2011年3月 猫の都合をきいてきて(前)

 やべーやべー。やべえよ、やべぇごたよ。よみがえってしまった地元の訛りでつぶやく。暗い非常階段、私の先を灯りが降りてゆく。前を行くのは数井さん。同じ案件に取り組んでいる協力会社のSEさんだ。いや、ネットワークエンジニアだったかな? なんかそういうやつ。

 懐中電灯で腕時計を照らす。二十一時。よもやこんな早い時間に会社を追い出されるとは思わなかった。あれから四日。もう四日、まだ四日。

 あの日は三月末にリリースするシステムを、テスト環境から本番環境に移行させる日だった。スケジュールは綱渡り。やばいなあ、やばいですねえ、が挨拶の代わりになっていた。それが今日になっても終わっていない。ただでさえやばいところにダメ押しの地震があって、工程は絶賛炎上中である。

 仕事がちっともはかどらない。輪番停電で社屋から追い出されたり、入れなかったりする。電車の本数は減ったまま。まだネクタイをして出社している人はいない。かくいう私もジーンズにスニーカー、リュックサックだ。アウトドアか。実際、昨日は会社に入れなくて、どうしようにもならなくて、高尾山へハイキングに行ってしまった。

 それにしてもやばい。明日の八時にはテスト項目表をデバッグ班に渡さないといけない。まだ一行もできてない。それはいい。今から徹夜で作ればいい。それよりやばいのは、社屋から追い出されてしまうことだ。参ったことに私のIDでは社外から社内ネットワークにつなげない。これでは、いくら項目表が完成してもデータがアップロードできない。明日、何時にオフィスが開くかわからない。うぬぬ。深夜残業を恋しく思う日が来ようとは。

「ぐぬー」

「どうしましたー」

 前を歩く灯りが止まる。数井、止まるな。後ろからも人が来る。

「止まらず聞いてくださいよ」

 また灯りが動き出す。振り返ればちらほら灯りが揺れている。みんな懐中電灯や携帯電話の光を頼りに降りてくる。節電でオフィスの灯りを減らすのはいい。許す。しかし、この非常時に非常階段の電気を消してしまうとはどういう了見なんだ。

「で、何がぐぬーなんですか」

 振り向かないまま数井さんが言う。懐中電灯の光の中につむじが浮かぶ。

「明日朝一までに、デバッグ屋さんにテスト項目表を送らねばならんのです」

「はあ」

「しかし、私は社外から社内システムにログインできません」

「存じております」

 その辺のセッティングは数井さんの会社が受け持っている。

「ぐぬぬー、です」

「小野さん、暗号化USBは持ってきてます?」

「…………」

 暗号化USB、物々しい名前だが要はパスワード機能のついたUSBメモリである。社外秘のデータ運搬に使う。本来は社外への持ち出し、禁止。

「仮に、お持ちだと仮定しましょう」

 こんな時だ。持ち出したからって怒られないと思いたい。

「作ったデータを暗号化USB経由で僕にください。そしたら僕が代理でアップロードします。僕は権限持ってますので」

「待った。私はこれから徹夜でデータ作るんですよ? 数井さんはどーするんですか」

「僕のほうは、なんか電車止まってるらしくて。面倒だから漫画喫茶にでも泊まろうかと」

 こともなげに言ったな。しかし、待て。

「私も漫画喫茶に泊まれと?」

「飽きたら漫画も読めますよ」

「うぬう」

 社屋で徹夜するのとどっちがマシだろうか。そもそもこのご時世に、漫画喫茶って営業してるんだろうか。地震当日の夜、社屋に泊まった人たちもいた。みんな口をそろえて「疲れた」と言っていた。二時間半かけて歩いて帰れた私は楽なほうだったのだ。

 悩みながら階段を降り続ける。八階……七階……うす暗い中、同じところを巡り続けているようだ。

 ジリリリリリンッ! ジリリリリリンッ!

 聞き慣れない黒電話の音がした。わざとらしいくらい黒電話の音だ。

「小野さん、電話じゃないんですか?」

「私か!」

 ポケットから個人携帯を引っ張り出す。番号だけが表示されている。見慣れぬ番号だ。でも、今は誰からどんな電話がかかってくるかわからない。恐れている暇はない。

「もしもし」

 悪い報せであってくれるなよ。

「せり子? これ、せり子の電話?」

 人の名前を呼び捨てにする感じ、この声。

「ヤンちゃん?」

「はい、遊佐ですやーん」

 やっぱり。高校時代の同級生だ。たしか今は関西のどっかで働いていたはずだが。

「せり子、今、何してんの?」

「会社で、これから帰るとこ。ヤンちゃんは何してんの。実家、無事だった?」

「実家ねー、三年前に建てたばっかりだからスーパー平気っぽいわー。心配してくれてあんがとね。せり子んちは」

「実家は大丈夫ー」

「そっかー」

 ヤンちゃんも私も生まれ育ちは仙台である

「ヤンちゃん、電話長くなる? かけ直していい?」

「じゃー、続きは会ってしよかー」

「ヤンちゃん、おめ、どこさいるのや」

「せり子の会社の、入口♪」

 会社の前に止められたトラックの前で、ヤンちゃんがへらへらとしていた。かつては頑としてスカートを履く主義だった彼女が、ジーンズを履いていた。隣に知らない男の人が立っている。男連れかおめえ。しかし、私も数井さんを連れてきてしまったのでいい勝負である。

