TRAIN

陽鳥

街はずれのホームにて



 カンカンカン、と響く音に、少女はやぶにらみの両目をぼんやりとそちらへ向けた。小さなお尻を載せていたベンチからひょいと飛び降りると、日が暮れ始めたためか、汚れた素足に伝わる熱は少しぬるくなっていた。

 空の向こうから雲が近づいてきている。わずかに雨の匂いが混じっている。

 少女の視線など気にも留めない様子で、列車は薄暗いホームに滑り込んでくる。金属のこすれる音がして、列車は少女の前に止まった。

どこへ向かうのか知らないけれど、次の列車に乗ろうと決めていた。

 重い音とともに開いた扉の中へ、少女は足跡を残しながら吸い込まれていった。


 列車の中は少し蒸し暑く、人の呼気が滞留しているように感じられた。木目調の車体には、誰のものか、ぽつぽつと汗のしずくが落ちていたりする。その水玉模様を小さな足の裏がすりつぶしていく。

 二人掛けのシートはそれぞれ一人か二人ずつに占領されていて、少女は誰かと相席しなければならないようだった。しばし立ち止まり、視線を巡らせる。

 しわしわの新聞を広げる黒衣姿の男性は小難しい顔で活字を眺めている。旅装の若い男性は、つば広の帽子の下でしかめっ面のまま眠りに落ちていくところのようだ。揃いの制服を着た女学生たちは、中身のない会話に興じている。天井では力なくシーリングファンが回り続けていた。車両の一番後ろの席、そこには少女と同じくらいか少し年上の少年が座っていた。

 少女の背後で扉が閉まった。

 列車はとぼとぼと動き出し、少女もまた、のろのろと一番後ろへ向かった。どうやら外を眺めているらしい少年の横に、浅く腰掛ける。

 がたん、ととん、がたん、ととん、――。

「こんな風に音がするの、初めてだ」と少女は思った。

「こんな音も、こんな人たちも、初めてだ」と少女は思って、自分の泥だらけの指先を見つめた。今じぶんは、面白い、と感じているような気もしたけれど、なんだかそれは違う気もして、胸の奥がむずがゆかった。

 指先をこすり合わせると細かな砂粒がズボンの上に落ちたので、腿の上を払った。それからまた、指についた泥をこすって落としていく。いくら落としても綺麗にはならないけれど、なんだか楽しくなって、少女は夢中でそれを繰り返した。

「ちょっと」と、不機嫌な声がした。「やめてくれないかな」

 隣の少年が、静かに苛立ちを浮かべてこちらを見ていた。そうしてようやく、少女は彼の容貌をはっきりと認めた。少女とは違って、顔も指先も白くって、滑らかで美しかった。着ているものだって、なんだか布が多い。旦那様や奥様や、あのお屋敷にやってくる誰よりも綺麗な気がして、それなのにどこかツンと澄ました表情が大人になりきれていなくて、却っておかしさを感じさせる。思わず少女の顔には笑みが浮かんだ。

「あなた、ずいぶんと綺麗なのね」と少女は言った。

「君と比べたらね」と少年は返した。

 そっけないけれど、少年はこちらに視線を向けたままだった。だから、少女は思わず、手を伸ばした。

「わ」

 驚いてひっこめられた左手を、汚れた指先がかすめた。

「あ、ごめんなさい。汚しちゃったかしら」

 謝ろうとさらに手を伸ばした少女に、少年は身を縮めるようにして背を向けた。

 がたん、ととん、がたん、ととん、――。

 列車は山の懐へともぐりこんでゆく。彼に対してあまりよろしくない態度だったようだと感づいた少女は、静かに窓の外を眺めた。沈みかけた夕陽の色を覆い隠す、むせかえるような暗緑色の中を、列車はびゅんびゅん走っていく。風景を追う眼球が忙しい。そのうちに疲れてしまって、少女はギュッと目をつむった。再び目を開けると、少年がこちらを窺うように見ていた。

