【10月刊試し読み】虎皇帝の甘蜜花嫁
角川ルビー文庫
第1話
見る者を、妖艶に誘惑するかのように色鮮やかな紅の実は、猛毒を孕んでいる。
熟れた色に惑わされて口にしようものなら、たちまち身を侵されて一昼夜のうちに冥界へと旅立つことになる。
猛毒を甘蜜の美酒へと変化させられるのは、脈々と受け継がれる高貴な血族のみ。
「それが、なんていったかな……よく聞き取れなかったけど、その国の皇族だけなんだと。猛毒を無毒化できる特異体質って語り継がれるのには、それだけじゃない理由があって……」
高貴な血脈を継ぐ皇族は、類稀な美貌と卓越した身体能力で以って国を統治し、民の敬愛を受けている。
建国以来、ただの一度も他国の侵攻を許していない不可侵の聖地だ。
潤沢な湧き水と肥沃な土地は、国民を余すことなく満たすに十分な大地の恵みをもたらし、特有の希少鉱石の加工品や薬草は周辺国家との貿易に重宝される。
なによりも、代々統治する皇帝の特異性が他国の侵略から国土を護り続けていた。
大勢の兵を引き連れて侵略を企んだ他国の王は、ことごとく戦意喪失して命からがら自国に逃げ帰り……以後、占領しようという考えを捨てるという。
彼らの前に立ちふさがったものは、武器を構えた多くの兵や巧妙に張り巡らされた罠ではなく、黄金の毛に包まれた獰猛な獣らしい。
小山ほどもあろうかという巨体だったとか……紅蓮の炎を纏う幻獣だとか、三十センチもの鋭い牙を携えているだとか。
恐怖が記憶を混乱させるのか、見る者によって異なる姿を証言し、実際のところは誰も知らない。
謎に包まれた、神秘の守護者が護る地。皇帝の始祖は聖なる金色の虎だと、実しやかな伝説が語り継がれている由縁だ。
「そんな、おとぎ話っていうか……ファンタジーゲームの設定みたいな脅し文句で、ビビらないからな」
訥々と語っていた叔父が言葉を切り、礼渡は「金色の虎ぁ?」と首を捻る。
テレビや動物園で目にする虎も、光の加減で金色の毛をしているように見えなくはない。金毛の虎など、単に目の錯覚ではないだろうか。
しかも、それが人に化けて皇帝になったなんて……。
「おまえをビビらせることを目的にした、作り話じゃないぞ。そういう国っつーか、少数民族が暮らす自治区がある、ってガイドが語ったんだ。農作物が育ち、清潔な水が湧く、楽園のような伝説の土地だと。密林の奥地で簡単に辿り着けないから、そんなふうに語られているのかもなぁ」
「ふーん……でも金色の虎が本当にいたら、ちょっと見てみたいかも」
ふふっと笑った礼渡に、雑談を持ち出した叔父は鹿爪らしい顔で「密林に不可侵の領域があるのは事実だぞ」と釘を刺す。
「数は少ないが、ゴールデンタビ―タイガーって虎は実在する。ベンガルトラの劣性遺伝による変種で、金っていうか……オレンジ色っぽい体毛だけどな。あと、このあたりの地域に、絶滅したはずの野生の虎が棲息するっていうのも実しやかな噂だ。実際に遭遇したことがあるって人もいるし、過去には大型猛獣の噛み傷による死傷者も出ている。ただ、証拠となる写真や映像がないから、なんともなぁ」
「あー……でもまぁ、なにが出てきても不思議じゃない雰囲気かも。二十一世紀の地球とは思えないくらいの、超秘境。映画の世界って感じ」
答えた直後、トレッキングシューズの底が拳ほどの石を踏みつけて、「おっと」とバランスを崩しかけた。
しゃべりながら山道を登っていたせいで、息が上がっている。
足を止めた礼渡は、叔父が「このあたり」と口にした周囲を見回して、大きなため息をついた。
「その、希少種の花だか草だかが生えてるところって……まだ?」
