2015年9月 ぬばたまの夜の更けるまで(前)

 二〇一五年九月四日金曜日。天気、晴れに限りなく近い曇り。ここは福島県、JR常磐線竜田駅。常磐線は上野から仙台まで、関東と東北の海側を結ぶ路線だ。だが、今はこの竜田駅で列車は止まってしまう。私たちを乗せてきた列車はすぐに引き返していった。

 同じ列車に乗ってきた人たちがホームで思い思いに撮影している。思ったよりは観光の人が多いようだ。線路をまたぐ跨線橋は閉鎖。その代わり小さな橋が二本架かっている。改札を抜け、小さな駅舎に入る。

『0.017μ Sv』

 駅舎に入ってすぐ電光パネルの表示が目につく。ここの空間放射線量を示している、らしい。ここは福島県双葉郡楢葉町、福島第一原発の二十キロ圏内だ。まだ、この町に許可なく宿泊することはできない。今日のところは。

 壁には折り鶴、地元のお知らせ、震災前の風景写真……さまざまなものが飾られている。そうした細々したものを、いちいち撮る人がいる。背の高い三十代男子、眼鏡、淡いブルーのシャツ。数井さん、旅の連れだ。

「それが新しいカメラですか」

「撮った写真が自動転送されて便利ですよ。レンズも明るいですし」

「はあ」

 数井さん、すかさずスマートフォンの上で素早く指を動かす。この間合いはあれだ。

「で、フェイスブックへの投稿もすぐできる、と」

「そうなんですよー」

 我が意を得たり、とばかりに数井さんはいい顔で笑う。

 彼は撮った写真をすぐにインターネットに出してしまう。それも身の回りの人の目につくところ、ソーシャルネットワークだ。

 数井さんと知り合ったのはずいぶんと昔のこと。数井さんは私の勤める会社の協力会社勤務で、ネットワークエンジニア? ITなんでも屋さん? みたいな人だ。私はデジタル系の制作に携わることが多く、自然と数井さんと組むことが多かった。

 仕事上でつかず離れずを繰り返し、プライベートでも縁があり、ついに旅行に至ってしまった。が、断じて彼氏ではない。

「お、遊佐さんから早速『いいね』が」

 数井さんはおもしろいこと、素敵なこと、ちょっとしたこと、みんなインターネットに流してしまう。だれかの視線が頭の片隅にいつもある。目の前にいる私のことはネットの次。そんな人を好きになるのは、私には難しい。でも私のことを第一に考えない男の人は、友達としては悪くない。そんなもんでいいんだよ、友達なんだから。

 駅前に出るとバスが止まっている。張り紙によれば駅やいくつかの待ち合わせ場所を経て、最終的に2F事務本館、というところにいくらしい。

「2Fって、どこの二階なんですかね?」

「福島第二原発、の略じゃないですか」

「はー」

 ここに来る前に『いちえふ』という漫画を読んだ。1Fは福島第一原発の略。ならば2Fは福島第二原発の略だろう。

 『未来へのキックオフ! 光と風のまち ならは』と書かれた看板。四月二十二日から使用できるようになったポスト。錆びたタクシー乗り場の案内。シャッターの降りた商店。足場の組まれた家。静かな田舎の町の風景に見える。

「じゃあ、行きましょうか」

 ここから二十分ほど歩いたところに、復興商店街と呼ばれるところがある。そこでお昼ご飯を食べよう、とあらかじめ決めてあった。

 駅から歩き出せばすぐに住宅街。二〇一一年以降、住むことを許されなくなった町。塀の上や隙間から勢いよく草木が飛び出している。家、家、空き地、家、空き地。空き地には資材や巨大な黒いビニールバッグがたくさん置かれていた。高さ、幅ともに一メートル以上はあるだろう。

「あれ、フレコンバッグですね。除染した土とか入ってるんです」

 数井さんがその巨大黒ビニールバッグを指す。

「そういや、遊佐さんが」

 遊佐、というのは私の高校時代の同級生だ。いつの間にやら数井さんとフェイスブックで『友達』になっていたらしい。

「ヤンちゃんな」

 高校時代の友人の本名は未だに馴染めない。結婚したので今は門間というのだが、ネットでは旧姓のままらしい。どっちにせよ私にとっては、いつまでもヤンちゃんでしかない。

「阪神大震災で被害を受けた町はブルーシートの青、今回の震災で津波の被害を受けた町は茶色、福島はフレコンバッグの黒、の印象がある、と書いてましたね」

 しゃべりながら歩く。食堂、魚屋、薬局。家と家の間に挟まるように小さな商店がある。日本全国、どこにでもある町だと思う。ただ、目に見えない何かが降り積もっているような気がする。放射線とかなんとか、身体の害になるようなものではなくて、ただ、もっとあいまいな何か。ここが特別な地域だと知っている自分がそう感じてしまっている気もする。

