こはく
あきかん
第1話 琥珀さんと俺
俺はその人を常に琥珀さんと呼んでいた。だからここでもただ琥珀さんと書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が俺にとって自然だからである。俺はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「琥珀さん」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
俺が琥珀さんと知り合いになったのは山王街である。その時俺はまだ餓鬼であった。暑中休暇を利用して国双地区で喧嘩した走り屋からぜひ湾岸地区に来いという端書を受け取ったので、俺は多少の金を工面して、出掛ける事にした。俺は金の工面に二、三日を費やした。ところが俺が湾岸地区に着いて半日と経たないうちに、俺を呼び寄せた走り屋は、急に親元から帰れという電報を受け取った。電報にはチームが危機だからと断ってあったけれども走り屋はそれを信じなかった。走り屋のチームはかねてから国双地区の雨宮兄弟と九龍グループに勧まない喧嘩を強いられていた。彼は喧嘩屋の習慣からチームが雨宮兄弟2人だけに手こずるとは考えられなかった。それに肝心の当人が九龍グループを気に入らなかった。それで当然帰るべきところを、わざと避けて湾岸地区で遊んでいたのである。彼は電報を俺に見せてどうしようと相談をした。俺にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼のチームが危機であるとすれば彼は固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た俺は一人取り残された。
国双地区に戻るにはまだ大分日数があるので湾岸地区におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた俺は、当分野宿する覚悟をした。走り屋は国双地区のある整備工の息子で金に不自由のない男であったけれども、素行が素行なのと年が年なので、生活の程度は俺とそう変りもしなかった。したがって一人ぼっちになった俺は別に恰好な寝床を探す面倒ももたなかったのである。
寝床は山王街でも海辺の倉庫街にした。吉牛だのマクドナルドだのというハイカラなものには長い橋を一つ越さなければ手が届かなかった。単車で行っても五百円は取られた。けれども無人のコンテナハウスはそこここにいくつでも建てられていた。それに国双地区へはごく近いので戻るのには至極便利な地位を占めていた。
俺は山王街に出掛けた。古い錆にまみれたコンテナの間を通り抜けて商店街につくと、この辺にこれほどのゴロツキが住んでいるかと思うほど、単車で来た男や女で道の上が動いていた。ある通りは止められた単車で寿司詰めでごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない俺も、こういう賑やかな景色の中につつまれて、道の上にメンチ切ったり、膝頭を腹に入れたりそこいらを暴れ廻まわるのは愉快であった。
俺は実に琥珀さんをこの雑沓の間に見付け出したのである。その時山王街には掛茶屋が二軒あった。私はふとした機会からその一軒の方に行った。辺境に大きな喧嘩場を構えている国双地区と違って、各自に専有の喧嘩場を拵えていないここいらの喧嘩屋には、ぜひともこうした中立地帯といった風なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外に、ここで喧嘩の段取りをさせたり、ここで減った腹を満たしたり、ここへ伝言や土産を預けたりするのである。土地勘を持たない俺にも中立に情報を提供してくれるので、俺は国双地区に帰る前にこの地区を仕切っているチームに喧嘩を売る事にした。
こはく あきかん @Gomibako
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