「せり子、泊めて!」

 久しぶりに会ってそれはねえだろう。

「順番に話せや、ヤンちゃんよう」

 ヤンちゃんの大ざっぱな話をまとめるとこうである。

 ヤンちゃんは今、大阪に住んでいる。震災の翌日、気づいたら職場に辞表を出していた。理屈じゃなく、とにかく東北に行かねば、と思ったそうだ。しかし、ヤンちゃんの目的を知った会社の人たちは「しばらく休んでいい」と言ってくれた。それどころか、ヤンちゃんのために救援物資をトラック一杯用意してくれたのだという。そのトラックは社長の息子が運転してきたそうだ。ちらと見る。バンダナを頭に巻いた彼は、いかにも誠実な働き者っぽかった。

 聞けば聞くほどめちゃくちゃな話だ。ヤンちゃんの周りの人たちがいい人過ぎる。

「泊めるのはいいけどさあ」

 黒岡くん、という若者がぺこりと私に頭を下げた。

「とりあえず……数井さん」

 数井さんは、なんで自分がここにいるのかわからん、という顔をしている。すまん。

「数井さんも私の家に来てくれませんか。私、徹夜で書類作りますから。そしたら、数井さんにサーバに上げてほしいんです」

「はあ……まあ……」

「漫画喫茶ほど快適じゃないかもですが!」

 頼む、数井、空気を読んで!

「いいですよ」

 よし。

 高校で一緒にバカをやった同級生と、彼女の連れてきたよくわからん若者と、三人だけで夜を明かすのは嫌だった。誰か味方がほしかった。数井さんが味方になってくれる保証はないけど。

「とりあえず、私んちの駅で集合な」

 黒岡くんとヤンちゃん、二人に私の最寄り駅を教える。駅くらいしか目印のないところなのだ。私と数井さんは電車移動だ。

「電車、一時間くらいかかりそうだから、二人はゆっくり来て」

「了解! じゃー十時半に集合ね」

「二十二時三十分目安、で」

 十時半、では、まるで朝のような気がしてしまう。

「じゃあ、また後でねえ!」

 二人はバタン、バタン、とトラックのドアを閉めた。発進を待たずして私と数井さんも駅に向かう。

「元気な……人、ですね」

「ヤンヤンヤヤー、八木山のー」

 小さく口ずさむ。子供の頃から何度となく聞いたCMソング。

「ベニーランドのでっかい夢がー」

 数井さんが続いてくれる。さすが、仙台の大学に通っていただけのことはある。

「はずーむよー、はねーるよー、こーろがーるーよー」

 二人でユニゾンする。人影のない歩道に仙台の遊園地の歌が響く。

「ヤンちゃんは、昔、八木山に住んでたんです」

「八木山ベニーランド」

「それでヤンちゃん」

 ヤンヤンヤヤー、の歌を知らない仙台人はいない。

「ヤンチャだから……とかじゃ、ないんですねえ」

 数井さんが溜息のように言った。

「ああまあ……なんか、変になってますよ、今は」

 さっきのヤンちゃんは相当変だった。高校の頃も面白枠ではあったが、勢いだけの人ではなかった。今はなんだ。救援物資を積んで大阪からずーっと走ってきて、このまま仙台へ向かうと意気込んでいる。アテがあるのかと聞けばないという。とりあえずヤンちゃんの実家へ行って、適当な避難所に物資を配るんだそうだ。適当な、って。仙台だけでどれだけ避難所ができていて、どこが大変かもわからんのに。文化祭準備のとき「駄菓子は甘いモンだけじゃなくて、しょっぱいモンも腹に溜まるモンも、まんべんなく仕入れろ!」と怒ったしっかり者の面影はない。

 駅は今日もうす暗い。入口のホワイトボードは何度も書きこまれ、消された跡でうす汚れている。電車の中だけが明るい。そういや日中、輪番停電があったはずだ。家はどうなっているだろう。

