第12作目は古典回帰(読了20161017)

 『吾輩は猫である』 夏目漱石 著 

  初出「ホトトギス」1905(明治38)年1月~8月

  長さの目安 約 643 ページ(500字/頁で計算)→約30万文字

  えあ草紙で縦書きで読む:http://www.satokazzz.com/books/


 1. 20161007 目次一を読む 

   うち黙読P.13~24、音読P.3~13、約20分で約8千字程度。21:15終了

(初ツイキャス朗読をお試しで挑戦してみた、6名もの方が偶然?にも聞きに来て下さって励ましのコメントまで頂いて感謝感激である)



 本作を選んだ理由は、久保田氏のエッセイ「カクヨムでヨミカキ」だ。

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054880619061

 

 自作の完成度を高めるにはやはり読むしかない、それも一定以上の「面白さ」があり、「多数の目」を経てなお生き残ったものとして古今の名作・傑作と呼ばれるような作品を読むべし、という言葉から古典に立ち返ったのである。

 

 やはり、とても読み易かった。俳諧に親しんだ芥川龍之介と同様の言葉への優れた感覚を音読からも感じ取ることが出来た。

 しばらくは日々、本作を20分程度音読することを継続していこうと思う。


 同時並行で『アーバンヘラクレス』久保田弥代著、朝日ソノラマ文庫も週末に読む予定だが、アクション系小説のようなので、音読はせず(時間が掛かり過ぎるので)、一気に読み終えてしまいたいと思っている。→後日変更、週送り。


 ―――――


 2. 20161008 目次二を読む 

  うち黙読P.46~100、音読P.25~45、約37分で約1万字強。21:37終了

(本日もツイキャス朗読に挑戦した、14名も聴きに来て下さって有り難い。加えてライブ閲覧の芳賀概夢氏と深海映氏が継続コインを寄付して下さった、有り難い限りであるm(__)m)


 漱石の文章はやはりとても読み易い、音読も非常に楽である。ところどころ古風な言い回しに口が滞りがちだが、かつて『枕草子』を暗唱していた頃のような心地よさがある。 

 本日の音読箇所はあの有名な、猫が雑煮の持ちがくっついて踊りまわる場面だったが、端的な言い回しながら躍動感溢れ、分かり易くビジュアル化もしやすい。脳内で3D変換が苦手な私にも容易についていける話展開はさすが文豪だと唸る。


 後半部に文学を嗜む書生たちで朗読劇を行った様子が出てくる。登場人物の娘の役を大の男が演じるのを女学生たちに笑われて散々だったというくだりは、なにやら今の自分の朗読の姿に重なって苦笑を禁じ得ない。


 いまちょうどNHKで『夏目漱石の妻』を毎土曜21時から放映している。http://www.nhk.or.jp/dodra/souseki/

 第2話(先週放映分)は『吾輩は猫である』を書き上げたところで、音読した箇所が出てきたので嬉しくなって俳優さんのセリフと一緒になって声を出してみた。楽しい♪


 明日より毎晩21時にツイキャス朗読することに決めた。余程のことが無い限り、続けたいと思う。誰かに聴いてもらっていると思うと、眠っていた神経のあちこちが目を覚まして元気になる気がした。周りの力を借りて成長できることは幸せなことだと感謝に尽きない。


 なお、本日より本作の朗読を毎日@一章で続けると全11章なので終了は10月17日になる。さてどうしようか。取りあえず楽しもう。


 ――――――


 3. 20161009 目次三を読む 

 うち黙読P.101~162、音読P.101~117、約30分で約1万字弱。21:30終了。

 本日の音読はできるだけゆっくり、意味を噛みしめながら読むことを課題にした。ツイキャス実施、閲覧合計3名、有難うございました。


 本作はユーモア溢れる古典名作と評されているが、当時の漱石の精神的鬱屈と神経症の影響を受けたせいか、特に今日の三章は非常にアイロニックな印象を受けた。

 猫の一人称語りで人間世界を描くのだから、知性ある皮肉交じりの文章になるのは当然ではあるが、それにしても少々度が過ぎるのではと感じるところが数か所あった。恐らく、これは時代的な感覚の違いもあるのだろう。現代であれば利用不可な単語もいくつか見受けられた。


