【10月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版8

角川ルビー文庫

フェアリーテイル


 その電話がギイの携帯に掛かってきたのは、階段長という役務の都合で、一学期の終業式や退寮式が終わっても数日帰省できないギイにつきあって、ぼくも帰省を翌日に(とはいえ一日くらいしかつきあえないけど)遅らせた退寮日の夜、ほとんど人気のない学生寮の、ギイのゼロ番、300号室の彼のベッドで、久しぶりの逢瀬を堪能しようと、ギイがパジャマを脱ぎ掛けた、まさにそのときだった。

「しまった。サイレントにするの、忘れてた」

 ヤバイとばかり、咄嗟にギイがぼくを見る。

 以前、この展開でぼくの機嫌を損ねた前科があるギイは、呼び出し続ける携帯を横目に、肚を括ったようにパジャマを脱ぐと、ストンと床へ落とし、

「託生……」

 ぼくに顔を寄せてきた。

「別にいいのに」

 その鼻先へ、ぼくは言う。

「へ?」

 ギイはキョトンと訊き返す。

「いいよ、ギイ、電話に出れば?」

 あの件に関しては、ぼくも狭量だったかな、と、後で反省したりしたのだ。

 神妙な表情でぼくの目を覗き込んだギイは、

「それ、新手の罠か?」

 失礼なことを言う。

「違うよ、ギイを罠に掛けるなんて、そんな面倒なことしないよ」

 そもそも、そんなことをして逆襲されても復讐されても、ぼくに勝ち目なんかこれっぽっちもありはしない。

 とても現役高校生とは思えぬほど世知に長けた切れ者で、そんな恋人を持てたことは自慢でもあるが、まあ、彼を頼りとする人が多いのも、これまた仕方のないことなのである。

「そうか? いいのか?」

「いいよ」

「後で不機嫌になったりしないんだな?」

「しないって」

「本当に?」

「疑うなあ。そんなこんなしてる間に、電話、切れちゃうよ」

「……では、ありがたく」

 感謝を述べながらも、まだ疑わしげにぼくを眺めつつ、ギイはベッドを降りると、上半身裸のまま、机の上の携帯を手に取った。

 既に留守番機能に切り替わっていた電話へ途中から出たギイは、ぼくに背中を向けると、

「あ、こんばんは」

 やけに改まった声を出し、ちいさな声でなにやらひそひそと話し始めた。

 そうして、どれくらい経ったのか、込み入った話なのであろうことは通話の長さとギイの深刻そうな後ろ姿からなんとなく察しがついていたので、ぼくは聞き耳を立てなくても済むように(だって、手持ち無沙汰だとその気もないのに会話が気になったりするではないか)近くにあった雑誌を眺めて気を紛らわし、兼、時間潰しをしていたのだが、電話を切ってベッドに戻って来たギイは、

「あのさあ託生、悪いんだけど」

 遠慮がちに切り出した。

「まさか、これからここに人が来るから帰ってくれとか、言わないよね?」

 さすがにそこまで、ものわかり良くはなれないかも。

「言わないよ」

 誰が来るんだよ、こんな日のこんな時間に。と、笑ったギイは、「お前、冗談のセンス、ちょっとレベルアップしたよな」

 冗談? あれ?

 そんなつもりじゃなかったけれど、そっちに誤解されたのなら、まあいいや。

「じゃなくて、悪いんだけどさ、夏休みの計画、変更してもいいか?」

 沈んだトーンに、ギクリとする。

「う。――い、いいけど」

 ゴールデンウイークに久しぶりにワタナベ荘で再会した佐智さんから、今年も母親のマリコさんの誕生日を祝うコンサートへ招待をいただいたのをこれ幸いと、コンサート当日の八月十三日から遡ること一週間前から、ギイと、会場である井上家の伊豆の別荘へ伺う予定だったのだが、「や、でも、あんまり本番ギリギリにとか、行きたくないか、な」

 緊張するのだ、あの雰囲気。できるだけ早めに行って慣れたいところなのだがしかし、ギイの都合を優先するのが、ここはやはり筋だろう。

 寂しいけどっ!

