第7話(閑話)しあわせな猫の飼い方

 運転席の窓がノックされた。彼が笑っている。後ろ手に何か持っているのがバレバレだ。ははぁ。まあ見て見ぬふりをしよう。だって今日はそういう日だ。

「せり子ちゃん!」

「ヨウ、寒いでしょ、乗って」

 助手席のロックを外すと、するりとヨウが乗り込んできた。

「せり子ちゃん、お誕生日おめでとう!」

 そんな言葉とともに、膝の上に置かれるダンボール。妙にあたたかい。

「何これ?」

 箱の中から、にぃ、と小さく鳴く声がした。

「!」

 箱を開けると青い瞳が私を見ている。茶色の耳にアイボリーの身体、品のよい顔立ち。猫だ。

「これは、なに」

「プレゼントだよ! 可愛いでしょ!」

「ほんとのところは」

 ばつの悪い顔。だが、こんな表情も悪くない。

「こいつ、店に入ってきちゃうんだ。何回追い出しても戻ってくる。店長が保健所に持ってってもらう! って怒るもんだから……その……」

 ヨウの職場はコンビニだ。猫は困るだろう。だが。

「私の都合も考えろ」

「頼むよ、せり子ちゃん」

 このセリフを彼が言うのは何度目だろう。うつむいた頬からあごにかけてのラインはほっそりとして、つい手をかけたくなる。ダッシュボードに触れた指のほれぼれするような造形。

「この子、病気なんだ。さっき店の裏で吐いてた……助けてあげなきゃ」

 夜の駐車場は耳が痛いほど静かだ。

「せり子ちゃんの部屋、猫、飼えるんだろ。俺、なんでも言うこと聞くから」

「なんでも?」

「なんでも」

 惑わず、迷わず、ヨウは言う。私が「捨ててきて」と言ったらどうするつもりなんだ。でも、私がそう言わないことを彼は知ってる。台本にあるやり取りなんだ。私たち二人の間にある、ずっと昔からの台本。

「じゃあ、毎日猫の様子を見に来てよ」

「それだけでいいの? そんなの言われなくたってやるよ!」

 ぱっと彼の顔が輝く。自分の願いが通ると確証が持てた、青信号の笑顔。

「名前、考えなきゃ」

「俺、もう、決めたよ。こいつは、なずな!」


 夜が明けて、朝一番で行った獣医師さんは「元気な男の子だね」と言った。診察台の上で、なずなはふてぶてしく体を横たえている。

「でも、吐いてたんですよ!」

 ヨウが診察台に手をかけて先生に詰め寄る。

「毛玉じゃない? 猫にはよくあることだよ」

「毛玉……」

 慌てて身を引くヨウのしぐさは二十代とは思えぬほど子供っぽい。でも、そこが嫌味にはならないのだ。

「小野さん。猫、飼うのははじめて?」

「はい」

 黙ってしまった彼の代わりに答える。

「これね、よく読んで」

 しあわせな猫の飼い方、というパンフレットを渡される。

「あと、落ち着いたら去勢したほうがいいね」

「去勢! そんなの……」

 ヨウがぴょん、と立ち上がった。

「去勢すると性格が落ち着いて寿命も延びる。悪いことじゃないんだ。この子はまだ若い。今がおすすめだよ」

「はあ……」

 ヨウは椅子に座り込む。その後の事務的な話はすべて私が進めた。診察券には「小野なずな」とある。この子は私の猫、私の責任の元にある猫なのだ。


 それからヨウはすっかり私の家に居座ってしまった。私が目覚めると、ヨウはだいたいゲームをしている。朝食を一緒に食べると、ヨウは私のベッドに入る。目を閉じたところを見てから私は仕事へ出かける。なずなは私が出ようとすると、すかさず着いてくる。

「ついてこないでよ」

 リビングのドアでガードすると、ガラスの向こうでなずなはふてくされている。ヨウみたいに可愛げがあればいいのに。

 仕事から帰ってくると、やっぱりヨウはだいたいゲームか、頼まれたという仕事をしている。イヤホンをしてパソコンに向かい合っているヨウの横顔は端正だ。なずなは風呂の蓋に載っていたり、クローゼットの上にいたりする。2DK、一人で住むには広い部屋だけど、ずっと外で暮らしていたなずなにとってここはどうなんだろう。

