蛇の瞳

佐原 虹

蛇の瞳

 八月、東の山辺が微かに白み始めたばかりの早朝。辺りは依然として夜の闇に包まれており、草木の中で虫が鳴いている。

 ようやく永遠にも思われた一年が経ち、またこの村に戻ってくることができた。

 私は眠る山村を抜け、山の麓に聳える鳥居をくぐって石階段を上り始める。心が急くままに足取りは次第に速まり、息を切らしながらも何百段もの階段を休むことなく駆け上がった。階段を上り終わると、息を整えるのも忘れ、二つ目の鳥居をくぐる。

 来る日も来る日も求め続けた人は、やはりそこに佇んでいた。


 彼に初めて会ったのは去年の夏のこと。雲は薄く空は青かったのをよく覚えている。

 私は両親と共に祖父母の住む山奥の村に帰省していた。春に大学受験を控える私はこの帰省に気が進まなかったが、祖父母を思えば嫌とは言えない。久々に祖父母と話をして昼食を取り、近くの山へ遊びに出かけていた。

 まだ日は高く、夏の盛りを迎えた猛暑だ。日差しは硝子のように照り、肌を刺す。私は吹き出した汗にたまらず木陰に駆け込んだ。草木の青い匂いを吸い込むと、日頃の疲れのせいか強い眠気が襲ってきて、私は木に背中を預けて座ると目を瞑った。


 どのくらいの時間が経ったのだろうか、ぱきりと枝が踏まれる音にはっと目覚めた。

「君、具合でも悪いの」

 いつの間にか目前に佇んでいた男が、私をじっと見つめていた。

「……あ、いえ。その、寝ていました」

「寝てたって。こんな山中で危ないよ」

 彼は可笑しそうに笑った。そちらこそ何故こんなところに、と少し拗ねたような気持ちで彼を見つめる。彼はラフな格好をした穏やかな雰囲気を持つ男だった。烏のような黒髪と女性のような色白の肌、明るい土色の瞳が目を惹いた。

「君の名前は?」

「……泉夏芽です」

「泉って言ったらあのタケさんの家の子かな」

「はい。タケは祖父です」

 祖父の知り合いか、と思って私は肩の力を抜いた。

 飄々とした雰囲気を醸す人だ。二十代、いや、この落ち着き様はもしかすると三十代かもしれない。

 暑い中ずっと外に出ていては倒れてしまいそうで、彼に帰ることを告げると「家まで送って行っていこう」と言われた。私は突然の申し出に戸惑いながらも小さく頷いた。

 道中と言っても五分ほどだが、見知らぬ人と一緒に歩くのに不思議と緊張感や警戒心が起こらない。会話はなかったが、彼のどこか浮世離れしたような雰囲気が張り詰めた空気にさせなかった。

 祖父母の家の前に着くと、彼は私の肩に手を置いて子供に言い含めるように言った。

「もうあんな所で寝てはいけない。山は君が思うよりも危ない。奥で迷えば山に取られてしまう」

 優しい声音で諭され、素直に頷く。

「……はい。気をつけます」

 それでは、と言って私は家の門をくぐった。玄関に入った瞬間、送ってくれたお礼を言い忘れていたことに気付く。私は再び門の外に出たが、すでに彼の姿はなかった。


 二日後、私は両親に連れられて、村の山にある神社に初めて来ていた。この神社では白蛇が信仰されている。境内は山頂にあり、そこに行くためには山の斜面に作られた長くて急な石階段を登らなければならない。

 私はゆっくりと上る両親に焦れて、一人駆け上がった。山頂に着いて石畳を辿ると、大きな赤い鳥居と荘厳な楼門があった。その奥には右に手水舎、左に小さな社務所がある。落ち葉も無く、山奥の神社とは思えぬほど立派で、とても綺麗に手入れされていたが、参拝客は一人もいなかった。