「もう少し奥地らしいなぁ。この時季に、それも雨上りの夕方にしか咲かないらしいから、二、三日待機してシャッターチャンスを狙うしかないな」
「……待機。野宿っていうか……サバイバルだよな」
苦笑した礼渡に、叔父は「キャンプだと思えば楽しいぞ」と能天気な一言を口にして、先を行く現地ガイドの背を追う。
見渡す限り、巨木と背丈ほどもある草が鬱蒼と生い茂り……典型的な現代っ子の礼渡にとって、秘境としか表現しようのないジャングルだ。
都心に住み、自然といえば整備された公園くらいしか知らない礼渡から見れば、異世界にも等しい本物の自然美に溢れる土地だった。
ほんの二日ほど前までは、コンクリートジャングルと呼ばれる大都会に身を置いていたのに……と思えば、現実感が乏しい。
拠点となる村を出てここまで歩いた数時間のあいだに、名前も知らない巨大な虫との遭遇は両手の指の数では数え切れないし、蛇やらの両生類やトカゲらしき爬虫類も見かけた。正体不明の、鳥か動物の鳴き声も聞いた。
虎やらが徘徊しているかもしれないと言われても、「ああそうかもな」と納得してしまう雰囲気だ。
「金毛の虎の……皇帝、か」
未知のその姿は想像することもできなくて、懐かしの映像特集で見たことのある虎のマスクを被ったプロレスラーを思い浮かべてしまい、苦笑を滲ませる。
猛毒を持つ巨大な蜂や、毒蛇よりは哺乳類の虎のほうがマシかもしれない。
実際に虎と遭遇してしまったら、恐怖しかないとは思うが……今はまだ、冗談として笑っていられる。
「礼渡? なに立ち止まってるんだ? はぐれるなよ」
「わかってる。すぐ行く!」
数十メートル距離の空いた叔父に振り返って呼びかけられ、顔を上げて答える。小休憩は終わりだなと、額に滲む汗を手の甲で拭って止めていた歩みを再開させた。
《一》
結構な苦労をして就職した会社は、俗にいうブラック企業だった。
仕事に関することなら、学生気分の抜けないバカと叱責されようが雑用係として使いパシリをさせられようが、我慢できた。新人の扱いなどどこもそんなものだろうと、学生時代の友人たちと酒を飲みながら愚痴って終わりだ。
ただ、どうしても受け流せない一線というものがあって……それを超えた瞬間、堪忍袋の緒が切れた。
重役を殴り、辞表を叩きつけて退職したのは入社からわずか三か月後のことだ。
かといって、実家住みをいいことに両親に依存するニートになったわけではない。アルバイトは選り取り見取りでそこそこ高給のものを選べたし、実家には会社勤めしていた時と同じ額の食費も入れていた。
ただ、窮屈なスーツは着なくてもいいし、満員電車とも無縁。ストレスのない日々は快適だなぁ……などと、のほほんとした毎日を過ごす礼渡は、端から見れば能天気かつ考えなしのバカモノに見えたかもしれない。
ある日突然、母親がキレた。
「礼渡、そろそろ黙って見守るのも限界なんだけど。再就職活動は?」
リビングのソファに寝転がり、スマートフォンを弄っている礼渡の視界が翳る。
いつの間にか買い物から帰っていたらしく、ソファの脇に母親が立ってこちらを睨みつけていた。
「んー……とりあえず今は、バイトでも充分だからなぁ」
答えながら、次のアルバイトはどれにしようかなぁ……とネット求人サイトを眺めている礼渡の視界を、母親の手が遮る。
「話している時は、スマホをやめなさい。今は若いから、アルバイト生活でもいいかもしれないけど……十年後、二十年後は? 入社三カ月で、N商事をあっさり辞めるなんて……ご近所の笑いものよ」
「だから、すげーブラック企業だったんだって」
