海星の夢

やかん

第1話 海星の夢



 それは、突然の発言であった。


「ひなた、あさひを取りにいこう」


 自宅の机に突っ伏して気持ちよく眠りについていた俺を揺り起した第一声がこれだ。

「……えーと、星那せいなさん?」

 寝起きで思考がまとまらない俺は、自分の顔を覗き込むようにして笑顔を向けてくる彼女を、ひとまず見つめ返すことにした。

 すると星那は目尻を下げて柔らかく微笑みながら、ひとつのチラシを突き付けてきた。

「これを見て」

「んー……?」

 よくみるとそれは旅館のパンプレットらしい。そこにでかでかと書かれている文字を目で追う。

「『一面に広がる海が一望できる旅館、プライベートビーチ付き』……はーん、これが目当てか」

 窓を開けると潮風とともに絶景が云々と、とにかく海に面した宿と強調して書かれていた。大方夏の海水浴客を狙ったうたい文句だろう。

 星那は昔からとにかく海が好きだった。水族館に行こうものなら、一日じゃ足りないくらい水槽に張り付いてる。確かにそんな彼女には、うってつけなのかもしれない。

 ちらりと相手の表情を窺いみると、依然として笑顔を貼り付けたまま期待してこちらの返事を待っていた。しかし、俺は社会人。星那は大学生。明らかに時間の余裕というものが違ってくる。

「あのさぁ、いくらなんでも急すぎない? 俺仕事詰まってるんだけど」

 呆れた視線を彼女に向けるが、相変わらず楽しげにゆらゆらと動きながら微笑むのみだった。そんな様子に大きくため息をつきながら、どうしたものかと考える。

「だめ……?」

「ダメ、というか……」

 あー。いや、そんな裏切られた子犬のような顔しないでよ。まるで俺が悪者みたいじゃないか。

 いつだってそうだ。幼馴染殿のお願いには弱いように、俺は幼少時代に作られてしまったらしい。

「……あー……そもそも他の人はなんて言ってるの?」

「……?」

 すると、俺の言葉を聞いた頭上にはてなマークが浮かんで見えるくらい、不思議そうな顔をして小首を傾げた。

「だーかーら。反対意見とかでなかったの。星那のおばさんなら『いいわねぇ、行きましょう~』とか言ってあっさり賛成しそうだけど……」

「だって、ひなたしか誘ってない」

 ほっ?

 俺は固まった。というよりも動揺を隠すのに精一杯でむしろ動けない。

 星那と、え? 二人? 旅行?

 脳内で先ほどの彼女の言葉を反芻してみたが、やはりこれは『二人っきりで旅行へ行こう』という誘いだよな? 合ってるよね、早とちりじゃないよね!?

 誤解が無いように説明しておくと、別に俺たちは付き合ってる訳ではない。家が隣同士の家族ぐるみの付き合いのある、幼馴染。

「ひなたー?」

 星那は突然動かなくなった俺を心配そうに見つめる。やめて、今俺を見ないで! あ、その顔くそ可愛い!!

 表情は一切変えないようにしているが、現在の脳内の自分の化身はだいぶアクロバティックなことになっている。いやー怖いなー! エンジェルは人を殺すねー俺現在進行形で殺されそうー。

 そう、もうお分かりだろうが俺、上崎ひなたは。 この幼馴染に恋をしている。というより最早愛してる。

 しかし、別に恋人になろうとか、そんなのは全然これっぽっちの欠片も塵もミジンコもなくてですね!! 嘘ですめっちゃなりたい!!

 実際のところは、今更そんなことを言い出すのが恥ずかしいだけでして。現に、こいつは俺のことを『お兄ちゃん』としか見てないってことは自分自身がよぉくわかってる。

 あーーこれが恋人としての提案だったらどれだけ嬉しいか! 仕事全力で終わらすわボケ!!

 そんな俺の脳内の叫びなどは聞こえる訳もなく俺からの反応が無いことを否定と取ったのか、やがて星那は眉を下げてしょんぼりとした表情になる。

「もしかして、私と行くのは嫌……?」

「んな訳ないじゃん!! 行こう!! 今すぐにでも!!」

 やっだ。ひなたくぅん、言ってることちがくなぁい?    