 門の近くに立っていた神職の格好の男性が「走ってきたの」と私に声をかけてきた。あ、と私は驚きの声を上げると、彼はまた会ったねと微笑んだ。一昨日、山で出会った人だ。

 彼は己をカガチと名乗った。名字か名前か。どちらにしろ風変わりだ。

「カガチさん。一昨日は送ってくださってありがとうございました」

 頭を下げてお礼を言うと、カガチさんはどういたしましてとにっこり微笑んだ。

「今日はお参りで?」

「はい。受験生なので合格祈願を」

 そう言うと、カガチさんは嬉しそうに白蛇の伝説を分かりやすく説明してくれた。

 彼曰く、白蛇とは幸運の象徴であり、脱皮を繰り返すゆえに不死の象徴でもあるという。ここの蛇は山の岩肌に合わせて保護色の白に進化したらしいが、古代では白以外にも様々な色に変化し、見る人を魅了して心を奪ったという言い伝えもあるそうだ。

「君が合格するのを祈っているよ」

 カガチさんは微笑んで頭を撫でてくれた。

 ひらひらと手を振って去っていこうとする彼の背中に声をかけた。

「また明日、来ていいですか」

 私の言葉に振り返った彼の瞳は、日差しのせいか、この世の全ての赤を閉じ込めたように見えた。心臓が俄かに騒ぎ出す。もっと近くから覗き込んだらどんなに綺麗だろう。想像するだけで震える心地がした。

「もちろんいいよ」

 頷いた彼に、私は思い切って言った。

「明後日も、いいですか」

 彼は虚をつかれたように目を見開いた。私は浮かされたようにその瞳をじっと見つめて待つ。やがて彼は嬉しそうに頷いた。


 翌日、しんとした神社には参拝客が一人もいなかった。玉のような汗を額に拵え、やっとの思いで階段を上ると、昨日よりも息が切れていた。息を整えながら顔を上げると、彼は鳥居のところに立っていた。

「また走って来たの」

 苦笑されて恥ずかしく思っていると、カガチさんに手を引かれた。ひんやりとした大きな手だった。そして、彼は今私が登ってきたばかりの階段を降り始めた。私の表情に気づいたのか、カガチさんはくすくす笑う。

 百段ほど降りたところで、カガチさんは足を止めた。突然、彼が脇の藪を掻き分けると、獣道のようなものが現れた。

「俺だけの場所なんだ」

 そう言って笑う彼は少年のようだった。カガチさんは一体何歳なのだろうと思った。

「カガチさんだけの場所なのに、私に教えてもいいんですか」

 私がそう尋ねると、彼は目を瞬かせてきょとんとした。彼は少し考え、そうか、そうだね、と小さく呟く。しばらく彼は考え込んでいたが、急に腑に落ちた表情で、君には教えたいと思ったんだと笑った。私はその言葉に思わず顔が熱くなった。

 しばらくすると視界が開けた。連れて行かれたところは山の中腹辺りだろうか、村の端から端まで、更には向こうの空に霞む連山を一望できる場所だった。眼下には緑が生い、向こうには小川が光っている。秋は紅葉が絶景に違いない。

「綺麗だろう、ここは人も来ないお気に入りの場所なんだ」

 彼は目を細めてそう言うと、近くにあった大きな白岩に腰掛けた。私も彼に導かれてその隣に座って原風景を眺める。

「ナツメという名前は、どんな字を書くの」

 ふと名前について尋ねられ、私は近くにあった木の枝を取り、地面に「夏芽」と大きく書いた。興味深そうに地面を覗き込んでいたカガチさんに枝を渡すと、彼はそれを受け取って「加賀智」と書いた。

「珍しい名前ですね。名字ですか」

「うん」

「下のお名前はなんですか」

 加賀智さんは私の顔を見ると困ったように笑うばかりで答えてはくれなかった。

「なら、おいくつですか」

「当ててみて」

 加賀智さんは少し挑戦的に言った。

「二十六。ううん、それとも三十ですか」

「うん。そんな感じ」

 結局正解を教えてくれず、私は膨れた。加賀智さんはあまり自分の話をしてくれなかったが、彼は私の話を興味深そうに聞いてくれるので、その日は時を忘れるほど話した。西の空が茜色に染まってきたのにようやく気づき、二人で驚いて笑い合った。