「違うって、託生」

 お前、発想がいっつも謙虚だよな。と目を細めたギイは、「その反対。もうちょい前から、オレの道行きにつきあってもらえないかな」

 フランスとのクォーターで、アメリカ育ちの、間違いなくバリバリの外国人であるギイは、けれど時々純粋日本人のぼく以上に味わい深い日本語を使う。

 みちゆき、の響きに、くらりとした。が。

「あー、でもそんなに長く出掛けてると、お前のお袋さんの不興を買うかな」

「多分ね。でも――」

 予定より長くギイといられる嬉しさだけでなく、ギイとふたりの“みちゆき”は、他のどんな誘いよりも今のぼくには魅惑的だ。「でも、ごめんギイ、母がどうこうじゃなくて、もう予定が入ってるんだ」

「いつから」

「八月のあたまから三日間、あれこれと」

 佐智さんの別荘に行く予定が七日からだったから、それより前ならと、バイオリンの練習があるので遠出は無理だが、両親との予定とか、利久や他の数少ない友人たちとの、ちょっとした用事を組んでいた。

「キャンセルしろよ」

「なんでだよ」

 命令するなよ、こんないきなり。

「八月四日に、知り合いの婚約披露パーティーがあるんだが、託生には、それにつきあってもらいたいんだよ」

「なんでギイの知り合いの婚約披露パーティーに、ぼくがつきあわなけりゃならないんだよ。さっきの電話の内容って、そのことだったんだ」

「違うよ、別件。正直、誘う気はなかったんだ、ついさっきまでは。でも、ああ確かにきっかけは今の電話かな。電話の相手には申し訳ないが、話してる最中にふと、まるきり別の事を考え始めたりすることってないか?」

「――そりゃ、あるけど」

 相手の一言が何かを連想させる引き金となって、会話の内容とはまるきり違うのに、頭の中でそれについてあれこれ考えを巡らせてしまう、ということが、ないわけではない。

「電話を切る頃には、そのふとした思いつきが必然になってたんだよ。これは是非とも託生を誘わないと、ってな」

「だからって説得されたりしないんだからな。そもそもパーティーが四日なら、ぼくがその前の予定をキャンセルしなくたってかまわないじゃないか」

「少し場所が遠いのと、向こうには八月一日から行ってないとならないからだよ」

「三日も前から? まさか、パーティーの準備の手伝いをしないとならない、とか、言わないよね?」

「言わないよ。オレたちなんかが手伝っても、いるだけ邪魔だろ」

「あのさあギイ」

 これが同じ知り合いでも島岡さんとかなら話は全然別だけれど、「基本的な質問するけど、その知り合い、ぼくは会ったことあるの?」

「ない」

 即答したギイに、ぼくはさすがに呆れてしまった。

「無茶言うなあ。一面識もない人の為に、どうしてぼくが予定を変えてまで――」

「そいつらがどうとかじゃなくて、つまりオレが、――オレに託生が必要なんだよ」

「え……」

 まずい。今、また、くらりとしてしまった。

 冗談のカケラもない表情で、

「オレにお前が必要なんだ、託生」

「ギイ……」

「ワガママを承知で頼むけど、オレにつきあってくれないか」

 ああ、もう。

「な?」

 頼むから、そんな、捨てられた仔犬みたいな心細い目をして、ぼくを見ないでくれ。

「……わかったよ」

 敵わないじゃないか、もう。「でもねえ、こんないきなりの無茶なんだから、当然、交通費も食費もなにもかも、ギイが持つんだからな」

 全面降伏は嫌だったので、ちょっとしたリベンジのつもりだったのだが、

「もちろん」

 ふたつ返事で請け合ったにっこり笑顔に、ぼくはまたしても読みを外したことに気がついた。

 そうでした、いつもケチクサイ、失礼、倹約家な日常を過ごしている誰かさんなので、ついうっかりしていたけれど、彼はとてつもない家柄の御曹司でありました。利久にしろぼくにしろ、普通の一高校生になら通じるイヤガラセも、ギイには痛くも痒くもない要求だったのでありました。