「どうブラックなのか、きちんと説明もせずにそう言われてもねぇ。過剰残業があったわけでもないし、お休みもきちんとあって……新人が理不尽な雑用をさせられるのなんて、どこでも同じよ?」
これ見よがしに大きなため息をついた母親に、返す言葉を失った礼渡は黙り込み……いつものパターンを踏襲することになる。
どうブラックだったか? あんな、みっともないことを言えるものか。
入社してすぐの頃から、上司に隙あらば尻を撫でられまくり……飲み会の席で限界が来て、殴って逃げただなんて。
その上司が同性で、会長の縁戚にあたる重役だったことが、「辞めてやる」と啖呵を切って辞職届を叩きつける最大の要因だった。
一応、礼渡も我慢していたのだ。もともと血の気の多い自分が、よくぞあそこまで耐えたと思うほど。
宴席で酔ったヤツに膝に抱きかかえられ、遠慮しつつ抵抗を繰り返していた礼渡の無言のヘルプを、同席した同僚や上司にこぞって見て見ぬふりをされたことで、「こりゃダメだ」と見限った。
重役のお気に入りであることを利用して、成り上がってやろうという野心でもあれば別かもしれないが、礼渡はそこまでの向上心を持ち合わせていないのだから仕方がない。
「ともかく、あんな会社に骨を埋める気になれなかったんだ。変に思い詰めて、心身を病むよりいいだろ」
「……あなたは、そんなに繊細じゃないと思うけど」
それは、確かにそうか。
実際に、元凶を殴りつけて辞表を叩きつけたのだから、こんなにデリケートなのに……と弱い子ぶりっ子をして泣くふりもできない。
「まぁ、いいわ。辞めちゃった会社のことを今更グダグダ言っても、仕方ないし」
ひらりと手を振って「その話はヤメ。建設的な話をしましょ」と嘆息した母親を見上げた礼渡は、心の中で「相変わらず男前」とつぶやいて苦笑した。
口に出さなかったのは、「誰が男ですって?」と角を生やした母親に、殴られる危機を回避するためだ。
……自分の性格は、間違いなく母親譲りだと思う。
父親はもっと思慮深く、口数も少ない物静かなタイプなのだ。
母親と自分が終着点の見えない言い合いをしていると、いつも絶妙なタイミングで割って入って水掛け論を収拾する。
その父親が不在なのに、延々とヒートアップしなかったのは珍しい。
右手に持ったスマートフォンにチラリと目を向けた礼渡は、
「とりあえず、次のバイトを探すから」
そう逃げを図ったけれど、母親の目的は昼日中にリビングのソファでゴロゴロする礼渡に、お小言を零すことではなかったらしい。
「それだけど……ひ弱い現代っ子の礼渡に、修行の場を見つけてきてあげたわよ。せいぜい、こき使われてきなさい」
「はぁ? なんだよ、それ。修業?」
思いがけない言葉に、転がっていたソファから身体を起こす。そうして礼渡が反応したせいか、母親は満足そうな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「大貴に、雑用として使ってくれるようにお願いしたの。バイト代が払えないかもって渋るから、ただ働きでもいいってことで、なんとか約束を取りつけてあげたから」
「大貴って、大ちゃん……?」
西本大貴は、母親の末弟……礼渡にとって、叔父にあたる人物の名前だ。礼渡とは年齢が十歳しか違わないのもあり、感覚的には叔父というより兄に近い。
一昔前まではよく遊んでくれていたが、ここ数年はほとんど顔を合わせることもなくて……今は確か、植物専門のカメラマンとして世界中を飛び回っている。
その叔父に、修行……というか、雑用として使われるだと?