 それから一週間ほど経ったが、加賀智さんは相変わらず己の事を殆ど話してはくれなかった。しかし、その代わりに山のあちこちを案内してくれた。竹林、杉林、何故か山中にうち捨てられたオートバイ、古井戸、廃屋、防空壕、そこをねぐらにする動物たち、美しい草花──生まれて初めて見た光景が沢山あった。彼だけのお気に入りの場所にもたくさん連れて行ってくれた。

 彼は私に日が落ちる頃には必ず帰宅するように言った。そのため、私は毎日朝早くここに来ていた。一度、仕事の邪魔にならないかと尋ねたが、休みだからと言って彼は毎日私に付き合ってくれた。

 今日はとても綺麗な湧き水が出る泉に連れて行ってくれるという。山の途中まで階段で降りると、加賀智さんはまた脇道に逸れて杉の木が聳える緩やかな斜面を下り始める。私は落ち葉で滑らないように加賀智さんに慎重についていった。ここに来て、動きやすく平たい靴で来れば良かったか、と背伸びして履いてきたことを後悔した。

「夏芽」

 加賀智さんは小さく微笑み、手を差し伸べた。私は顔を赤くしながらおずおずとそのひんやりとした手を取り、二人で斜面を降りて泉にむけて歩いた。

「着いた、ここだよ」

「……きれい」

 私は茫然と泉を見つめた。彼の手を離して泉のほとりに座り、水中を覗き込む。そこに泳ぐ魚はまるで飛んでいるようで、その影をはっきりと底に見ることができた。

「加賀智さん、今日はここで食べませんか」

 こんな場所で食べるご飯はいつにも増して美味しいだろうと思って、私は加賀智さんに声をかけた。

「うん」

 私は泉の縁に腰掛けて弁当を広げた。彼は味わうように食べ、美味しいと嬉しそうに微笑んでくれる。作り甲斐があるというものだ。

 食後はそこで腰掛けたまま語らった。いつものように私がいろいろなことを話して、彼がそれを聞いて質問する。話が途切れて沈黙になり、見つめ合って、私は尋ねた。

「加賀智さんは恋人とか奥さんとかいないの」

 聞いたそばからまた答えてくれないだろうと思った。彼は困ったように笑ってはぐらかし、同じ質問を私に返す。意地悪で答えてくれないのではないとはいつも感じてたので、理由は気になったがどうしても追及することができなかった。だから今回も、きっと答えてくれないだろう、そう思っていた。

「……いないよ」

 え、という言葉を飲み込み、私は目を見開いた。その事実よりも質問に答えてくれたことの方が意外だった。

 好きな子がいる、と加賀智さんは穏やかに言った。私は彼の瞳の中で陽炎のように揺れる自分を見つめていた。

「夏芽」

 突然、風が森の中を吹き抜け、彼の言葉はさらわれてしまった。私はその突風に強く体を押されてバランスを崩した。

 泉に落ちる、と血の気が引いたとき、加賀智さんが私の腕を掴んで支えてくれた。私は安堵しながらお礼を言ったが、彼は厳しい表情で木々の奥を見ていた。その時だ。

 “蛇神様、穢れし人の子なぞ捨て置けば宜しいではありませぬか”

 怒りをたたえた低い女の声が割れんばかりに頭の中で響き、私は頭を抱え込んだ。ひたすらに反響して暴れ回る女の声は、金属を思い切りぶつけ合ったような騒音だった。その声は反響するたびに割れ、増え、そして三人の女の声になった。

 “去れ、穢れし人の子よ”

 “蛇神よ、何故じゃ”

 “お遊びも大概になされよ”