 だが、そんな俺の返答を聞いて、星那は途端に輝くような笑顔を見せた。

「よかった……一緒に海見たいなぁ」

 うんうん、俺も海見たいなぁ、ひなた、海大好き。

「って!! 違う!! だろ!!」

 勢いよく椅子から立ち上がり、枕にしていたカバンを地面に投げつける。いけない、また星那のペースに流されるところだった。二人っきりの旅行というワードに浮かれすぎて根本的な問題を見逃したままだった。

「ひ、ひなた? どうしたの?」

「うん、ちょっとごめん。今精神的に不安定みたいで、今すぐ除夜の鐘の音聞いて消滅したい気分なんだ。……って、違う違う。星那。あのな、わかってる?」

 俺らは異性同士であって、家族ぐるみならともかく、二人きりとなると色々と問題が出てくるわけで。

「……? なにを?」

 あー。こいつはそんなことはきっと露にも考えてないんだろうなぁ。なにを、の時点で答えはおおよそ想像は付いたが、形式的に聞いておこうと思う。あ、もうやだ泣きたい。

 でもこれチャンスなんじゃない? 意識させよう作戦決行すべき時が今来てる気する。占いのばっちゃも積極性が大事って言ってた。

 真剣な表情を作って、二人の間の空気をシリアルに変えよう。あ、ちげぇよ、朝食作ってどうすんだよ。シリアスな。んん、集中しろ。ここが大事だぞひなた(23)。

「……俺、これでも男なんりゃけど」

  噛んだーーーーはーーい!! 上崎ひなた本日閉店でございますーー!! ありがとうございまっしたーーーー!!

「えっと、知ってるよ?」

 そっすね!! もうごめんなんでもない!!

「今日のひなた、どうしたの? 熱、ある?」

 そういっておもむろに顔を近づけてくるのはやめていただきたい。自分の体温が一気に急上昇するのを感じる。

「いや、ごめん! 多分疲れてるだけ! ……そうそう。いつ行くつもりなの? お互いのスケジュール調整とか、宿の予約だって取らなきゃいけないし」

 無理矢理にでも話題を変えて気分を切り替えることにした。実際話そうとは思っていたことだし、うん。

 しかし、そんな質問はあらかじめ予測していたようで、ドヤ顔で何故か俺の手帳を差し出してきた。

「え、見ろってこと?  ……どれどれ」

 六月のページを開く。すると月の後半に『私と旅行』と二日間メモしてあるのが見えた。

「大丈夫。雪菜さんにはもう、了承を得ております!」

 雪菜、というのは俺の直属の上司であり、彼女の叔母である。……が、今からとびきりの笑顔で首切るサインとってくるのが予想出来る。あの人星那大好きだからなぁ……。

「あー……そこまでしてくれてるなら、まあ」

 何が「まあ」だよ、どチクショー。脳内の上崎はついにサンバ踊りだしたぞ。

 ……うん、あれ? というか元々俺の拒否権無かったの。いや、嬉しいけど。

「ふふふ、ひなたと旅行、楽しみ」

 だが、本当に嬉しそうにその場でくるくると回りだす星那の姿を見て、全ての思考を停止することにした。まあなんとかなるさ。しばらく睡眠時間が減るというだけで済む問題だ。


「……あれ?そういえば『あさひ』をとりにって何?  潮干狩りはさすがにまだやってないでしょ」

 寝起きだったためなんの疑問にも思っていなかったが、思い返してみると少しその言葉がひっかかった。自分が「あさり」と聞き間違えたのだと認識したが、それにしても不思議だ。チラシに書いてあったからか?

 返答を求めて星那の顔を見る。すると同じ笑顔で、

「『あさひ』は『あさひ』ですよー。ふふ、行けばわかるって」

 としか答えてくれなかった。まあ星那のことだ、今考えても俺には予想つかないだろう。




 ***




「たのしいねっ」

「そ、そうだな……」

 いきなり旅館の魚に話しかけ始めたり、街角の水槽に手を突っ込もうとしたり、魚屋のおっちゃんと数時間話し込んでそのまま海に漁に出に行こうとしたり等々以外は楽しかったかな!