「数井さんちは、停電対策どうしてます?」

「うちは……腐るものとかないんで」

 数井さんは自炊しない派か。

 電車は駅ごとにドアを開き、閉める。誰も乗り降りしなくても几帳面に開き、閉じる。東京の電車には開閉ボタンがない。

「ドアは節電、しないんですかね」

「バラバラに開けたり閉めたりするのも、かえって電力を消費しそうですが」

「そういうものですか」

「さあ」

 会話が心もとない。電車だけが確実に進んでいく。

「あの……一緒にいた黒岡くんって、いくつなんでしょうねえ」

「確実に二十代でしょうね」

 二十代でも、二十二なのか、二十八なのかでは、だいぶ心の持ちようが違う。私とヤンちゃんは三十ちょうどだ。

「数井さんは……おいくつなんですか?」

「僕は、三十二になりました」

「なりました?」

「はい、一昨日に」

「えっ……そのー、えーと、おめでとうございます?」

「いやあ……ありがとうございます……かなあ……」

 数井さん、額のあたりを指でかいている。それなら昨日高尾で言ってくれればよかったのに。お団子くらいご馳走したぜ。

「……とりあえず、降りましょうか」

 電車はいつしか、乗換駅に着いていた。


「ここ、東京なの?」

 駅前に再集合した四人の沈黙を破ったのはヤンちゃんだった。二十二時三十分、多磨霊園駅の駅前は暗かった。人気もない。静かなところなんだ。

「おっしゃりたいことはわかる」

 二人のトラックを私の契約している駐車場に止めさせ、代わりに私の車をコインパーキングに入れた。ついでにコンビニでいくらかの買い物をした。全員が私の部屋に落ち着いたのは、もうすぐ日が変わりそうなタイミングだった。

「広いっすね!」

 人の部屋をぶしつけに見回した黒岡くんが言い放った。古めのマンション、2DK。一人暮らしにはやや広くはある。

「前は弟が泊まりに来てたから」

「そうなんすかー」

「はい、お風呂使う人!」

 勢いよくヤンちゃんの手が挙がる、遅れて黒岡くん。

「はい、じゃー順番に使ってー」

 へーい、とヤンちゃんが立ち上がる。バスタオルご持参の様子である。

「あと、ご飯食べる人!」

 今度は三人とも手が挙がった。はいはい。コンビニで皿と割り箸を買っておいてよかった。

 冷蔵庫と冷凍庫をそっと開ける。日中停電があったはずだ。冷凍の豚肉に触れてみる。カチカチ。溶けた様子はない。実家から大量に送られてきた白菜と長ネギを切る。コンビニで買った人参、ジャガイモを剥く。里芋があればよかったのだが、ないものはしょうがない。鍋に放り込む。しめじ、こんにゃく、豆腐を入れる。味噌を溶かす。ご飯を研ぎ、炊く。久しぶりの作業。食事の支度なんてろくにしていなかった。最後にご飯を炊いたのはいつだったか。

「シャワー借りたー」

 ヤンちゃんがお風呂場から戻ってきた。そういや数井さんと黒岡くん、今、二人きりか。何か話すことあるのかな。チン、と電子レンジが音を立てた。



「ごちそうさまでした」

「はい、おそまつさまでした」

 希望者全員がお風呂に入り、晩ご飯も食べ終わった。なんとなく、みんな表情の影が減った気がする。

「いやあ……美味かったっすね、えーと……あの味噌汁、芋煮っていうんですよね?」

「えっ」

 黒岡くんの発言に、宮城在住経験者三人がぴたっと動きを止めた。

「部屋の中で食べたら芋煮でねぇんでねえの」

「里芋がなきゃ芋煮じゃないよー」

「僕は鶏肉を入れた醤油味のほうが……」

 私たち三人の剣幕に黒岡くんが固まった。黒岡くん、君は地雷を踏んだのだ。我ら宮城に縁持つ人間にとって、芋煮の定義はアイデンティティに関わる。いいか、山形風は邪道だぞ。

「と、とりあえず、俺、先に寝させてもらうっす! 明日も運転なんで!」

 黒岡くんはダイニングに敷いた弟用の布団に退避していった。賢明な判断である。

「じゃあ、私らはやりますか」

「はいはい」

 私と数井さんはこたつにノートパソコンをセッティングする。

「ヤンちゃんもさ、早く寝なよ。私のベッド使っていいから」

「せり子はどうすんの」

「徹夜」

 ヤンちゃんから、うげーという声が漏れる。仕方がねえべ。

「ああ、数井さん用にも毛布とか用意してあるんで、適当に、その」

「ありがとうございます」

 テレビはつけなかった。つけたくなかった。親戚の住む地域の動向。避難所の様子。傷ついた東北の風景。いくらでも気になることはあった。つけてしまえば朝まで囚われるように見つめてしまう。昨日までの私がそうだった。だけど人がいると、テレビをつけたいという欲求に打ち勝てる。

 淡々とエクセルに表を作り、文章を貼り付け、補足する。数井さんの指もキーボードの上で動いている。ヤンちゃんはクッションを抱いたまま、携帯をじっと見ている。ふすまの向こうにいる黒岡くんの気配はわからない。

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