 私は痛みに叫んだが、それが音となって口から漏れ出たかどうかは定かではない。

 人の子でなければ何だというのか。私は思考の働かない朦朧とした頭でぼんやりと考えた。自分が立っているのか座っているのか、目を開けているのか閉じでいるのか、自分は有るのか無いのか、それすら分からない。

 ただ、ふと温かい何かを感じて目を開けた。そこで初めて、自分は目を瞑っていて座り込んでいたこと知った。徐々に靄が晴れていくように自分のことが把握できるようになると、震える私の肩を加賀智さんが抱いていることに気づく。

 その頼もしげな腕が、異様に白いような気がした。腕だけではない。肌、髪、その着物や履物すら全てが山の静けさに色を吸われたように真っ白だった。睫毛には季節外れの雪が積もっているようだ。

「──白蛇、様……」

 私は確信もないのにそう口にしていた。

 気づけば頭に渦巻いていた女の声は消え、頭痛もすっかり消え失せていた。

 私は彼の横顔を見つめて、白蛇様なのですかと尋ねた。加賀智さんは黄玉の瞳で私を見て、そうだよと答えた。私は加賀智さんの腕に手をやって、本当に白蛇様なのかなと思った。そうすると、突然その腕にびっしりと白い鱗が生えた。私は驚いてその鱗を触って確かめた。艶々としている。そして、こんなに美しいのだから本当に違いないと思った。

 次に彼の顔を見た時、彼の瞳は青藍色に変わっていた。全身に色のない白蛇様の瞳は見る時々で色が違う。その鮮やかな色の変化を見るたびに私は心を奪われる。この宝玉のような瞳に不思議なほど魅了され、いつの間にか恋をしていた。

「もう、この山に来てはいけない」

 彼は優しくそう言った。

「人と人ならざるものは、同じ時を歩むことは決して赦されない」

 何の未練も感じさせないような彼の微笑みに、私は感情が静かに崩壊する気がして、手で顔を覆う。

「……だけど、年に一日だけならあの山神たちも許してくれるだろう」

 白蛇様は独り言のように呟いた。

「ただし一年に二日も会えば嫉妬深い山神たちは夏芽の命を取るかもしれない。どうする」

 そう問われて私は涙を拭った。白蛇様の菫青石の瞳の奥に目と鼻を赤くした少女が決意を秘めた表情でこちらを見つめていた。

「……また、会えるなら、一年に一日、会いに行きす。その次の年もその次も、白蛇様に会いに行きます」

 彼はそう答えた私の髪を撫で、毛先を弄んだ後、更に頬の曲線をなぞった。

「もう名前では呼んでくれないのかな、夏芽」

 寂しげな顔をするその神の名前を、私はそっと呼んだ。その口を唇で塞がれてはっとする。目を閉じた端整な男の顔には薄く鱗が生えていた。硬い白鱗に覆われた温度のない唇は、明らかに人間のものではない。私の緊張を解きほぐすように優しく何度も何度も重ねられた。

 再び足元で強い風が起こった。すると、唇が名残惜しく離れていく。

 そっと目を開けると、首から顔半分を覆う白い鱗が目に入った。その鱗を恍惚として辿ると、目と目があった。彼の瞳は爛々と輝く紅色をしていた。

「加賀智さん、一年待っていてくれますか」

 私は彼の瞳に尋ねた。

 東から日が昇り、西に落ちる。これを一とする。夜には直ぐにでも会いたい気持ちが私を苦しめるだろう。そして、睫毛を濡らしたまま眠りにつく。また日が昇り、日が落ちる。毎日恋情を募らせながら、彼も待っているのだと涙を堪え、これを二と数える。それを来る日も来る日も繰り返す。

 加賀智さんは、うんと頷いてくれた。

「夏芽。俺は境内できっと待っているから、だから来年も石階段を走って上がって会いにきて。そうしたら、あの場所から村を眺めて日が沈むまで二人で話そう。来年こそは、君が望むまま何でも答えるよ」

