2015年9月 ぬばたまの夜の更けるまで(後)
小さなスーパーをたっぷり時間をかけて覗いたあと、国道六号を渡る。山へ入っていく道。今日の目的地はこの上だ。急な登り坂。車も通らない。右側の山肌は草まみれだ。時折、フェンスや遊具が草の中からひょっこり頭を出す。太陽光パネルだけが妙に真新しい。一応、道に街灯はある。しかし点灯するのだろうか。数井さんが私の前を行く。登りでも歩くペースが変わらない。私は少しずつ離されながらついていく。
十分も登っただろうか、やっと「楢葉町総合グラウンド」の看板が出てきた。右手に折れて、駐車場の中に入る。砂利を踏む感触、懐かしい。割れ目からすすきや草がたくさん飛び出したテニスコート。故障中の張り紙がある電話ボックス。私と数井さんの足音だけがする。
スタンド脇の階段を上りきると、陸上のグラウンドが広がっていた。まだ誰の姿もない。
「今日、ほんとにここでイベントやるんですかねえ?」
「時間、早かったですかねえ」
たしかイベントは十八時開始と聞いている。今は十四時。そろそろ支度しはじめてもいいのではないか。
「どうしましょう、小野さん?」
「うーん……時間をつぶす場所もなさそうだしなあ……」
商店街の食べ物屋さんは、どちらもお昼でおしまいだ。車があればどうとでもなるのだろうが、歩きでは行くところを思いつかない。
「……ここで待ってるって言ったら、数井さんどうします?」
「じゃあ、そうしましょう」
グラウンドを見下ろすスタンドのベンチに二人、座る。グラウンドは一周四百メートルぐらいだろうか。記憶にある校庭よりは広い。空は晴れに限りなく近い曇り。
シュッと聞き慣れぬ音がしたので、横を見たら数井さんが蚊取り線香に火をつけていた。缶の皿に渦巻く緑。
「用意、いいですね」
「これも」
数井さんの手が私に伸びてくる。なんか貼られた。見れば数井さんの肩にも白いシールが貼ってある。クマのプーさんが描いてあるぞ。
「なんですか、これ」
「虫除けシールです。スプレーもありますよ」
「どこまで虫を避ける気ですか」
「嫌じゃないですか、なんか」
かゆみ止めもあります、と彼は言う。万全過ぎる。
蚊取り線香の匂いただよう中、二人でちまちまとスマートフォンをいじる。
「そういや、小野さんちの作業テーブル、調子どうですか」
「や、特に変わりありません」
先日、数井さんはうちに来て台所の作業用テーブルを組み立ててくれた。購入から完成までまるまる一日かかったが、数井さんは終始浮かれていた。変な人だ。
「天板は月に一度、トリートメントオイルを塗り込んでくださいね」
「はいはい」
その話、聞き飽きました。
「どんな風に使ってます?」
「料理するときは、なにかと物置きに使いますけど……」
数井さんの表情がみるみる曇っていく。あ、こういう返事じゃダメなのね。
「そうそう、こないだピザを生地から造りましたよ。台がしっかりしてるからやりやすいですね」
「いいですねえ、ピザ!」
これが正解っぽいな。うん。
「次はうどんにも挑戦してみようかなあ。粉もの練るのって、無我の境地になれていいですよ。達成感もあるし」
「ものづくりっていいですよねえ」
「仕事も一応、ものづくりなんですけどねえ」
「ええ、まあ」
忘れがちだが、私ら、お客さまにウェブサービスとか作って提供した仲なんである。
話をしてはいるが、別に互いの顔を見たりはしない。見ているのはずっとスマートフォン。レベル上げがはかどる。
グラウンドの隅に車が見えた。ややして若者たちが二、三十人ほど入ってくる。気がつけば一時間過ぎていた。
「お、準備ですかねえ」
「そうですねえ」
数井さんが持ってきたポテトチップのり塩味を割り箸でつまむ。数井さん、スナック菓子はお箸派だそうだ。たしかにスマートフォンが汚れなくていいや。
若者たちが下からチラ、とこちらを見上げる。
「私ら、どういう人間に見えてるのかな」
「箸でポテトチップを食べてる人間じゃないですか。そうだ、ビールでも買って来ればよかったですねえ」
