」
いつになく数井さんの返事の歯切れが悪い。
「そういえば、小野さん」
「おう」
「気になってたんですけど、僕に敬語使うの……やめてますよね?」
お、よくぞ気づいた。
「うん。気にしないことにした」
「なんで、ですか?」
数井さんは私より二歳年上で、なのに数井さんはいつまで経っても私に敬語のままだ。だから私も、なんとなく敬語にしていたのだが。
「昨日、一昨日と泊まったいわきの宿、気になるとこ、なかった?」
「というと?」
そうか、数井さんは気にならなかったのか。
「あんね、めっちゃ壁が薄かったの」
「はあ」
「私と数井さん、隣の部屋だったじゃん? で、向き的に、私のベッドと数井さんの部屋のテレビが壁越しにくっついてるの」
「……もしかして」
はーい、そのもしかしてですよ。丸聞こえだったよ、有料アダルトチャンネルの音がな。さすがプロの女優さん、最初から最後までセリフが敬語、丁寧語であった。それとも、あれはそういうジャンルなんだろうか。
「ああいうの見るときはイヤホンつけたほうがいいよ」
「…………」
「あ、数井さんの声は聞こえてないよ! 大丈夫!」
「……お気遣い、ありがとう、ござい、ます……」
* * *
「ってわけでさあ! ほんと聞こえるんだよ! みんなも気をつけようぜー」
「だっはっはっは、数井さん、災難だったね!」
高校時代の同級生、ヤンちゃんが爆笑している。彼女に会うのは実に四年ぶりだ。閖上から仙台にたどり着いた夜、私と数井さんは飲みに来ていた。ほかのメンバーは、ヤンちゃん、ヤンちゃんの旦那さん、そして私とヤンちゃんの同級生、アメさん。計五人だ。ここはアメさんおすすめの日本酒の美味しい居酒屋だ。我々はすでに二合の日本酒を六回はお代わりしている。
「……だって、ですよ」
数井さんが大ぶりのお猪口を握りしめている。
「いい年の男女が泊まりの旅行に来て、いい雰囲気のかけらもないんですよ、さみしくなるでしょう!」
「そうだそうだー」
ヤンちゃんの旦那さんこと門間先生が力強く賛同を示す。中学校の先生で、今年で四十六歳だそうである。白髪多めのせいか少々老けて見える。
「せり子さんは、この人とおつきあい、しないの?」
箸で数井さんを指す失礼な女、アメさんは二児の母。大学在学中に学生結婚なされた。人生の先輩であらせられる。
「数井さんがどうっていうんじゃなくて、つきあうとかそういうの全般に興味が持てない」
「数井さん、ふられたよ」
「わかってたけどショックです……」
数井さんはうなだれるポーズをとって見せる。
「小野さんはお勤めされてるし、仕事が充実してれば結婚とかは、ねえ。俺の職場にもそういう女の先生いっぱいいるよ」
お、門間センセーからフォローだいえーい。でもね先生、そんなんでねえんだよ。
「あ、せり子がだいぶ酔っぱらってんな」
「数井さんに持って帰ってもらおうか」
周りが好き放題言っている。ここは言っておかねば。
「聞け! おめさがた!」
「せり子さんって結構訛ってるよねえ」
「地元離れて長いのにな」
「あ、東京でも、油断すると訛りますよ」
数井うるさいぞ。
「いいから聞きさい! 私はな! まだ好きな人ばいるの! 呪いなの! だから結婚とか、つきあうとか、そういうのはないんだよわ。わかったか!」
勢いで手元にあったグラスを飲み干す。あ、水だこれ。
「呪い……って、その話、まだ生きてたのねえ」
「まだ好きとか言ってるのか、せり子?」
アメさんとヤンちゃんが顔を見合わせる。
「だいたい、ヤンちゃんと私とアメさんは、絶対結婚できない呪い同盟だったじゃん! それでも、もしこの呪いを克服して結婚することあらば! お互いにスピーチで祝福しあおうって、台本作って練習までしたじゃん! なのに、なんで二人ともしれっと私に黙って結婚してんだよ! バカ!」
「いやあ、すまん」
「ごめんねえ?」
「なんなんです、その呪い、って」
数井さんが首を傾げる。
「俺知ってる! この三人はね、好きになったらいけない人が好きってところで意気投合して仲良くなったんだって」
門間先生がうれしそうに語り出す。さすが先生、説明するのがお好きみたいだ。黒板があればそのまま書き出しそうな勢いだ。