 私はその言葉に何度も頷いた。不意に目頭が熱くなって俯いた。笑ってくれと加賀智さんは穏やかに言う。だから私は顔を上げて精一杯笑った。

 その時、強風が吹いた。いつの間にか加賀智さんの後ろに三人の髪の長い女が寄り添うように立っていることに気づく。山神と思しき女たちは眦(まなじり)をつり上げて私を睨みつけていた。私は風に飛ばされそうになりながら、静かに両の手を合わせて祈った。

「お願いします、山神様。一年に一日だけ、恋しい人と会うことをお許しください」

 “良いだろう、人間の子よ”

 “ただし一年に一日じゃ”

 “二日と足を踏み入れたならその時は──”

 山神の感情の高まりとともに、一層風が強くなった。息もできないほどの風圧に、首元を絞められるような苦しさで徐々に視界がぼやけていく。何が起こっているか分からないまま、私はいつの間にか地面に臥せていた。暗くなってゆく視界の端で、私は彼の瞳を見つめ続けた。


 目が覚めて、あれと首を傾げた。気を失っていたようだ。辺りを見回し、ようやく自分が山の麓にある鳥居の柱に背を預けて座っていることに気づく。何故私はこんな所にいるのだっけ。茫然としていると、無意識に彼の名が口からついて出てはっとする。

 ぐるりと辺りを見回したが、蛇神の姿は決して見当たらなかった。当然だ、もし彼が近くにいたとしても今年はもう私の前に姿を現すとは思えない。

 唇を噛み、私はとぼとぼと家路につく。村に流れるひどく緩やかな時間を感じるたびに、もしかして全て白昼夢だったのではと思い始めていた。

「あら、ナツ。そんなの持ってた?」

 祖父母の家に戻ると、夕飯を作っていた母が私の首元を見てそんなことを言う。疑問に思って自分の首に手をやると、何が紐のようなものが首に提がっていたのに気づいた。

 ネックレスなど付けていなかったのに。そう思ってよく見てみると、その紐に通されていたものは桜の花びらのような白いものだった。まさか、と私は息を呑み、震える指先でそれに触れた。

(これは……鱗だ。ああ、夢じゃない……)

 加賀智さん、加賀智さん、加賀智さん──。

 想いの奔流で感情の蓋がいとも簡単に押し流される。突然ネックレスを握り締めて声をあげて泣き出した私を、母は目を丸くしながらも強く抱き締めてくれた。

 全ては現実だった。彼が現実の存在であったことに何より安堵して胸を撫で下ろした。夢でないのだから、一年経てばまた会える。その時の私は歓びの涙を流した。


 だが、一年とは先の見えない永遠に思えるほどの膨大な時間であると思い知らされた。実家に戻ると、空虚な気持ちになり、どうしても堪らなくなった時は、白い鱗に口付けた。新学期が始まり、一日の授業が終って日が沈む頃に私は数を数えた。その次の日も日が沈むと数を一つ増やした。毎日数を数えて、夜は彼の鱗を握りしめて眠った。

 時の流れは遅々としたものだったが、季節は確実に過ぎる。大学入試も終わり、私は何とか地元の志望大学に滑り込むことができた。

 大学では空き時間も多くなり、ぼんやりと考え込む時間が増えると恋情が褪せるどころか更に募っていく。あの瞳に会いたい。時間はまた遅々として進まなくなっていたが、私は既に耐え方を知っていた。その日の講義が終わり、西の空に沈みゆく夕日を見て数を数える。そして、夜を迎えた東の空を見つめてネックレスを握った。また明日新たな太陽が昇ったのを確認したら、鱗にキスをしよう。