「それもなんか違うでしょ」
お酒は嫌いではない。けど、この町にいるうちはふさわしくない気がする。
「小野さんはー、なんで楢葉に来ようと思ったんですか?」
眼下で若者たちが説明を受けている。大学生くらいかな。
「たまたま仕事のキリがよくて夏休みが今取れたっていうのとー、あとは……なんていうんですかねえ、そろそろちゃんと知らなきゃいけないかな、って」
「知るって、何を?」
「……震災?」
「はあ」
「あれから四年半経って。帰省するたび通る仙台駅前は何事もなかったかのような調子だし。実家は被害らしい被害がなかったし。身内死んでないし。友達元気だし。親戚の隣の家の人が津波にさらわれたけど、帰って来たし。いろいろあったけど、なんにもない。なんだか、そのことが後ろめたい」
割り箸ののり塩を舐める。磯の味。
「いいじゃないですか、それで」
「でも、大変なとこも、大変な人も、いるわけでしょう」
たとえばこの町。
「たぶん、これが、九州の話だったら私、こんな気持ちにならないんですよ」
「東北の、ことだから」
そう。東北のことだから。
「不思議なもんですよねえ、仙台から見ると青森と茨城って、たしか青森のほうが遠いんですよ。なのに青森にはなんとなく親しみがあって、茨城は納豆のとこ? くらいの感じで。東北六県って誰がどういう理由で決めたのかな。なんで私はそんな曖昧な線引きに、気持ちが振り回されてるんですかねえ」
「なるほど……興味深い着目点ですね。フェイスブックで聞いてみましょうか」
「聞くなよ!」
「冗談ですよ」
わかっているが、やや疑ったのも確かだ。
「いいねがいっぱいつくと思うんだけどなあ」
冗談だよな?
「書きませんってば。僕は、自分の体験や考えしかコンテンツ化しませんから」
「コンテンツ化?」
「なんていうんですかねえ、こういうところ行ったーとか、焼肉美味しかったーとか、そういうのって、自分だけのものじゃないですか」
そりゃあそうだ、体験なんだから。
「でも、それを写真や言葉で人の目に見えるところに出すと、それはコンテンツになる。誰かがそれを見て何か思う。何も思わないかもしれない。まあどっちでもいいです。そうしてコンテンツになって、消費されて流されていくと、僕の出来事なのに僕から離れていって、なんだか気分がさっぱりするんです」
「でも、全部が全部ネットに書けるわけじゃあないですよねえ」
たとえば仕事とかな。
「まあね。人をネガティブにさせそうなことは表に出しませんよ」
「じゃあ、そういうのはどうやってさっぱりさせるんですか?」
「物を捨てます。僕、捨てるフェチなんで」
「断捨離……とか?」
「まあ、そういう。僕の理想は全部の持ち物がトランク一個で収まることなんで」
ダメだ、だんだん数井ワールドについていけなくなってきた。
「掃除、楽そうでいいですね」
「楽ですよ。ルンバを放しておけばだいたい済みますから」
ルンバってトランクに入るのかなあ。
グラウンドの上では集合写真を撮っている。きっとあれもインターネットのどこかに載るんだろう。
どうでもいい話をしたり、飽きて周囲を歩いたり、グラウンドの様子を眺めたり、またレベル上げをしたり。私、福島まで来て何をやってるんだろう。
「手伝いに行ったほういいのかなあ」
目の前のグラウンドでは、たくさんのキャンドルホルダーが並べられている。バケツに浸す、目印に沿って並べる。その作業を学生さんたちがずーっと繰り返している。
「やってみたいんですか?」
「ううん」
やりたくはない。ああいうちまちました作業は苦手だ。
「じゃあ見てましょうよ。小野さん、変なところで真面目だから」
そうこうしているうちに陽がだいぶ落ちてきた。作業をする人、うろうろと様子を見る人、グラウンドやスタンドにだいぶ人が増えてきた。ざわざわとした人の気配が懐かしい。テレビカメラが来ている。その前でしゃべる人がいる。脚立に乗って写真を撮る人がいる。
