2011年3月 猫の都合をきいてきて(後)

 時が経つ。

 数井さんが眼鏡を外して目頭をもんでいる。ヤンちゃんは身じろぎしない。寝ているのかと思ったが、目は開いている。私の仕事は淡々と進んでいる。

「そういや……や……遊佐さん」

 数井さんがヤンちゃんのほうを向いた。

「救援物資は何を持っていかれるんですか」

「マスクとタオルと軍手、乾電池と、飴ちゃん」

「それと、そっ、その、女の人の……使う……あれっすね」

 ふすまの向こうから黒岡くんの声が被さった。

「そうそう、ナプキン。避難所ではあんまり用意されてないらしいよ」

「俺らの会社、大阪なんで。だから神戸出身の人、結構いるんす」

 数井さんが曖昧にうなずく。阪神大震災、か。

「持ってく物はね、神戸で避難生活経験のある人に決めてもらったの。新品の物、くさったりダメになりにくい物、みんなで分けられる物がいいよ、って」

「配りやすいようにビニール袋もあるっす」

 故郷、宮城は地震が多い土地と言われている。年上の人たちは、みんな「宮城県沖地震」を経験している。どこのビルが倒れた、どこが地割れした、そんな話は私たちも聞いた。避難する時はブロック塀を避けて通れ、とかも知っている。でも、避難した後、どうしたらいいかなんて話、聞かなかった。これが三十年以上前のことと、十六年前の出来事の差なのか。

「ねー、せり子も一緒に来ない?」

「宮城にが?」

「うん。車あるんでしょ? 行こうよ。よく落ち着いて仕事してられるよね」

 落ち着いてるように、見えるんだなあ。

「仕事ば……あるもん」

 数井さんのマウスの動きが止まっている。数井さんは秋田出身。帰りたいのだろうか。

「仕事ってさあ、それ、今やらなきゃダメなこと?」

 ヤンちゃんはペットボトルの水を一口飲む。

「ダメっしょ」

 私はちら、と、作りかけのテスト項目表を見る。三月末に私たちがリリースするはずのシステムがきちんと動くかどうか、確認するためのリストだ。

「週刊雑誌だってお休みだよ。いろんなこと自粛だよ? 仕事だって、いいんじゃない?」

 ただテレビで見せつけられるだけなんて辛いよ。行かなきゃ。とヤンちゃんは言い添えた。

 それはヤンちゃんの心の都合だ。ヤンちゃんはえらい。人を巻き込んででも、何かをしようとしている。私も、そうすべきなのだろうか? 今すぐ辞表を出して東北へ走っていけば、何かの役に立つのだろうか?

 ヤンちゃんのすることは偽善のような気もする。自分のための行動。でも、それでも、しないよりは。ここでただ時が経つのを待っているよりかは、マシなんだろうか? 胸のあたりがぐるぐるする。津波が仙台空港を飲みこんでいくのを見たときの感覚。

 私は、どうしたらいい。ヤンちゃんが正しくて、私が間違っているのか?

「……遊佐さん。僕らの作っているシステムのお客さんは、誰だかご存じですか?」

 話し始めたのは、数井さんだった。

「僕らが作っているのはオンラインの通信教育システムです。使うのは……全国の小中学生」

「へえ?」

 ヤンちゃんの気のない返事と、数井さんの静かなトーンのギャップ。

「だから……その。僕たちは、新学期に間に合わなきゃいけないんです。どんなことがあっても必ず、新学期は来る、君たちは心配しないで、勉強していい、って、お客さんに、子供に、言ってあげなきゃいけないんです。それが……小野さんの仕事です」

 数井さんはノートパソコンのモニタに顔を隠して、身をかがめてしまった。僕はまあ、その協力会社なので、とかの余計なごにゃごにゃは、ヤンちゃんの耳には届かないようだった。

 ふすまの向こうの黒岡くんも、ヤンちゃんも黙っていた。私も黙っていた。

 私の沈黙は卑怯だった。数井さんが言ってくれたことは嬉しかった。けど、これは私が言わなきゃいけないことじゃなかったのか。私は再びモニタに目を落とす。仕事に逃げるのだ

 五時過ぎた頃。やっと書類一式が出来上がった。

 ヤンちゃんは私のベッドで寝ていた。数井さんはクッションを枕にして突っ伏している。ふすまの方からは黒岡くんの寝息が聞こえる。みんな寝ている。起こそうか、起こすまいか。とりあえず米をどっさり炊くとするか。