「ちょっと、待てよ。なに、勝手に決めて……」
「なにか文句ある? あんた、昔っから大貴に懐いてたでしょ。あ、バイト代はほとんど出せないかもしれないけど、代わりに食費や滞在費を含む旅費雑費はアッチが負担してくれるんですって。雑用をさせられても、タダ同然で海外旅行ができるんだから悪い話じゃないと思うけど。どうせ、暇でゴロゴロしているんだから」
「暇って、人聞きが悪いな。そろそろ、次のバイト先を見つけようと思ってたところなんだってば!」
最近の礼渡の定位置となっているソファをビシッと指差され、反論を試みたけれど……あまり説得力はなかったかもしれない。
恐ろしい形相でジロリと睨みつけられて、声のトーンを落とす。
「つーか……海外って、ナニソレ」
「詳しい話は、夕食に招待しているから大貴に直接聞いて。不肖の息子の面倒を見てもらうための賄賂として、腕によりをかけてご馳走を並べるわ」
「……賄賂ってさぁ、胸を張って言えるものじゃないと思うけど。おれに説明するのが面倒になって、大ちゃんに押しつけようとしてるんだろ」
なにかとざっくりとした、母親らしい。
礼渡の指摘は的を射たものだったらしく、「問答無用」と腕組みをして睨み下ろされる。
「いいから礼渡は、部屋で荷造りでもしてなさいよ。出発は明後日の朝らしいから、とろとろしてる時間はないわよ」
「…………」
あまりの横暴さに絶句した礼渡は、唖然と目を見開いて、忙しそうにリビングを出て行く母親の背中を見送った。
出発は、明後日の朝だと?
それも、行き先は海外……海外の、どこだ?
有無を言わさずという勢いでコトを進められてしまい、当事者のはずの礼渡は完全に置き去りにされている。
「おれが、パスポートを持ってなかったらどうする気だったんだ?」
そんな問題ではないと思うが、どうしても現実味が乏しくて、なんとも呆けた言葉しか出てこなかった。
□ □ □
「姉さんらしいよなぁ。久し振りに連絡してきたかと思えば、開口一番に『礼渡を鍛えて』とか言うから、なにかと思ったらさぁ」
ビールジョッキを片手に、「あははは!」と豪快に笑う叔父は、やはり母親と血を分けた弟だと思う。
普通は、もっと不快感を示すだろうし、こんな面倒なことを引き受けないだろう。無職の甥が役に立つかどうかなどわからないのだから、とてつもなく大きな賭けだ。
「大ちゃんさぁ、断ってくれてもいいよ。おれなんて、荷物持ちくらいしかできないだろうし。ちゃんとしたカメラなんか、触ったことも見たことさえないんだからさ」
礼渡にとってのカメラは、スマートフォンのアプリの一つだ。仕事としてカメラマンが使っているような本格的なものなど、間近で見たことさえない。
そうして「使えないから断れ」と誘導しようとしたことは、母親にはお見通しだったらしい。テーブルの下で、容赦なく脛を蹴られる。
「イテェ! 蹴るなよ。凶暴だなっ」
底の厚い健康スリッパというヤツを愛用している母親に蹴りは、本気で痛いのだ。
苦情をぶつけた礼渡を母親はギロッと睨みつけて、叔父の手元にあるジョッキになみなみとビールを注ぐ。
ちなみにそれも母親曰く『賄賂』の一種らしく、ビール瓶に貼られているラベルは正月でもなければ目にすることのない高級なものだ。
「か弱い女性のキックが痛いだなんて、軟弱ねぇ。……という感じだから、遠慮なくこき使って鍛えてちょうだい。甘やかさないでよ」