 やれやれ。

「待ち合わせの時間と場所、改めて連絡するから」

 嬉しそうにギイが言う。

「はいはい」

 明日、急いでみんなに電話しないと。

「高校生活最後の夏休みに、託生と二週間近くもバカンスできるなんて、しあわせだなあ」

 ああ。それは、そうかも。

 卒業したら、ギイが進路をどうするのかわからないけど、だが少なくとも、こんなふうに密接に日々を過ごすなんて、どう考えても不可能だろうから。

「なんだ、ちっとも嬉しそうじゃないな、託生?」

「そんなことないよ」

「またしてもオレのワガママに強引につきあわされたって、ムッとしてる?」

「違うよ、ギイ」

 来年の今頃、ギイではなく、ぼくはどうしているのだろう。まだちゃんと進路を決めていないのに。音大を目指そうかとは思っているが、決心するには至ってないのに。

 でも、だからこそ、佐智さんの別荘でのコンサートに向けて、ぼくは本気でバイオリンの練習を(独学だけれど)重ねていた。

「じゃなくて、これはぼくからのワガママだけど、ちゃんとバイオリンの練習ができる所に泊まりたいんだ」

 ギイは更に微笑むと、

「了解です。遠慮なく練習できる宿を用意しましょう」

「ありがとう」

「こちらこそ。感謝してるから、託生」

 ギイはぼくが読みかけていた雑誌をベッドの隅に押し遣ると、ぼくの上へ重く覆いかぶさってきた。

 彼の影がぼくに落ちる。――洗髪を済ませまだ乾ききらない彼の長い前髪が、細い束でぽとんとぼくの額に落ちる。

「本当に久しぶりだな。この角度でお前の顔を見るの」

 彼の手が、ゆっくりとぼくの頬を撫でた。

 何度も、何度も。

「ギイ……」

「今夜は長いからな」

 睫毛の先が、吐息で揺れた。「覚悟しろよ、託生」

 そしてぼくの口を開かせて、ギイは柔らかな舌先を滑らせた。


 打ち寄せる波は音もなく静かで、夢か現か、わからなくなる。

 波打ち際で、きみが笑っている。太陽のように。

 輝くばかりの生命力に、その圧倒的な眩しさに、またしても、戸惑う。

 きみは、なにが本当の仕合せか、わからなくなることはないのだろうか。

 昇る朝日の美しさに感動することも仕合せならば、

 沈む夕日の切なさに涙することも、仕合せなのかもしれない。

 自分の喜びと、誰かの喜びとが等しく嬉しく感じられる瞬間も、仕合せなのかもしれない。

 たくさんの、いろんな仕合せがあるのだろう。

 けれど、真実、仕合せとは、なんだろう。

 きみならば、その答えを知っているのであろうか。


 海からの潮風が、譜面台に置かれた楽譜を煽る。

「おっと」

 急いで弓の先でページを押さえ、「んーと、ここは」

 ついでに、弓の先で指揮するように、楽譜に書かれたアーティキュレーションの曲線を、なぞるように辿ってみる。

 ここで終わって、同時に始まる。――ワン・ノート。この音は、前のフレーズの終わりの音であると同時に、次のフレーズの始まりの音である。ひとつの音から、終わりと始まり、その両方のニュアンスを導き出さねばならないのだ。

「んー、どうやるんだったかなあ」

 終わった印象が強くても、始まる印象が先走っても、よろしくない。

 微妙なバランス。

 もう何年も前になってしまったが、師事していた頃の須田先生のレッスンを、思い出し、思い出し、何度も何度も、楽曲が描くラインを根気強く辿ってゆく。――繰り返しの中から感覚だけで再発見してゆくのだ、正解を。

 静かな夏の日の午後、ギイが用意してくれた宿泊先のリゾートホテルは、スタンダードな客室ですら優雅なのに、ホテルより一段高く、更に風光明媚な海に面した小高い丘の上に数軒建つ石造りのコテージは、広くて、流れる時間が穏やかで、じっくりバイオリンの練習をするには申し分のない、――いや、ぼくには勿体ないほどの、素晴らしい場所であった。

 ぼくには贅沢過ぎる空間。だが、ギイにはとても自然であり、やはり、周囲に気兼ねなく練習できるという点で、とてもありがたい客室である。

『夏に、会えるよね?』

 ゴールデンウイーク、佐智さんの別荘、ワタナベ荘で佐智さんから誘われた一言は社交辞令でもなんでもなくて、八月十三日にはこの曲を、と後日送られてきた楽譜はなんとっ、サン・サーンスの『序奏とロンドカプリチオーソ』であった! ――オソロシイ。

 それからぼくは、音符との闘いの日々を過ごしていた。

 佐智さんからの楽譜には、丁寧な筆跡で、

『よくコントロールされた情緒過多が理想』

 との、短い一言が添えられていた。

 でもって、これが、演奏の難しさを更に上乗せしてくださる、悩みの種となったのだ。

「実に簡潔な表現だよなあ」

 だから、言葉としては理解できるのだ。

 けれど、実行となると、どうしていいか、わからないのだ。

 そもそも、よくコントロールされた、という部分、これが難問。どの音ひとつ鳴らすにも、無意識も偶然も無神経も許されないのだ。そして情緒過多。これも、難問。やり過ぎると下品になる。耳障りな演奏になる。だから、もとに返して、よくコントロールされなければならないのである。でもって、それらはつまり、聴く人の感動をコントロールしろと、言われているようなものなのだ。