 ダイニングの黒岡くんを起こさないよう台所に立ち、いつものように食器棚の写真に手を合わせる。

「猫、っすか」

 黒岡くんが、のれんをめくってこっちを見ていた。

「そう、そーだよ。猫をね、飼ってたんだ」

「死んじゃったんすね」

「去年にね」

「そうっすか」

 黒岡くんは、同情とも無関心とも違う平坦な顔を見せてのしのしと洗面台へ歩いて行った。間もなく、豪快な水しぶきが聞こえた。男の子って感じだ。

 全員を叩き起こし、数井さんの手を借りてデータを提出し、おにぎりと昨日の汁をみんなで食べた。

「で……この味噌汁? って、結局、何なんすか? 芋煮ではないんすか?」

 と黒岡くんは相変わらず首をひねっている。

「芋煮って言うべき料理はさ、豚肉にジャガイモないし里芋を入れた味噌仕立ての汁なのよ」

「ジャガイモは邪道じゃない?」

 ヤンちゃんが脇でうるさいが、黙殺する。

「豆腐も野菜も入れる。だから……まあ、口の悪い他県民が豚汁! っていうことも、ある」

 山形のほうでは牛肉を入れた醤油仕立てこそ芋煮であると言い、それを俗に山形風芋煮と呼ぶ。横を見たら数井がすっと目をそらした。あいつ、鶏肉に醤油味がいいとか昨日言ってたよな。宮城風とも山形風とも違う亜種である。秋田県民め。

「だけど……芋煮と豚汁の差ってのはさあ。まあ、私は家で食べたら豚汁。外でみんなで食べたら芋煮……だと思ってるよ」

 芋煮は河原でかまどを作って煮て食べるもの。それが秋の風物詩なのだ。

「認めたくないものだな、たいして差がないっていう事実を」

 ヤンちゃんが七味を振りながら言う。まあね。大差ねえんだ。

「それなら……これ、芋煮じゃないっすかね」

「なして?」

「だって、……みんなで、一緒に食べてるっす」

 久しぶりに会ったヤンちゃんと私、数井さん、黒岡くん。他人の四人が供にした一夜。きっと二度とない夜。それは河原で囲む芋煮鍋みたいな感じだった。

「首都高が混まないうちに出るっす」

 そう言って、彼らはトラックに乗り込んだ。

「ヤンちゃん、黒岡くん、おにぎり食べて」

 結局、私は仕事を選んだ。東京に残る。故郷のためになにもしない。だから故郷へ向かう彼らに何かを渡したかった。

「そーだ、小野さん」

 黒岡くんが、窓からひょいっと顔を出した。

「また、帰り寄っっていいっすか」

「うん、来てよ。芋煮くらいしか出せないけど」

「帰りは……猫を連れてくるっす」

 彼は生真面目に言った。猫?