「姉さん、アヤが涙目になってるんだけど」
「……から揚げに、からしをつけすぎたんじゃないの?」
すっ呆けた母親の言葉に、隣からチラリと目配せをしてきた叔父の目は……「諦めろ」と語っている。
母親の隣席にいる父親は、黙々とマイペースで箸を動かしていて、申し訳ないがまったく頼りにならない。
この場にいる誰もが母親に逆らえないのだと悟り、「うぅ」と唸った礼渡は、テーブルの端にあるビール瓶を鷲掴みにした。
「あっ、コラ礼渡! それは大貴の。あんたは発泡酒!」
「……手遅れ。もう飲んだし」
行儀悪く瓶の口を銜えてラッパ飲みした礼渡は、母親に向かってわざと憎たらしい仕草で舌を突き出す。
口では勝てない。悔しいが、完全な負けだ。普段は無縁の高級ビールを飲みでもしないと、やっていられない。
礼渡と母親のやり取りを見ていた叔父が、「ぶはっ」と噴き出して頭に手を置いてきた。
「はははっ、おまえ昔っから変わってねぇな。憶えてるか? 小学生の頃、コップ一杯だけって言われていたサイダーを、こっそりとラッパ飲みして……腹を壊したんだよな」
「大ちゃん。おれ、もう二十二だよ。腹壊したりしないし」
「ああそっか。ビールも飲めるお年頃か。俺も年を食うわけだ」
グリグリと頭を撫で回す手から逃げると、今度は背中を叩かれる。こうして顔を合わせたのは二年ぶりくらいだけれど、叔父こそ全然変わっていない。
「そうよ。大貴。あなたもいい加減、お嫁さんをもらって落ち着く歳になってるんだから……」
「おっと、藪蛇だった」
気まずそうに首を竦ませた叔父には申し訳ないが、自分のことから話題が逸れるのは歓迎だ。
この隙にガッツリ食ってやれ、と手羽元のから揚げに齧りつく。
コリコリ軟骨を噛み砕いていると、唐突に隣の叔父に腕を掴まれた。
「あー……俺、アヤと二人で打ち合わせするから。一皿、もらってく。ほら行くぞ、アヤ」
「うえ? あ、ああ」
右手で礼渡の腕を掴み、左手にはちゃっかりと大皿を持った叔父に急かされて、食卓を後にする。
言い足りなかったのか、不満そうに「もう、大貴ってば」と零す母親の声が聞こえてきたけれど、逃げたくなる叔父の気持ちは嫌というほどわかるので、大人しく『この場を離れる理由』になることにした。
ご馳走に未練はあるが、叔父が一皿持ち出してくれたのでよしとしよう。ついでに、テーブル脇を通り抜ける際に瓶ビールを手に持ったことを、褒めてもらおう。
礼渡の部屋に移動すると、叔父は遠慮なく毛足の短いフロアーラグに大皿を置いて座り込む。その脇に隠し持っていたビール瓶を置いて、礼渡も腰を下ろした。
「なんか、母さんの勢いに負けてほとんど聞けてないんだけど……海外って、どこ? 大ちゃんって、植物のカメラマンなんだよね?」
「んー……ざっくり言えば、中央アジア。辺鄙な山奥に、この時季にだけ開花する変わった花があるらしいから、そいつを撮影するのが目的だ。まずキルギスを目指して、現地ガイドと合流する。あとはカザフスタンとの国境に向かっての山歩きが中心になるだろうから、靴はしっかりしたものを履いて……って、おまえトレッキングシューズ持ってるか? 登山用のザックやマウンテンパーカとか……靴下も専用の物がいいんだが」
チラッと横目で礼渡を見遣った叔父に、力なく首を横に振った。
トレッキングシューズとか、登山用ザックとか、マウンテンパーカ?