 また、後半は寒月君の縁談絡みの軽妙なやり取りで笑いを誘うが、前半は物騒な話題が続き、いささか読み続けるのが辛かった。修行としてでなければ放り投げてしまうところだ。なぜ地球の磁気を研究する大学院生が首吊りの力学を論文にするのか、理系音痴なのを割り引いたとしても首を捻るところ多々あり。


 しかしやはり、後半の会話部分は非常に軽快でウイットに富み、漱石の真骨頂といったところか。音読もとても楽しく進めることが出来た。


 ――――――


 4. 20161010 目次四を読む 

 うち黙読P.183~210、音読P.162~182、約30分で約1万字弱。21:30終了。

 ツイキャス実施、閲覧合計7名、有難うございました。しっしー様、雪瀬ひうろ様、芳賀概夢さま、応援のエール(差し入れ&コイン)に感謝致します。


 前半部を音読したが、読み返していると後半部の方が面白いので、次回からは黙読した中で最も面白い個所を1万字程度選んで朗読してみることにしようと思う。


 四の後半はかつての下宿仲間三名の会話が軽妙洒脱で、漱石らしい知的エッセンスを散りばめながらも笑いを誘う文章になっていた。だが著名な博士や研究者、文豪の名を並べてもっともらしい講釈を垂れるという、鼻持ちならない描写には苦笑を禁じ得ない。

 結婚後の6年間を大学院生として過ごした身を振り返ると、大学院生というのは世の中からはこんな屁理屈屋の集団だと思われているのかと、時代の差こそあれ、少々暗い気持ちになる。まあ仕方ない、半分は当たっている。しかし残りの半分は……象牙の塔に残った連中を思い返すと、強ち外れてもいないか・笑


 さて、ここまで読んで来て気付いたのだが、本作品は猫の一人称語りとされているが、実際には漱石をモデルとした苦沙弥くしゃみ先生と視点が同化する書き方が随所に見られる。猫の視点だけで語られる部分も多いが、猫が先生の様子を目にしながら語る時は、先生の心の中の動きがそのまま文章になっている、つまりは神視点になっているのだ。口調は猫のままだが。

 先日来、人称や視点について少しずつ勉強しているが、一人称語りの中でここまで神視点が入り込みながら自然に感じられる作品は初めてだ。


 さて、ここまでこの作品の朗読をしてきたが、「読む」方はこのまま続けるとして、朗読は別のものでも良いかもしれないと検討中。なお『アーバンヘラクレス』は、本日より拙連載を再開した余波で明日に持ち越しとなった。電子書籍刊行の折に書籍版から改稿されていると知り、いずれ両者を読み合わせる日が楽しみだ。


 ―――――――

 5. 20161011 目次五を読む 

 うち黙読P.211~257、音読(朗読)P.242~257、約27分で約1万字弱。21:30終了

 ツイキャス実施、閲覧合計3名、たり様にはコインご寄付も頂き有難うございました。


 今回より、朗読箇所を章の冒頭からではなく、事前の黙読で最も面白かったところを選んでスタートしてみた。苦沙弥くしゃみ先生(漱石)宅に夜中に泥棒が入、その顛末を細君とかつての書生の多々良君と軽妙な会話をした後に、吾輩が初めて猫としての威厳を掛けて鼠捕りに挑戦する部分がメインである。


 会話のテンポは古典風だが、敢えて全てを説明する言葉を発せさせるのではなく、どこかこう、含めたような言い回しは時代のせいだけではあるまい。いかにも当世の知的インテリゲンチアの言いそうなセリフを散りばめてあるが、「余計なことばかり言って肝心なことを言わない男たち」が良く描かれている。これは今の時代でも十分に通用するだろう。