「なんだか高尾山を思い出しますね」

 二〇一一年三月の震災直後、私と数井さんは高尾山に登った。がらんとした人のいない山頂。あのとき、世界をやけに黄色く感じた。あれはスギ花粉や黄砂のせいだったんだろうけど。

「あ、猫」

 猫が水たまりを舐めている。わりと太っている。ご飯をもらってるのかな。数井さんがレンズを向けたら、ぴょんと走っていった。

「撮れなかった……」

「当たり前ですよ、撮らせてくださーい、って声かけなきゃ」

「猫にですか」

「猫だからです」

 猫は写真がなんだかわからないからな。

「猫写真って、みんな好きなんですよ。僕も好きです。だから撮りたいんですけどねー」

「あー、そういうのダメ、いちばんダメ、猫に嫌われますよ。猫をダシにしようっていう心がけがよくない」

「なるほど、そういうものですか」

 数井さんは存外に素直な男だ。だから友達づきあいできるんだけどさ。

 さらに歩く。今日は歩くしかない。車で来る、という選択肢もあった。でも、私は歩きたかった。車で過ぎることで、とりこぼしてしまう何かがあるはずだ。歩いて何かがわかる保証もないけれど。

 塗りたてのように綺麗な壁の美容室。止まったままの時計が不釣り合いだ。針は二時四十九分を示している。

「震災のとき止まったんですかね」

「時計って、揺れで針とかずれないのかな」

 ボロボロのバイク屋。雨どいが落ちて垂れ下がっている。側面の窓ガラスも割れたまま。ブルーシートが力なく落ちている。ほこりまみれのバイクやスクーター、自転車。色あせたポスター、整理されたままの工具類。美容室は今にも人が出てきそうだったのに、バイク屋さんは廃墟同然だ。

 何かを崩す音がする。向かいの家の敷地でショベルカーが動いている。まったく人がいないわけではない。たまに車も通る。

「明日で規制解除、なんだっけ」

「そうそう。ふつうに住んでいいんですよ」

「ふつうに」

 ふつう、ってなんだっけなあ。

 ゆるやかな坂道から、急な坂道に変わっていく。三十代にはキツい登坂。その頂上に中学校がある。ここの生徒はみんなこの坂を登るのか。校舎が見えてくる。二階建てのコンクリート造り。

「小野さんとこの中学って、どんなんでした?」

「鉄筋の四階建てでしたねー。よくあるやつ」

「うちは木造でしたよ」

「まじで」

 いずれにせよ、目の前にある、大きなガラス窓の目立つ校舎とは雲泥の違いだろう。

 中学校のぐるりを回る。「ハイタウン赤粉宅地分譲中」という看板があちこちに立っている。校舎の裏は、掘り返したようなむき出しの土。いくつもの重機が並ぶ。竹林から鳥の声がする。中学を離れて坂道を下る。町民体育館、そして国道六号。車が頻繁に往来している。

「おお、横断歩道だ」

「この町で初信号ですね」

 横断歩道を渡ると「食べるも! 買うも! ここなら商店街」という青い看板が飛び込んでくる。プレハブの連なった細長い平屋だ。側面にしだれ桜の絵が描いてある。駐車場はほぼ満車に近い。

「ああ、ちょうどお昼どきにぶつかっちゃいましたねえ」

 十二時二十分。現場で働いている人たちが押し寄せてきたのだろう。作業服の人たちだらけだ。青、緑、茶色、いろんな上着の色。サラリーマンの昼食とはだいぶちがう色合い。

「どうします? ここでお昼を食べようとは思ってましたが」

 三件のお店を順番に覗く。お蕎麦屋さん。定食屋さん。そしてスーパー。どこもごった返している。私たちは物見遊山だが、働いている人は時間が限られているだろう。

「ちょっと時間ずらしましょうか」

「そうですねえ」

 とは言っても、ほかに店はない。ベンチもないし、公園もない。しかたがないから、プレハブの壁に二人してよりかかる。桜の絵の余白には、マジックの落書きが散りばめられている。

「こういうのって……絵、そのものの上には描かないんだねえ」

「隙間が空いててさみしいって思うんでしょうか」

 流行りの妖怪、うさぎ、アンパンマン。どれも子供の絵だ。

「高尾山には、なんか不良っぽいサインが多かったですね」

「スプレーで描いたやつね」

 会話がすぐに途切れてしまう。数井さんはスマートフォンをいじっている。私もいじっている。することがない。買い物袋を提げた人たちが胡乱な目で私たちを見る。ここに来る人はみな仕事着、スーツか作業服なのだ。シャツだのパーカーだのを着た私たちは浮いている。この町には私たちの居場所がまだない。