「幸恵はお父さんが大好きだったんだ。義理のお父さんの若い頃が今の俺に似ててね、笑っちゃったよね」
そこ笑うとこ!? ヤンちゃんのファザコンは変わらずのようだ。
「アメさん……五十嵐さんは漫画のキャラが好き過ぎて、三次元の恋愛は無理! って言ってたんだそうで」
「今も大好きですう。でもまあ愛と情は別だと知りましたよ。恋愛しなくても結婚できるし、家族はいいもんです」
「そうだねえ、家族はいいねえ」
門間先生が目を細めた。
「で、せり子のバカは……」
ヤンちゃんが言おうとするから、その続きを言った。
「弟が好きだよ! 大好きだよ! バーカバーカ!」
「バカはおまえだよ」
「三十四歳にもなって言うことかなあ」
数井さんがすっと手を挙げた。
「はい、数井さん」
門間先生、すかさず当てる。さすがプロ。
「せり子さんの弟さんは、どんな人なんですか?」
「幸恵、答えてあげて」
先生、他力本願だ。
「えーとね、めっちゃイケメン。雰囲気イケメンとかじゃなくて、あれは本物のモテるイケメン。そしてクズの気配がする」
「ヨウのことクズ言うな!」
「せり子さん、落ち着いて」
アメさんに袖を引っ張られた。すいません。
「今、その弟さんは何をされてるんですか?」
「……仙台に、いるよ」
ヨウ、私の大事な弟は東京を離れて仙台に帰ってしまった。ヨウと私が東京でべったりの生活をしているのが親にバレたのだ。いや、あの子が死んだからかもしれないな。ヨウの拾ってきた猫が。
「せり子だけ、まだ呪いの最中なのかあ」
「もう、恋愛飛ばして結婚すればいいんじゃない?」
「なんかさあ……」
もう一口、水を含む。
「五叉路ってあるじゃん? 道が五本あるところ。なんか、ああいうところにずーっと立ってる気がする。選択肢がいっぱいある。けど、どこの道を行くか自分に意思がないっていうか……行きたい道がどこにもない気がするっていうか……自分に未来が、ないような気がするんですよねえ……」
四人が私のほうを見ていた。あきれたような、同情のような。そしてどこか淡い共感のような顔をしていた。
「俺の教え子も似たようなこと言ってんなあ」
中学生レベルの感慨だというのはわかってる。でも、大人と言われるこの年になっても、その気持ちはますます強まるばかりだった。
誰かのスマートフォンが震える。
「あ、私、終バスの時間だわ~」
アメさんが立ち上がる。
「今日、山形さ帰るの?」
「ううん、実家に子供と泊まり。明日パパが車で迎えに来てくれるのよ」
高校時代、好きなキャラクターの話をしていた時と同じ表情でアメさんが笑っていた。家族のこと、ほんとに好きなんだな。
「あのね、せり子さん。自分に未来がないような気がしても、きっと他の人は未来がある。未来が存在するという証拠。そう思うだけで、気が楽になるわよ」
「いいこと言うなあ。俺、学活のネタに使おうかな」
門間先生が頷いている。しかし、私とヤンちゃんはこの発言の元ネタを知っている。『俺に未来はない。だがお前に未来がある。お前は未来がたしかに存在するという証拠だ。だから俺はお前を守る』とかなんとか。たしかアメさんの好きな漫画のセリフだ。何が言いたいかはよくわからない。ただ、励ましてくれたのだ、ということだけが伝わってきた。
門間先生も明日は朝から部活だそうで、飲み会はお開きとなった。私と数井さんは明かりの消えたアーケードの中を歩いている。
「小野さんは、実家に泊まらなくていいんですか」
「だって、今、仙台にいるって言ってないもん」
「弟さんに、会わなくていいんですか?」
「お盆に会ったし」
数井さんと一緒に仙台に来たということが後ろめたかった。や、この人は友達なんですけどね。それでも。
「小野さん……さっき、五叉路の話してましたよね」
「五叉路、なんか口に出して言いたい日本語って感じなんだもん。あんな、人が亡くなったところをネタにすんなって感じだよね。ごめんね、数井さん」
名取駅へ帰るとき、再び通った五叉路で数井さんはしばし目を閉じていた。
「中央線」
「は?」
中央線って、東京から八王子とか西の方へ向かってるあの電車のことだよな?