 そんな具合に日中振り回され続けた俺は夜、旅館に戻るころにはへとへとになっていた。

 気持ち猫背になりながら小さくため息をつく。ちらっと横を窺い見ると、星那と目があった。

「ひなた」

「んー?」

「つきあってくれて、ありがとう」

「……はは、今更何言ってるの。楽しんでる星那を見てると、俺も楽しいよ」

 言ってから少し本音を言い過ぎたかと不安に思ったが、星那は特に気にした様子もなく、俺の大好きな笑顔を向けて、微笑んだ。


 この笑顔をみる度に俺は俺を許された気持ちになれる。だからこそ、彼女の横に居続けたいと願ってしまう。

 別に自分の元へ帰ってこなくてもいい。縛り付ける気なんてさらさら無いし、この想いをこのまま死ぬまで告げられなくたって俺はそれでも構わないんだ。

 いわば『星那』という存在が俺の支えになっているだけだ。その笑顔さえあればいい。

 さあ、これを恋と呼ぶにはあまりに身勝手なこじつけだろうか。

 いいじゃないか。俺にはこのくらいが丁度いい。


「……俺はね、星那にとって、浮き輪になれたらいいと思っているよ」

 星那は驚いたように目を見開く。そんな星那に自分が出来る精一杯の微笑みで返した。




 ***




 涼しい風を感じて目を開ける。

 寝る前に窓を閉め忘れたのだろうか、確認をするために身を起こす。すると月明かりに照らされた星那の姿が見えた。夜風になびく色素の薄い髪は月の光を反射しながら美しく輝いていて、その空間は現実とは切り離されているかのように思えた。

「せ、いな」

 知らず知らずのうちに彼女の名が口から漏れ出していた。その声に気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その動作すらも神秘的で、思わず息を飲んだ。

「ひなた」

 名前を呼ばれ、反射的に身体がビクリとする。俺の反応が可笑しかったのか、クスクスと笑いながらこちらへ向かってきた。

「ひなた。散歩へ行こっか」

 俺は差し出された手を躊躇せずに握り返した。

 彼女の手はすっかり冷え切っていて、体温なんて存在していないかのようにすら感じてしまった。


 砂浜を一歩一歩踏みしめるように歩みを進める。砂浜に映った二つの繋がった影は、どこまでも後ろに長く伸びていた。

 会話はない。横の海をみると昼間とはうってかわって、底の見えない暗闇が広がっているように感じられる。思わず星那の手を強く握ると、それに応えるように握り返してくれた。

 しばらく歩いていたが、あるタイミングで星那は足を止め、海へと向かいあった。つられて自分も同じようにする。夜風が冷たい。星那は寒くないのだろうか。

 彼女に向けて口を開こうとしても、それが憚られるような静けさの圧力が存在していた。

 静かな海を見始めてどのくらい経っただろう。もしかしたら、そう幾つも経っていなかったかもしれない。


 星那はここで沈黙を破った。

「私は、卑怯者だね」

「……え?」

 彼女らしくない意外な言葉に驚き、星那の方を見る。しかし彼女はこちらは見ようとはしなかった。

「……いや、臆病者、なのかな。欲深い、のかな」

 いつもの明るい調子とは全く違い、淡々と語る。

「ひなたが、浮き輪になれたらと、言ってくれたのは。嬉しかった。でも、ごめん。それじゃ、足りない」

 海へ視線を向けていた彼女の瞳が、ゆっくりとこちらを捉えた。

「私は」

 今にも泣きそうな表情で声を詰まらせる。月明かりの残骸が揺らめく茶色の瞳が、まるで宝石のように美しくて、何の言葉も出せなかった。


 その表情を見て悟った。

 そうか。星那は。

 俺は、やっと彼女の言葉の意味を理解することが出来た。



「星那、朝日を取りに行こう」


 弾かれたように星那は肩を揺らす。そして、すぐに安堵した表情で笑ってくれた。




 一歩、一歩踏みしめて。君の好きな海星に挨拶でもしようか。























 ***



「星那、あさひを取りにいこう」



 返事はない。



「これを見て」


 返事は、ない。


「『一面に広がる海が一望できる旅館、プライベートビーチ付き』だって」


 返事は。


「雪菜さんの了承は得ました」



「星那」



「起きて」










「わかった。先に行ってる」



 真っ白なシーツと薬品の香りに包まれた彼女の額にキスを落とす。部屋に響くのは心電図の定期的な音と俺の呼吸のみ。



 彼女はなにも言わない。














 おやすみ。

 素敵な海星の夢で、また会おう。












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