「観光に来て、よかったんですかねえ」

 数井さんの顔を見ないようにしてつぶやく。この町に彼を誘ったのは私だ。来たかったのだ。どこか、震災の傷の残る土地を知りたかった。でも、一人で来る度胸は持てなかった。

「物見遊山でも構わない、遊びにきてください、って遊佐さんは書いてましたけどねえ」

 またヤンちゃんの受け売りか。すっかり仲良しさんだな、君ら。

「でもヤンちゃん別に楢葉の人じゃないじゃん」

「でも、僕らよりは、東北の人なんじゃないですか」

 数井さんは秋田出身。私は仙台出身。二人とも大学進学で地元を離れた。震災をきっかけに故郷仙台に帰ったヤンちゃんにくらべれば、東北濃度は薄い。

「でも、私らだって、自分を東京の人間だと思ってないでしょう」

「そりゃあまあ」

 そろそろ東京にいる時間と仙台にいた時間が半々になる。このまま働き続けるなら、私の成分はどんどん東京の比重が高まっていく。どれだけ住めば自分のことを東京の人間だと思うようになるのだろう。

 隣の横顔をちら、と見る。何か考えている。スマートフォンの上で指が動いている。ネットかな、と思って画面をのぞき込んだらゲームをしていた。はは。

 駐車場の片隅に青いトラックが見える。ガードマンが二人も立っている。後ろのドアが開いて階段がついている。荷台の中に乗り込めるみたいだ。

「あれ、なんだろ」

「どれどれ」

 数井さん、手元のカメラを構える。レンズがたけのこみたいに長く伸びている。

「とう、ほう、って書いてありますねえ……東邦銀行移動店舗車」

「移動店舗車?」

 窓口が中にあるんだろうか。

「ATMが入ってるみたいですねー」

 インターネットを見て数井さんが言う。五十歩くらい行けば現物があるのに、カメラで覗いて、ネットで調べて。私たちはなんでもそうやって知った気になっている。朝、天気が気になるとき、窓の外は覗かず天気予報サイトを見るように。

 インターネットでわからないことが知りたくて、ここに来たはずなのに。それにしても手持無沙汰だ。ネットの中にしか居場所がないような気がする。いつまでしゃがみこんでればいいんだろう。私は何を知りたくて、ここに来たんだろう。

「車、減りましたね」

 数井さんの声に顔を上げると、駐車場がいくらか空いていた。

「そろそろお昼にしましょうか」

「ほい来た」

 協議の結果、おそば屋さんを選んだ。中に入ると壁一面に手描きの文字がぎっしり詰まっていた。

「復興に来ました」「高知から来ました」「がんばろう楢葉!」「美味しかったです」「ソフトクリームまた食べに来ます!」

 いろんな人の文字が模造紙にぎっしり詰まっている。

「取材?」

 食券を渡したおじさんに声をかけられた。

「いえ……ちがいますけど」

「こっちの人?」

「ええ、まあ……」

 東日本、っていう意味でこっち、くらいのつもりで相槌を打つ。何か用事があって来たわけでもないし、地元の人でもない、縁があるわけでもない。

 明日、九月五日の零時を迎えると、この町は再び住むことができるようになる。規制解除まであと十一時間くらいか。それで今日の夕方から「キャンドルナイト」というイベントをやるのだそうだ。明かりを灯して亡くなった人を悼み、これからを願う。

 ただ、わけもなくこの町に来てみたかった。というのは、不謹慎だろうか。今日見たものを思い返す。フレコンバッグ、止まった時計、草ぼうぼうの公園、除染作業の看板、崩れそうなお店。傷ばかり見ている気がする。プレハブの復興商店街は真新しいかさぶた。でも、傷ばかりではないんだ。震災よりも前からの光景だって残っている。むしろ、そのほうが多い。なのに傷ばかり探して見ているようだ。私、なんだか浅ましいよなあ。

 数井さんはまた写真を撮り、ネットに上げている。数井さんが何を撮り、何を書いているかは知らない。私はネット上の『友達』じゃないからね。

 冷やし蕎麦が来る。添えられたプチトマトが青臭くて、妙に美味しい。食後には名物のソフトクリーム。

「おー、みかん色だ。すごい黄色い」

「味もみかんっぽいですねえ」

 よくあるさっぱり系柑橘ではなく、甘味強めだ。

「幸せの黄色いソフトクリームだって」

「なるほど、幸せの甘さですか」

 そういや数井さん、いつまで経っても敬語のまんまだな。年上なのに。

「さて、行きますかねえ」

「はいはい」

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