「間もなく夜ですね」
「帰り道はぬばたまの夜でしょうねえ」
「ぬばたま?」
数井さんがきょとんと私を見返す。まだ表情がわかる程度には明るさがある。
「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く、とか。ぬばたまは和歌の枕詞。だから意味はないんですが」
「夜に掛かる言葉なんですか?」
「そう。ぬばたまって言葉は、べったりと重い夜、っていう雰囲気があるなあと勝手に思ってて」
街灯が点くのかどうかわからない帰り道、ぬばたまの夜って感じなんだろうなあ。
「なるほどねえ。ぬばたまーって感じ、何か出そうですね」
「妖怪ぬばたま、とか」
六時、点火がはじまった。ライターを持った人たちが火をつけていく。ひとつ、またひとつ、夕闇のあちこちに火が点る。やがて、グラウンド手前側、四分の一くらいのスペースに言葉が浮かび上がる。
『こころ つなぐ ならは』
キャンドルはひらがなの形に並んでいた。
「僕らも降りていってみましょうか」
「そうしましょうか」
お祭りと呼ぶにはどこかさびしくて、儀式と呼ぶには雑多な空気。言葉を形成するキャンドルホルダーにはそれぞれメッセージが書きこまれていた。大好き。楢葉。みんな。復興。福島。がんばろう。東北。絆。帰りたい。ふるさと。ありがとう。明日。忘れない。読み取れないほどびっしりと書かれた何か。色とりどりの大きな文字。絵。飾り。内側の炎を受けて浮かび上がる。夜に近づいていくほどに燈明は強さを増す。
「……私、ここにいて、良かったのかなあ」
「いいと思いますよ」
「ここの人じゃないのに」
「参加自由、って書いてあったじゃないですか」
「ここのこと、なんにも知らないのに」
「今日、少し知ったじゃないですか」
二人で言葉の縁にしゃがむ。
「僕、去年はじめて気仙沼に行ったんですよ」
「言ってましたねえ」
「でね、その後ネットで気仙沼の記事とか見かけると、なんか嬉しいんです。港の写真とかあると、あー知ってるわー、っていう、不思議な気分になる」
「はあ」
「小野さんも、そうなりますよ。これから楢葉のことを見かけるたびに、今日のことを思い出すんです。そして、あー知ってるわーって思う。きっと、それでいいんじゃないかなあ」
「それ、なんの役にも立たないのでは」
「知らないことは悲しめない。知らないことは喜べない。知らないことはわからない。知った、それでいいんです」
「……それも、誰かがフェイスブックに書いてたんですか」
「これは僕のオリジナルです」
頭では数井いいこと言うなと思うけど、気持ちは納得していない。腑に落ちない。だけど。
「なんかまあ……ありがとうございます、数井さん」
きっと私のことを思って言ってくれたのだろうから。
「心こもってないお礼、ありがとうございます」
「こもってますよ、多少は」
多少ねえ、と数井さんが曖昧に笑う。
炎が揺らめく。人々の影がざわめく。グラウンドの奥は闇に沈んでいる。ぬばたまの夜だ。
『ここ楢葉町では……六時から点火がはじまり……約三千本のろうそくが灯され……』
この様子を中継しているリポーターの声が聞こえる。誰かがテレビを通してこの光景を知っている。
知って、これから私はどうしたらいいのだろう。ただ好奇心のまなざしで傷だけを見て、満足しただけではないのか。後ろめたさを払いたくてこの町に来たのに、知れば知るほど罪悪感が募る。私は何をしにきたのだろう。本当に知ったのだろうか。
「小野さん、まだなんか考えてるんでしょうけど、そういうことはご飯を食べて、一杯飲んで、明るいとこで考えましょう。いわきの美味しい店、調べときましたから」
「また食べログで星の多いとこでしょ」
「レビューもちゃんと見てますってば」
願いの燈火に背を向ける。そして私たちは夜の道を降りていく。
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