「だから、まとめの単語が、理想、なんだよな」

 そう弾けたら、どんなに素晴らしいか。

 加えて、この一言をぼくに伝えることのできる佐智さんは、既にその力を持っているということで。

「これで同い年だなんて、やんなっちゃうよねえ」

 天才とは早熟さのことなのだそうだが、ギイはぼくに、

「お前はそんなに早く老ける必要はないだろ?」

 と、からかい半分で慰めてくれるのだが、

「凡人はやっぱり、それなりに年月を重ねないと、なにも体得できないよなあ」

 一瞬で理解とか一を聞いて十を知るとか、ぼくには到底、届かぬ世界だ。

 託生のバイオリンは悪くないと常日頃から甘い採点をしてくれるギイですら、さすがにぼくのことを天才だとは思っていないらしかった。――当然だけど。

 なので、頑張る。

 毎日、毎日、頑張った。いや、頑張っている。

「へえ、こんな可愛い子ちゃんが弾いてたんだ」

 突然コテージのベランダから声がして、ぼくは、それこそ心底からギョッと身を竦ませた。驚きのあまりバイオリンを取り落とすどころか、逆に竿をぎゅっと握りしめる。

 誰だ? というか、このベランダって、確かそのまま海への崖になってるんだよな。どうやって現れたんだ、この人は。

「そんなに固まることないのに」

 にこやかに笑いながら、男はベランダの手摺りにひょいと腰掛けて、「泥棒でも強盗でもないよ。悪いことをしに来たわけじゃない。ねえ、今弾いてたの、サン・サーンスの『序奏とロンドカプリチオーソ』だろ?」

 人懐こく訊く。

 とてもクラシック音楽に興味があるとは思えない外見の男にさらりと言い当てられて、

「あ、そうですけど」

 ぼくはちょっと、警戒を解く。――クラシック好きに悪い人は、や、いないわけないけど、やっぱり同じ趣味の人とは、うっかり親近感が生まれるではないか。

「きみ、音大生?」

「や、違います。そういうんじゃ、ないです」

「なら趣味で弾いてんの? それにしては良い楽器、使ってるよねえ」

「えっ?」

 まさか、ぼくなんかが弾いた音色だけで、つまり、楽器の本領を発揮してるとはお世辞にも言い難い、こんなそこそこの音だけ聴いて、これがストラディバリウスだとわかったのだろうか、この人には。