「列車、そんなに珍しい?」

「初めて!」と少女は言った。「こんなヘンなとこ、初めてよ」

「そうなんだ。僕はもう、飽きるくらい乗ってるんだけどね」

 がたん、っ――。

 少女は外の様子が一変したことに目を丸くした。ランプの明かりだけがぼんやりと車内を照らすけれど、窓の外は夜の帳が降りてしまったかのように真っ暗だった。

「トンネルだよ。山の中を通るために、穴の中を進むんだ」

「私たち、いま穴の中にいるの……?」

「そうだよ。これを越えて、向こう側に行くのさ」

 がたん、ととん、がたん、ととん、――。

 列車が進むにつれて、出口が近づいて来るようだった。少女は少年に構わず、窓のほうへ体を近づけた。遠い、小さな光がやってくるのが見えて、思わず声が漏れた。



 外の光が眩しくて、一瞬目をつむった。それから、飛び込んできたのは陽の輝きを反射する海辺だった。トンネルというのは不思議だ。興味に瞳を輝かせて窓の外を覗き込むと、列車はずいぶんと高い崖の上を走っているようで、少女は小さく身じろぎをした。

「美しいところだったんだ。――僕の帰りたいところさ」

 座ったまま遠くを眺めて、少年は語り始めた。

「小さいころから、父の知り合いのところへ通っていてね。学問や音楽を習うために、いつも列車に乗っていた。本当は住み込めばよかったんだけど、母は反対したから通いだったんだ」

 この人は、お屋敷の人たちと同じ側の人なんだ、と少女は思った。なんだか眩しく感じられて目を伏せる。

「きっと父の理想と母の希望は違っていたんだ。僕はどちらの思い通りになることもできなかったんだけどね」

「あなたは、どちらになりたかったの」

 大人しく自分の席に戻って、少女は尋ねた。

「どちらに……なんて、考えたのは初めてだ」

「私と一緒ね」

 少女は優しく笑った。

「この街が好きだったんだ。だから母と同じように、ここを離れたくなかった。でも、父の言うように学ぶことも好きだった」

 少年はそっと、聞き慣れない言葉で歌い始めた。

「綺麗な歌……」

 少年は少し照れたようにはにかんでから、嬉しそうに笑った。

「教えてあげるよ。覚えていて欲しいから」

 海岸沿いを列車が進む間に、小さなハーモニーもまた、列車と並走していった。



「次は君の番だよ」と少年は言った。闇の中に飛び込むように、風景は真っ暗になったかと思うと、あとはもう列車の揺れる音だけが空間を支配した。

「どこに行きたい? どこに行くために、この列車に乗ったんだ?」

「うーん、それがよくわからないの」

 少女の脳裏に、微かなイメージが結ばれる。けれど、それをうまく伝える術はわからなくて、彼女はそこで言葉を切った。

「たぶん、帰りたくてお屋敷から逃げ出して来たんだけど、どこなのかはよく知らなくって」

 汚れた指先で頬を触ると、お世辞にも美人とは言えない顔を砂色が微かに彩った。

「お屋敷に戻る気はないの?」

「戻る……?」

 少女の表情からは色が、瞳からは輝きが消えた。

 トンネルの中、鋭い風が窓をがたがたと震わせた。小石がぶつかるような音も混じっている。

「ち、違う、戻れって言ってるわけじゃないんだ。でも、早く行先を決めなくちゃ――」

 べちゃ。

 窓の外から何かがぶつかり、風圧に押し広げられるようにその姿をさらした。赤黒い色をしたそれは、すがりつくようにへばりつき、ゆっくりと窓の下へ落ちていく。

 少年は真っ青になり、それを背に隠すように座りなおした。

「君の故郷のことを教えてくれよ。少しずつでいいから」

 焦ったような声に、少女はようやく顔を上げる。

「覚えているのは、広い、緑の野原があってね、大きな生き物が何頭もいるの」

 少女が語り始めたところで、車窓はようやく光を取り戻し始めた。

 一瞬の光がまた、小さな乗客たちの目を灼く。



 列車は広い高原をとぼとぼと走っていた。すっきりと晴れた、柔らかい、力ない陽の光に、みずみずしい草が照らされている。山稜の美しい曲線が、雲のない空を少しばかり削り取っていた。