 それから、幾つもの太陽が昇っては沈むことを繰り返した。そして、ようやく前期の授業が終わり、私は直ぐに夜行バスに飛び乗った。行き先は言うまでもない。

 あらゆる苦しみも、全ては昨日までの話だ。


 白い和装姿を見つけた瞬間、息が止まった。

 加賀智さん。震える声で呼ぶと、夏芽なのかと問うて彼は振り返った。彼の群青色の瞳の中に立っている私の輪郭が突然溶けて流れていった。私は堪らない気持ちになり、会いたかったですと言葉にならない声で彼の胸に飛び込んだ。

 加賀智さんは難なく私を受け止め、息が詰まるほどに強く抱き締めてくれた。そして、彼は私の髪を掻き上げて左耳に掛けると、露わになった耳に口付けて、夏芽、と掠れた余裕のない声で私を呼んだ。

「おいで、夏芽。あの場所で一緒に日の出を見よう」

 そう言った加賀智さんは、私の手を引いて歩き出した。私は頷いて彼の手を強く握り返した。

 彼は西に沈んでいく星を見ながら、夢みたいだと小さく呟いた。何がですかと尋ねると、君と俺が今ここにいることがだよと彼は答えた。

「……あの星が西の山に消えて、東の山から朝日が昇った途端、全てが消えてなくなって、俺は名もないただの蛇として、岩の亀裂の奥深くで目が覚めるような気がする。覚めるまでは分からないものが夢だ、夢じゃないなんて分からない」

 その呟きを聞いた私は彼の手を強く握った。

 村を一望できる例の場所に着いても私たちの手は離れなかった。そして、そのまま二人で肩を並べて、東の空を眺めた。赤く燃える太陽が東の山から頭を出し、山の辺が徐々に明るくなっていく。夜の闇に沈んでいた村には朝日が差し込み、今日もまた新しい朝がやってきた。彼は私の存在を確かめるように私の手を強く握った。私も固く握って応えた。

 太陽が全て顔を出したとき、朝は来たのだとようやく確信できた。私たちは朝焼けの中でどちらからともなく顔を寄せて口付けた。あの太陽がまた西の山に沈んでしまうまで、片時もそばを離れないと強く思った。


 それから、加賀智さんと私は岩に座って語らった。いつも困り顔で質問をはぐらかしていた加賀智さんは、今日は私が尋ねること全てに答えてくれた。

「祖父は加賀智さんの正体を知っているのですか」

「ううん。ああ、そもそも知り合いじゃない。俺が一方的に知っているというだけだよ。俺はここから村人たちの生活を見てきたからね、タケが生まれた時から見てきた」

 祖父が生まれたときから──。

 私は驚いて歳を尋ねると、彼はあっさり答えた。

「俺はもう千年以上は生きているんだ」

 私は呆然として、千年と呟いた。実感が湧かない、想像もつかない時間だ。

「俺はただの蛇の頃からずっとこの山で生きてきた。ここを拓いて棲みついた人間は蛇の俺をカガチと呼んだ。その時に自我が芽生えて、蛇神になった。そうしたら、蛇以外にも自由に姿を変えられるようになったんだ」

 加賀智さんは懐かしそうに目を細めた。

「俺は普通の蛇の姿でいることが好きだった。でも、ある夏、油断していて鷲に襲われた。直ぐに追い払ったけど、ひどい怪我をしてしまった。そのときに手当てをしてくれたのが君だよ、夏芽」

 突然自分の名前が出てきて私は心底驚いた。記憶を辿ったが思い出せない。しかし、この村で白蛇信仰があるのは昔から知っているので、もしかすると助けたことがあったのかもしれないと思った。

「人間とは関わらないと決めていたけど、去年は君があまりに無防備で寝ていたから話しかけてしまった。……夏芽を待っていた一年は信じられないほど長かった。時間に責められているような気がしたよ」

 その言葉に私はひやりとしたものを感じた。人間である私と同じ時を歩むことを望んだばかりに、彼は神にして人間の濃密な時間の体感を得てしまったのだ。

「一緒に生きていく方法は無いのですか。これからずっと、長い一年を過ごさないといけないのですか」

 そう言うと、加賀智さんは押し黙ってしまった。私は彼の表情を見て、自分が彼に対して酷いことを言ってしまったのかと後悔した。小さく謝ると、彼は黙ったまま私の頭をそっと撫でた。