 だとしたら、とんでもない耳をしているぞ。

「あなたも、バイオリン、弾くんですか?」

「まさか」

 弾けるように男は笑うと、「そういう風流なことは、俺は担当外だよ。でも、安物かそうでないかくらいは、見た目でなんとなくわかるじゃないか」

「あー……、それは、そうかも、ですね」

 佐智さんのアマティを初めて手にしたとき、ぼくもそれを感じた。人でも物でも本物には、誰語らずとも、力強い存在感がある。

「だろ? ふうん、そうなんだ、趣味で弾いてるんだ」

 にこにこしながら二度三度頷いた彼は、「同じ海風でもここの風は乾燥してるから、バイオリンにもそう悪くはないんだろうな」

 またしても、玄人クサイことをおっしゃる。

「あの……、本当に、音楽は……」

「やらないって。近くを散歩していたらステキなメロディが聞こえてきたんでね、どんな人が弾いてるか興味が湧いて、それで少しトムソーヤしてみたんだよ」

「崖、登ったんですか?」

「フリークライミングも趣味のひとつなんだ」

 ウインクされる。

 どこまで本気なのか、今ひとつどころかまったく摑めないぞ、どうしよう。

 男は身軽な動作で体を起こすと、

「このホテルにはバカンスで来てるんだろ?」

 ベランダの柵を、長い足でひょいと向こう側へ越える。――良かった、帰ってくれるんだ。

「バカンスと言うか、なんと言うか……」

 この辺りは有名な観光地なので、そう思われて当然なのだが、ぼくが口籠もると男は面白そうに、

「わかった、誰かに強引につきあわされたんだ」

「え?」

「図星だろ?」

 図星です。でもおかげで、こんなに素晴らしいホテルのコテージの宿泊代も食費もなにもかも、タダです。でもって、さすがにちょっと、心苦しいです。

 そのとき、石の床を近づいて来る足音がして、

「託生? どうかしたか?」

 昨日まで、文字どおり不眠不休で動いていたらしく(そういえば、去年も佐智さんの別荘に来る為に相当な無理をして時間を作ってくれたんだったね、ギイ)昼過ぎにチェックインを済ませてから、続きのベッドルームで泥のように眠り込んでいたギイが、寝ぼけ眼のぼんやりした風情のまま、壁の陰から現れた。――三年生になってからギイの必須アイテムとなっているタイトな髪形と銀縁のメガネは、今回のバカンスでは外されていた。髪の全体的な短さは戻せないとしても、撫でつけずにさらさらにしたままの色素の薄い栗色の髪が、動きにつれて揺れるだけでぐっと砕けた雰囲気になり、いかにもバカンスらしくて、良い。

「よお、相変わらず麗しいね、義一クン」

 男が言う。

 おおっと、(そんな予感はしていたが、やっぱり)お知り合いですか!?

「なにしてらっしゃるんですか、乙哉さん」

 不意打ちであろうと動じない男、崎義一。こんなにアヤシイ構図でありながら、これまた冷静に尋ねる。

「見てわかるだろ? ナンパだよ」

「――へえ」

 ナンパの一言に、ギイの眉が少し上がった。腕を組み、「暇ですね」

 短く言う。

「冗談だって」

 不穏な空気を読み取ったのか、彼はにっこり笑うと、「典雅なバイオリンの音色に惹かれて、散歩の途中で寄り道しただけさ」

「それはそれは」

 ギイは大きく二、三度頷くと、腕を組んだまま、「でも次からは、ちゃんとドアからいらしてください」

 視線で入り口のドアを示した。

「はいはい。それより、こっちに来てるのに挨拶なしってのは、寂しいね」

「さっき、着いたばかりです」

 疲れの色を隠しもせずに、ギイは溜め息混じりに言う。

「なら、今夜のディナーに誘ってもいいのかな?」

「いいですけど」

「もちろん、そっちの可愛い子ちゃんも一緒にね」

 可愛い子ちゃん、の一言に、またしてもギイの目付きが変わる。

 男はすかさず、

「ギイが来るとなったら、田上が喜んで腕を揮うぞ」

「田上さんはお元気ですか?」

 いきなりギイの口調が柔らかくなった。機嫌が良くなった証拠だ。

 むむ。――田上さんって、誰?

「元気にしてるよ。俺のせいでこのところ忙しくてたまらないと、毎日文句を言われてる。老人を労れってね」

「まだそんなお年じゃないじゃないですか」

「それ、本人の前で言ってやってくれ」

 彼はぼくに視線を移すと、「夕食の後で、なにか弾いてよ」

 バイオリンを指さした。

「とっ、とんでもない! 人前で弾けるような、とてもそんな腕じゃありませんっ」

「そんなに謙遜することないのに。良い音だよな、ギイ?」

「そうですね。少なくとも、睡眠の妨げにはなりませんから」

 ギイ、それって、褒めてるの? 貶してるの?

「ちいさな曲でいいからさ。たくさんの聴衆が嫌なら、家族には外してもらうから、ダイニングじゃなくて、テラスでワインでも飲みながら、ちょこっとだけ」

「や、でも……」

「いいじゃん託生、人前で弾ける機会なんてそうはないんだからさ、良い練習になるんじゃないか?」

 ギイに促され、

「――それは、そうかも」

 ぼくは頷く。

 いや、初対面の人を相手に、しかもその人のお宅で“良い練習”というのも、語弊があるかもしれないが。

 確かにギイが言うように、場慣れは大事だ。特に、経験値の低いぼくには。

「なら、決定。六時においでよ。積もる話もしたいしさ。じゃあね」

 ひらひらっと手を振って、男はベランダから姿を消した。

「ギイ……?」

 諸々の説明を求めて彼を呼ぶと、やれやれと肩を竦めたギイは、

「彼が、古舘乙哉」

「え? って、婚約披露パーティーの?」

 なーるほど。言われてみれば、そんな感じの会話であった。

「じゃ、田上さんて?」

 すごく、気になる。彼の何が、いきなりギイの機嫌を良くしたんだろう?