「ここは、僕が夏を過ごしていた、叔父の家があるところだ」

 少年が小さく呟いた。

「そうね、私のふるさとと、ちょっと似てるみたい」

 少女はそう言って、心ここに在らずのまま笑顔を浮かべた。

 遠くには角を持つ力強い獣の群れや、その世話をする人々の姿が見えた。穏やかで満ち足りた風景が、目の前を黙って流れていく。

「……暑い季節に、家族でここを訪れるんだ。そのときも、こうやって列車に乗って。僕のために用意してくれていた騎獣や、いろんな家畜がいて」

 少女の顔は、どこか晴れない。先ほどまでは瞳を輝かせて少年の話を聞いていたはずだったから、少年の語りもだんだんとしぼんでいった。

「……素敵なところなんだ。君にも見てほしくって」

「うん、ごめんね」

 列車が広大な草原を淡々と横切っていく間、少女はわずかばかりの身の上話をした。移動民族の生まれであること。年端もいかないうちに大きなお屋敷の主人に買われ、下女として働かされていたこと。幼いころの記憶のなかにあった風景をふるさとと呼んでいたこと。

「私のふるさとは、すでに君の物だったんだなって思って。君は綺麗なものをたくさん持ってるなって、羨ましくなっちゃって」

 言い訳の言葉に含まれたさびしさに、少年は唇を噛んだ。



 再び車窓の外は暗転した。列車の揺れる音のほかは排除された確かな沈黙が、しばらくの間車内に立ち込めていた。列車が闇の中から抜け出した時、外は夕暮の太陽が最後の光を投げかけていて、それを追いやるかのように少しずつ雲が出てきていた。雨が近づいているにおいがした。

「帰るところがないのは僕も一緒だよ」と少年は言った。

「早く君の行先を決めなくちゃ、ほんとうに帰れなくなる」

 冷たさを滲ませた声音に、少女は数秒の間考えこむ。

「……僕と一緒、ってのは、だめかな」

 突然の言葉に、少女は彼のほうを見つめた。張りつめていた少年の横顔はわずかに赤みを増した。

「私みたいな子で、いいの」

「帰るところも見失ってしまったっていうなら、その、よろしければ君と、見たことのない綺麗なものが見たい」

 少年は真っ赤になって、額に大きな汗の粒さえ浮かんでいた。つながりを求められたことなんて初めてで。少女の笑顔が咲く。

「うれしい! 私――」

 

 窓の外で、悲鳴のような、金属のきしむ音が彼女を遮った。

 列車は激しく揺れ、しずくは床に大きな染みを作る。

 トンネルの闇の中から再び、赤黒いものが窓にたたきつけられるように飛び散った。

 少年は、これで何度目か思い出した・・・・・・・・・・・・

「……あ、あぁ、あ」

 頭の中に、絶望だけがリフレインする。

 ごとり、と千切れた左手首が、二人の間に落ちた。

失くした手の先からどす黒い影が噴き出して、少女の姿を飲み込んだ。少年の容貌は醜く変形し、過去の出来事をあらわにしていく。肌よりも白いものが、皮膚を突き破る。服も肌も、座席も、赤より濃密な赤に染まる。痛みを感じるわけではないけれど、ぜんぶ記憶の中にある。こんな姿は彼女には見えなかっただろう、という確信。苦悶の渦のなかで、それだけが幸せだった。涙も出ない顔を歪めて、少年は泣いた。

じきに、トンネルの向こうがやってくる。









 屋根のないホームで、薄汚れた少女が降り始めた雨に打たれていた。

 静かにすべり込んできた列車の窓に、美しい顔の少年の姿が見えた。しかし、彼女はその姿を認めることなく、ホームで一人、立ち尽くしていた。

 歌を口ずさんでいる。

 少年はちらりと少女を見遣ると、疲れたように硬い座席に深く座り直した。

 入ってきたときと同じように、列車は静かにホームを後にした。

 少女の口ずさむ歌だけが、それを見送るように空気を震わせていた。

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TRAIN 陽鳥 @hidori

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