「ヨウ、ご飯だよ」

 ご飯、ワカメとじゃがいものみそ汁、茄子と豚肉の味噌炒め、卵焼き、キャベツの煮びたし。ありあわせの献立。

「せり子ちゃんの飯うまいよね」

 どんなものを作っても、ヨウは絶対ほめる。ヨウの低い静かな声で「いいね」って言われるだけで、私のお腹の中がざわざわする。喜びでぐるぐるしてしまう。

「ヨウ、そろそろ行く?」

「うん」

 週に三回、ヨウはバイトに出かける。なずなを拾った湖畔のコンビニ。車で小一時間ほどかかる。夜勤のときは私がヨウを送り迎えする。

「オーナーの奥さんの入院、長引いててさ。俺がいないとダメなんだよ」

 俺がいないとダメ。ヨウの大好きなセリフだ。私だってヨウがいないとダメなんだけど、ヨウはわかってるのかな。

 湖に向かって走る夜のドライブ。この時間が私は楽しみだった。お互いを見るわけでもない、ただ適切な距離。

「ガム、食う?」

「うん」

 口を開けて待ってると、ヨウがガムを放り込んでくる。指が唇にふれる。車内にミントの香りが立ち込める。

「せり子ー」

「んー?」

「なずなの去勢って、やるの?」

「そのつもりだけど」

 もらったパンフレット、インターネットの情報、飼い方の本、獣医師さんの意見。そのすべてが猫をしあわせに飼うなら、去勢をするべし、外に出してはいけない、とあった。

「去勢って、どういうこと」

「えーと、睾丸を摘出、する」

「睾丸なくて生きていけるのかよ?」

「大丈夫だから、やるんでしょう?」

「去勢したら……二度とやれなくなるんかな」

 はじめて猫を飼う私たちは、去勢、という言葉の重みに怯えていた。

 まもなく店だ。ウィンカーを出す。乾いた一定のリズム。路肩に車を寄せて止める。

「なずなは、せり子の猫だから、せり子の好きにすればいいよ」

 誰が私に猫を押し付けたと思ってるんだ、この野郎。意思を込めてヨウをにらみつけると、彼はするり、と降りていった。


 家に帰ると、なずなは窓のそばにいた。暗い中、ベランダと部屋とを隔てるガラスをじっと見続けている。

「なずな」

 リビングの中に踏み出した途端、足の先にびちゃっ、とした感触。

「また吐いたの」

 電気をつける。散乱したティッシュペーパー。転がっているリモコンは乾電池が飛び出している。

「やってくれたわね」

 なずなは相変わらず外を見ている。耳だけがぴくぴくとこちらを伺っている。こげ茶の尾が揺れる。

「悪さするようだと、ケージに入れるよ」

 ケージに入れるのはやめてほしい、そうヨウが言うからやめているのだ。

 簡単に後始末をして、なずなの脇に立つ。なずなはお愛想程度に私の足に顔をこすりつける。ケージはやめてくれ、と言っているのか。でも、部屋に閉じ込めているのは檻にいるのと何が違うのか。

 んにゃぁぁぁぁあ。なずなが高く鳴く。何度も、何度も。私を見上げて。

「何よ、なんだっていうの」

 鳴きながら、ガラス戸に前足をかける。

「ここから出たいの?」

 子供のころは、どの猫も去勢なんかしていなかった。ふらりと家を出て屋根に乗り、塀を巧みに歩き、気が付けば子供が生まれていた。でもそれは猫のしあわせではない、と調べた知識が言う。野良猫の寿命は平均二年。あっという間に増える代わり、五年以上生きられる野良猫は稀だそうだ。人間と暮らし、病や飢えから身を守るのが今の日本の猫の在りかた。

「出て、あんたは帰ってくるの?」

 リモコンに電池をはめ込む。はずみでテレビの電源がついた。低く流れる男性の声。

『……ここの猫たちは、水を嫌わないんですね。小川でも平気で歩くんです』

 画面には猫が数匹、川辺を歩いている様子が映っていた。自由に歩く猫を老人たちが見ている。たぶん、あの猫たちも去勢していないんだろうな。その代わり、すぐに死んでしまうのかな。

 んなぁああぁぁ。

「あんまり鳴かないでよ、苦情がきちゃう」

 猫の声がうるさい場合、声帯の手術をすることもあるそうだ。去勢とちがって、こっちは批判的な意見も多かった。繁殖する能力を奪うことと、声を奪うことと、どっちが酷なんだろう。箱の中の長寿はしあわせなのか。

「ああもう……」

 台所に行って焼酎をグラスに注ぐ。氷も水もないストレートだ。

「好きにしなよ」

 ベランダのそばに椅子を置き、窓を開ける。一月の乾いた冷気が流れ込む。電気を消す。

「行くなら行きなよ、私はあんたのことなんかわからない」

 なずなはベランダに出て手すりの上に飛び乗った。危なげのないしぐさ。何度もこんなことしてきた、と言わんばかりだ。そのまま座る。椅子に座った私と同じ目線の高さだ。「はっきりしないなあ」

 なずなの目線の先を見てみる。そこには隣家のアンテナがある。雲がある。焼酎を一口あおる。麦の香りが喉を流れていく。もう一口。寒いなんて言いたくない。三口、四口。グラスが空になる。台所へ瓶を取りに行く。

「おかわり、おかわりっと」

 戻ってきてベランダを見直す。なずなの姿がなかった。

「なずな……なずな!」

 ベランダに出て周囲を見回す。隣の屋根、両左右の防火扉。本当に出ていってしまったのか。

「どうしよう」

 急に不安と後悔が押し寄せてくる。ヨウになんて言おう。帰ってこなかったら、どうしよう。どうしよう、どうしよう!

 へぶしっ!

 足首にしぶきがかかった。猫のくしゃみだ。

「どこにいたのよ」

 青い瞳は何も答えない。

 部屋に戻り、座る。すると、なずなが膝の上に乗って来た。

「ねえ……いいの? このままだと去勢されるよ? あんたの遺伝子は残らないのよ? 猫集会にも出れないし、狩りだってできない。死ぬまでこの箱の中よ」

 部屋の中を指す。なずなは微動だにしない。膝にかかる重みが増してくる。あたたかい。背中に触れる。なめらかな手触り。こないだヨウが洗ってやったのだ。

「いいのね? あんたがここがいいって言うなら一生閉じ込めてやる。ご飯はカリカリか缶詰で、去勢してワクチン打って。あんたの都合なんか聞かず、一方的にしあわせにしてやる」

 窓を閉める。鍵をかける。カーテンを閉める。電気をつける。遠い国の猫が自由に歩き回るところを、あたたかくて安全な部屋で見よう。

 なずなの身体を抱く。おまえははヨウが、弟が、私にくれた誕生日プレゼントなんだ。二度と外へ出すものか。

 腕の中で小さくなずなが鳴いた。

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