「中央線、しょっちゅう人身事故が起きてるじゃないですか。でも、中央線って言うことを誰もためらったりしない。だから、五叉路は、五叉路です」
なるほど……?
「小野さんが五叉路から先に進めないのは、いいです。ただ、もし、そこに津波が来たら……全力で歩道橋に上がってください。歩道橋の上にいた人は、無事だったんです」
五叉路の標は、橋の下まで水が来たと示していた。
「で、その、僕が……歩道橋の役割になれたらいいなあって……思っているんですが……」
「はぁぁぁ!?」
私の裏返った声がアーケードの屋根に響いた。
「それ、どういう意味?」
「どうもこうもないよ小野さん! おつきあいとか無理なんでしょ? 結婚とかも考えられないんでしょ? でも、僕は小野さんのこともう少し大事にしたい! そういう意味だよ!」
何を言いだすの、この眼鏡インターネット男子は。
「とりあえず……私が、数井さんに言いたいことはだな」
「はい」
「その辺の話、一切フェイスブックとかネットに書くなよ」
「書かないよ! ……あ、でも、さっきの飲み会の写真あげました」
「それは許す」
「よかったー」
さっきの歩道橋発言は、プロポーズ、ではないよな。交際の申し込みでもない。たぶんもっと、純粋な何かの発露だ。
「あのね、数井さん……その、ええと、ありがとう」
意味がよくわからないけど、酔った勢いなんだろうけど、ものすごい好意を見せてくれたのだ。お礼を言わねばなるまい。
「でね……」
さて、私はこの好意をどうしたものだろう。頭を悩ませたその時。
「せり子ちゃん、いたぁぁぁあ!」
アーケード街を歩いていた人全員が、その声の持ち主を見た。よく通る声。見なくてもわかる、私の大好きな声。どんどんこちらへ近づいてくる。
「ねえせり子ちゃん、その人、誰?」
整った顔が困った顔でこちらを見ている。ヨウ、私の弟。大好きな弟。
「ヨウ、なんでここにいるの。っていうか、なんで知ってるの」
「ヤンちゃんのフェイスブックに、せり子ちゃんとヤンちゃんが飲んでるって載ってたから」
そっちかよ! 滅びろソーシャルネットワーク!
「俺もバイト上がりで近くにいたから、合流しに来たんだよ。メール見てないの?」
見てません。
「あ、ヤンちゃんの上げた写真にタグ付けされてた人だ。一緒に飲んでたの? なんで今二人きりなの? っていうかせり子ちゃん、なんで俺に黙って仙台にいるの? なんなの?」
「ええと……弟、さん?」
数井さんはやっと事態を飲み込めたようだ。どうしよう、どうしよう。
「とりあえず……」
「とりあえず」
「とりあえず?」
三人、顔を見合わせる。
「とりあえず、話そう? 俺、せり子ちゃんとこの人がどういう関係なのか、三時間は問い詰めるからね?」
ヨウはそのままスーパーの前のベンチに座り込んだ。
「せめて店に入ろうよ」
「いいや、今聞く、すぐ聞く、さあ話せ」
今、未曽有の危機が訪れていた。
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