礼渡の日常には、無縁のものだ。
バイオマスについて学んでいた学生時代は、バイオマスエタノールに関するフィールドワークの一環で国内外の農場を駆けまわったりもしたが、山歩きは別物だろう。
「そんなの、ない」
その返答は予想がついていたものだったのか、叔父は「だよな」と苦笑してジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。
「……明日、買い出しだな。馴染みのショップがあるから、サイズや身体に合うものを見繕って、簡単に調整してもらうか。どれくらいディスカウントしてくれるかなぁ。経費で落とすとして……」
叔父は難しい顔でブツブツ言いながら、スマートフォンに指先を滑らせている。もしかして、それも『旅費雑費』に計上してくれるつもりだろうか。
さすがに申し訳ないと思い、「あのさ」と右手を挙げながら、おずおず口を開いた。
「おれ、自分のものは払うよ。ただでさえ、役立たずっていうか足手纏いを押しつけられて迷惑だろうし。母さん、本っ当に強引だよなぁ」
「しっかり雑用をこなしてもらう予定だから、おまえは気にしなくていい。姉さんが強引なのは……三十二年のつき合いで、嫌ってくらい知ってるからな」
そうか。そうだった。二十二年しかつき合っていない礼渡より、三十年以上のつき合いである姉弟の叔父のほうが、母親のことは熟知しているか。
「じゃ、遠慮なく……ありがと。えーと、とりあえずビールでも……あ、栓抜きがない」
せめてビールで労おうとしたが、肝心の栓抜きを忘れてきてしまった。最後の詰めが甘い自分に、「ごめん」とガックリ肩を落とす。
「なに? 栓抜き? 缶詰は厳しいけど、ビールくらいなら……」
ガシッとビール瓶を掴んだ叔父は、躊躇うことなく栓の部分に齧りついて……ガキッという鈍い音と共に、栓を開けてしまった。
プッと吐き出された王冠に、礼渡は無言で目を瞠る。
あまりにもワイルドな荒技を目の当たりにしてしまい、呆気に取られるあまり「すげー」と手を叩くこともできない。
重い機材を担いで、国内外の野山を駆け回っている叔父が母親曰く『野生児』だということは知っていたつもりだけれど、歯を栓抜きにするなど高度な宴会芸みたいだ。
「目、真ん丸だぞ。そんなにビックリすることか?」
「ビックリ……するだろ」
「これっくらい、普通だぞ。辺境の地に行ったら、もっと色々スゴイからなぁ。現代の日本人は甘っちょろい」
どこが普通だ? なにが、どうすごいのか……聞かないほうが精神衛生のためにはいいかもしれない。
「安心しろ。おまえにも歯で栓を抜けとは言わん。コツがあるんだ。下手したら、歯が折れて流血沙汰だ」
「はは、それはヨカッタ……」
肘まで捲り上げたシャツから伸びる叔父の腕は、礼渡とは比べ物にならない筋肉に覆われている。
肩幅も、胸板も厚くて……自ら鍛えているというより、環境に鍛えられているのだろうと想像がつく。
約十センチの身長差以上に、体格の違いが大きい。叔父の目には、礼渡などさぞ頼りなく見えることだろう。
荷物運び……も、できないのでは。どう考えても、役に立てる自信が全然ない。
役立たずどころではなく、足手纏いになるだけだという懸念が現実味を帯びる一方だ。
「本っ当に、おれを連れて行く気? なんにもできないと思う……」
「んー、それは実際に行ってみなきゃわからんだろ。ちょうど助手が独立して、人手が足りなくなったところだったんだ。今回は短期間だし、まぁ……役に立たなきゃならんとか気負わず、気分転換にでもなればいいんじゃないか?」
クシャッと髪を撫でられる。
入社したばかりの会社を早々に辞めたこと……その理由も、礼渡からは一言も語っていない。けれど、母親からなにか聞いているのだろうか。
微笑を滲ませている精悍な顔からは、思惑を読み取ることができなくて、グッと奥歯を噛んだ。
「大ちゃん、おれ、やる前から役に立たないとか言わないで…………できる限り、頑張ることにした。だから、こき使ってください」
「おお、ほどほどに期待してるぞ」
不安はたっぷりあるけれど、心身共に豪快なこの叔父と一緒にいれば、まぁ……大丈夫だろう。
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※この続きは是非、10/1発売ルビー文庫『虎皇帝の甘蜜花嫁』(著/真崎ひかる)にてご覧ください!
【10月刊試し読み】虎皇帝の甘蜜花嫁 角川ルビー文庫 @rubybunko
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