 今日という一日は、一年という時間を埋めるのにはあまりに短すぎた。日が傾き西日が差してきたころ、二人で山を下りていた。

 来年だと思うと自然と足取りも重くなっていく。長い一年を積み重ね、会うたびに別れが苦しくなって、いつかそんな毎日に耐えかねて、私はここに来なくなるかもしれない。

 考えに沈む私の名を加賀智さんが呼んだ。

「……もし、人の世を捨てて、家族を捨てて、人間としての自分を捨ててまで俺と永遠に生きる覚悟があるというのなら、近いうちにまた鳥居をくぐってこの山においで」

 私は息を飲み、その言葉に瞠目した。

 一年に二度もこの山に足を踏み入れたら、当然あの嫉妬深い山神たちの怒りを買うだろう。そうすれば私は命を取られて死んでしまうのではなかったのか。

 恐る恐る覗き込んだ彼の菫色の瞳は、いつも通り穏やかな光を宿していた。だからこそ、初めてこの蛇神を恐ろしいと感じた。

「……でも、もし私が来なかったら?」

「……来るまで、待つよ」

 彼はひどく苦しそうに息を吐き出すと、もう日が沈むと言って私の手を取り、急かした。

 私たちはまた無言で階段を下りた。残りの階段が少なくなるたびに、心臓が潰されるような動悸に襲われる。私は階段を下りるのが怖くなり、彼の名前を呼んだ。彼は振り返らずに私の手を黙って引いた。

 一番下の階段まで下りて、山の入口にある鳥居の前まで来た。この鳥居をくぐれば次は来年だ。しかし、加賀智さんは近いうちにまたくぐれという。私はどうしたら良いのか分からずに混乱していた。

「俺を信じて、夏芽」

 試すような蛇の囁きに背中を押され、鳥居の外に出された。

(ああ……)

 西の山に沈む太陽を見て、今日という夢から覚めてしまったと実感した。脳裏に彼の瞳が鮮明に蘇る。永遠に覚めない夢に浸りたい衝動を抑えきれなくなって、鳥居を振り返った。そこには誰もいない。しかし、見えずとも確かにそこにいるはずだ。彼を、あの瞳を信じたい。あの瞳に魅せられて、それ以外にはもう何も考えられなかった。

 意を決して再び鳥居をくぐった。その瞬間、息も出来ないほどの暴風が唸り、痺れるような感覚が全身を襲った。私は強く目を瞑って自分の身を抱いた。

 しばらくすると、風が突然消え去った。訳が分からないまま目を開け、依然として痺れる自分の体を見下ろす。すると、色を失った両の手足に白く艶やかな鱗が今まさに生えていることに気づいた。

(まさか──!)

 事態を飲み込んだ私は驚きと歓喜にうち震えた。いつの間にか彼がそばに佇んでいた。私は笑顔で彼を見上げ、そして固まる。彼は瞼を閉じた両目から赤い血の涙を流していた。

「加賀智さん……!」

「……山神はもう心配ないよ。それに俺たちが夢から覚めることは、もう二度と無い」

 彼は心底幸せそうに微笑んだ。

 ──彼は自分の二つの目を使い、私を守り、私に全てを与えたのだ。彼の強い覚悟と愛を知って、私は子供のように泣いた。その声を頼りに私を抱き締めた彼は、愛おしそうに私を呼んだ。ますます涙が止まらなくなって私は手で目を覆った。

 泣いて泣いて──そしてふと気付いた。目なら、ある。ここに二つ。

 私は涙を拭い、顔を上げて笑った。永遠が始まるのを確信し、自分の右の目玉に触れた。


 とある地方の田舎の山にある神社。そこでは、いつしか隻眼の蛇神の夫婦が信仰されるようになったという。

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