「家のなくなった、困ってる猫をを連れてくるっす。面倒見てあげてほしいっす」

「うちはいいけどさ、ちゃんと猫の都合、聞いてからにしてね」

「わかりました、ちゃんと聞くっす!」

 黒岡くんが親指をぐっと突き立てた。トラックが動き出す。

「行ってらっしゃい、ヤンちゃん!」

「おうよ! せり子も数井さんも、仕事頑張りなよ!」

「まがしとき!」

 私は黒岡くんを真似て指を突き立て、数井さんは小さく頭を下げた。

 トラックは東北へ向けてゆっくりと曲がっていった。

「……数井さん、これからどうします? 出社します?」

「うーん……ちょっと待ってくださいね」

 数井さんはすいすいとスマートフォンをいじる。

「ああ……会社は十時までダメですね。予定通り停電してます」

「データ送っといてよかったー」

 陽ざしがまぶしい。駐車場の梅がもう終わりかけている。春が進んでいる。

「小野さんは寝なくていいんですか?」

「ご飯作ったら目が覚めちゃいまして。ま、一度、家さ戻りますか」

 部屋中の窓を開ける。朝の風が部屋に流れ込んで、夜を振り払う。

「そだー、数井さん、チョコレートとチーズ、どっちが好きです?」

 こたつでぼんやりしている数井さんに小さなケーキを二個差し出す。昨日、コンビニで買っておいたのだ。

「なんですか、これ」

「ケーキですよ。お誕生日祝い、しましょうよ」

「僕の、ですか」

 数井さんはきょとん、としている。お前以外の誰がいるというのだ。

「ろうそく立てたほうがいいですかねえ。太いやつしかないけど」

「……いいです」

「歌いましょうか」

「それもいいです」

 数井さんはチョコレートケーキを選んだ。私のチーズケーキはスプーンを入れると雨上がりの土みたいな手ごたえだった。

 食後にはインスタントのコーヒーを淹れた。淹れたというより、溶かしたって感じの飲み物だ。口の中の甘さが何かに変わる。

「黒岡くんたち、どこまで行きましたかね」

「まだ首都高じゃないですか?」

 新潟周りで行くか、福島の内陸から行くかもまだ決めてないと言っていた。ヤンちゃんも大概いい加減だけど、黒岡くんもなかなか適当だ。

「ちょっと調べてみますかねえ」

 数井さんがブラウザを立ち上げて、いろいろなサイトを読み出す。私はテレビのリモコンに手をかけ、やっぱり止めた。

「あのう、数井さん。ありがとうございました」

 数井さんはマウスを動かす手を止め、こっちを見た。

「なんかこう、変なことに付き合わせちゃって」

「漫画喫茶で仕事するよりは、ずーっと良かったですよ」

 それなら、良かったんだけど。

「それに……あのう、ヤンちゃんに言ってくれたじゃないですか。『全国の小中学生に、新学期がちゃんと来るって、伝えなきゃいけない』って。……そのう、それ、ほんとは私の言うことなのに」

「ああ」

 数井さんが、不意に横を向いた。

「……僕の本当のお客さんは誰なんだろう、っていつも考えてるんです」

「はあ」

「僕は、ほら、協力会社の人間じゃないですか。外部の人間です。僕のお客さんは小野さんの会社です」

 数井さんがコーヒーを飲む。私も飲む。溶けきらない塊がある。

「小野さんの会社のお客さんは、全国の子供ですよね」

「うちの部署はね」

 会社全体で言えば、子供向けから大人向けまでいろんなサービスを展開している。

「だから本当は、僕が全国の子供のために頑張ってるって言うのは間違ってるんです。僕は、あくまで小野さんの会社にサービスを提供することを頑張る。で、小野さんたちが全国の子供のために頑張る」

 朝の数井さんは饒舌だった。高尾山の頂上にいた時みたいだ。

「でも。僕も新学期がちゃんと来るって子供に言いたい、です。それを言う権利は……本当は、小野さんたちにしか、ない。けど、言ってみたかったんです。すみません、なんか言ってることが変になってきた」

「数井さんに権利がねえとか、そんなことねぇっすよ」

 黒岡くんの口調が移ったな。

「最終的なエンドユーザー、誰のために作るかってとこは……一緒でしょう」

 数井さんが小さく笑った。

「今まで貰った中で、一番うれしい誕生日プレゼントだなあ」

「えっ、何が?」

「なんていうのか。聞いてもらえたこと、かな」

 数井、安い! 安すぎる男だよ!

「数井さん、不憫すぎます。あとでなんか買ってあげます」

「不憫だと言われると途端に辛くなったので止めてください」

「不憫です」

「やめて」

「不憫すぎる」

「…………」

 数井さんが黙ってテレビをつけた。朝のニュースは福島のこと、津波のこと、助かった人のこと、助からなかった人のこと、これからのこと、いろいろを告げていた。

 今日も理不尽の朝だった。

「数井さん……あのね」

「はい」

「私の親戚、まだ行方不明なんです。はとこの奥さん」

「……はい」

「私、ずーっと思ってたんです。私がもし仙台に住んでたら。うっかり仙台で結婚なんかしちゃったりして? 一戸建ての家を持とうと思ったら、土地の値段的に、海沿いの住宅地っていう選択肢はあったと思うんです」

「荒浜……とか、ですね」

 それは甚大な被害を受けた地域の名だ。

「こんなこと考えてもキリがねえ、ってわかってるけど……もしかしたら、津波に遭ったのは私だったんじゃないかって、考えてしまうんです」

 彼女はまだ見つからない。私はここでケーキを食べている。引き比べることに意味はない。わかっている。わかってはいる。

「小野さん」

「はい」

 数井さんはいったん息を吐いて、それから意を決したように私のほうを向いた。

「そういうことは、結婚してから考えてください」

「なっ」

 数井おめえ!

「そういうことは、もっとずっとずーっと、後でいいです。浮かんでしまうのは仕方がない、けど、自分で言うのは、やめましょう」

 数井さんは、私の頭を小さくなでた。風呂に入ってないから止めてほしい。でも、嫌な気分ではなかった。

「小野さん、台所借りていいですか? もう一杯コーヒーを飲みましょう。今度は僕が淹れますよ」

 どっこいしょ、と数井さんがわざとらしく立ち上がる。

「コーヒーに関しては、僕のほうが上手いですよ」

 くそ、ぐうの音も出ないぞ。さっきからやられっぱなしだ。

「インスタントに上手いも下手もないですよ!」

「あるんですよ、それが」

 コーヒーを飲んだら出かける支度をしよう。新学期が来るように準備をするのだ。猫を迎える準備もしなきゃいけない。そうだ、いつまでも座ったままではいられないのだ。私はテレビをつけたまま、数井さんの背中を追った。

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