「古舘家別邸の料理長だよ。京懐石からなにから、和食が死ぬほど旨いんだ」

 はいはいはい。食いしん坊のギイならでは、でありました。

「別邸って、別荘とは違うの?」

「違うな。――このホテルに来る手前の海沿いに、少し距離を開けてお屋敷がふたつ、並んでただろ? ひとつが古舘家の別邸で、もうひとつが野々宮さんという人の屋敷なんだ」

「そっちは別邸じゃないんだ?」

「野々宮さんは地元の人だから」

「ふうん」

 ギイからの前情報によると、古舘乙哉は二十一歳、もちろんギイの知り合いだけあってかなり大きな企業の社長のひとり息子でまだ大学生なれど、先日、古館家の養女で姉弟としてずっと一緒に暮らしていた、みっつ年上の(つまり、血の繋がりのない)古舘良美と婚約した。

「じゃあ別荘と別邸って、どう違うの?」

「さして変わらないケースもあるにはあるけど、基本的には、常に人が住んでいるか、いないか、だな」

「でも軽井沢のギイん家の別荘には、いつもフミさんが住んでるじゃないか」

「管理人としてだろ? そういうんじゃなくてさ、家人の誰かが常にそこにいる、――少なくとも古舘の別邸には画家をしている彼の叔父が、つまり家人を含め常に何人もの人が暮らしているからさ、ほら、本宅と別宅を行ったり来たりの生活、ってのは聞くが、本宅と別荘を行ったり来たりの生活、ってのは、あまり聞かないだろ?」

「う……、うん?」

 自信なさげに頷く世間知らずのぼくに、

「細かい話はさておき、それより託生、練習が一段落しているようなら、少し砂浜を散歩しないか?」

 ギイが話題を変えてくれた。

「いいよ。あれ、でもギイは、先ずは泳ぎたいんじゃないのかい?」

 このホテル界隈はホテルの施設も含めマリンスポーツが盛んで、スポーツならなんでもござれのギイのことだ、着いたならばぼくなんか放って、泳ぐの潜るのジェットスキーのと、遊びまくるのかと思っていた。

「そのうちな」

 短く応えたギイは、「ああでもまだ日差しが強いか。散歩するのは古舘家への移動も兼ねて夕方にして、軽くパニーニでも食べに行くか」

 おおっと! 同じ軽食の誘いでも、パニーニ限定とは!

「やたら具体的な誘いだね」

 つい、ぼくが笑うと、

「このコテージにはコテージ毎に、プライベートのちいさなプールがベッドルームの外にひとつずつ付いてるだろ? ホテルの方には、たくさんの客室に取り囲まれるように三種類のでかいプールがあってさ、そのうちひとつのプールサイドにあるドリンクバーのパニーニが、これまた旨いんだよ。頼んでから出て来るまでにやたら時間を食うんだけどな、それは飲み物のスタッフがオーダーをこなす合間に料理を作るからなんだけど、加えて彼らは食事の方は素人だから、手際が悪いってのもあるんだろうが、その代わり、それはそれは丁寧に作ってくれて、材料費のこととか下手に計算しない素人だから、パンに挟む具材もケチらないし、味付けはプロの料理人のレシピに忠実だしで、結果、マジ、穴場なんだなこれが」

 ギイはぼくを見てにやりと笑うと、「想像してみろよ、託生。作りたてのフレッシュなモツァレラチーズに、甘くて濃厚な味のドライトマト、摘みたてのハーブと挽きたての黒コショウに本物のエキストラバージンオリーブオイル、それに最高級のバルサミコ酢を少し効かせて、それらをバランス良く混ぜ合わせたものをたっぷりと、歯ごたえのあるむちっとしたパンに挟んで、両面を香ばしく軽くプレス焼きするのさ」

「行く!」

 ギイほどの食いしん坊ではないぼくでも、そんな説明をされたら猛烈に食べてみたくなってしまう。「行こう、今すぐ!」

 昼前にギイと待ち合わせた先で昼食を済ませていたので、ちょうど小腹が空いてきたタイミングでもあったのだ。

「よし!」

 にっこり笑ったギイは、ぼくの頬へ弾むようなキスをすると、「パニーニ食べ終わったら、腹ごなしにエッチしよう?」

 耳元へ悪戯っぽく囁いた。


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※この続きは是非、10/1発売ルビー文庫『タクミくんシリーズ完全版8』(著/ごとうしのぶ)にてご覧ください!

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