 そして、学問を成していない筈の細君に大の学士の男二人がやり込められそうになる辺りは、漱石の実体験から来るのではと苦笑させれる。


 また、頭の良過ぎる猫と自称し漢語的な言い回しを好むあたりはとても愉快で面白い。当時、こうした小説を読んだのは現代よりもかなり限られた層の人々であったと思うが、きっと連載の続きを楽しみに待ったことだろうと思う。


 さて、本作は黙読で最後まで読み通す予定だが、朗読は別の作品を検討している。ではまた明日。


 ――――

 *メモ

 6.20161012 目次六を読む 

 うち黙読P.271~303、音読(朗読)P.257~271、約20分。20:10終了


 7.20161013 目次七を読む 

 うち黙読P.310~352、音読(朗読)P.304~310、約10分。20:25終了

 

 8.20161014 目次八を読む 

 うち黙読P.371~410、音読(朗読)P.353~370、約25分。22:00終了

 隣接のイタズラ好きな学生たちとの攻防に、精神修養の必要性を痛感する様子が描かれているが、猫の口調で主人の内面が深く描かれているのは、よく考えればあり得ない(猫は主人ではない)けれど、違和感がない。


 9.20161015 目次九を読む 

 うち黙読P.424~465、音読(朗読)P.410~424、約20分。22:30終了

「吾輩」猫の目を通して語られる漱石は、劣等感の塊のように感じられた。当時、帝大卒の英語教師というインテリがここまで内面を暴露しながら書けたのは、猫の滑稽な一人語りという手法によるものなのか。恥じという感覚よりも、内面を探求することで自己と対峙することが目的だったのか。


 10. 20161016 目次十を読む 

 うち黙読P.480~540、音読(朗読)P.465~480、約20分。22:45終了

 細君とのやり取りから始まり、幼い子どもたちそれぞれの様子が非常に細かな特徴を捉えて描かれ、学生や姪まで登場する、これまでで最も家族的な場面だ。

 漱石は家族愛を渇望しながら、自身の感情表現はあまり得意ではなかったのかもしれない。だが、文面からは家族の温もりを求めているように感じられた。


 11. 20161017 目次十一を読む 

 黙読P.540~639(終わり)、うち音読(朗読)P.627~639、約15分。21:20終了

 ツイキャス復活(15分程度)


 結果的に、一日も欠けることなく継続して最後まで黙読と音読を貫徹できた。偶然か必然か、いずれにせよそれを可能にしてくれた環境に感謝したい。

 

 最後まで読み通して感じたこと、気付いたことは、

 ・非常に漢文調の表現が多用される部分と、軽妙洒脱な会話文との2重構造で場面展開され、硬軟取り混ぜた内容になっている

 ・それでも、恐らく当時の読者層はかなりの知識層であったと推測するが、そうした読者が興味を以て読めるものを漱石なりに意識しているようにも感じた。文豪と言えども、勝手に書きたいことを書いているのではなく、「読者想定」がきちんと設定してあるように感じられたのは自分でも意外であった。

 ・作者には長年「非常に神経質な学者肌」との印象を抱いていたが、読了後はより人間らしさを感じるようになった。特に、言葉や態度とは裏腹な家族愛への執着や恋慕を読み取ることになるとは思わなかった。しかしそれはまた、私自身の体験が相俟ってのことであり、もし学生時代に読んでいたらいまと同じ印象にはならないだろうと考える。

 ・書き手の目線から感じたことは、句読点の位置が的確て読み易い点と、猫の一人称語りでありながら主人について神視点で語っている成功例という点である。「参考にしたい」と言いたいところだが、実際に執筆する折にどこまで参考にできるものかは不明だ。自分の文体を未だ確立できていないのだから、下手に参考にしたらどうなることやら。

 しかし、恐らくは無意識に、読んだものは自分の文章に現れるものだから、それほど心配することもあるまい、と猫の口調で最後に締めてみる。


(本作品 読了 20161017)

 


  

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