語らう酒の場
「あら、どうもどうも」
マスターとは顔なじみらしい。
そしてお姉さんは小さくあっ、と声を洩らした。
「あれ、もしかしてシミズさん?」
お姉さんはこの男性を知ってるらしい。彼は真っ赤に日焼けした顔でじっとお姉さんを見つめた。それから見覚えがあるのか、おおと声を上げた。
「よく来たなあ。久しぶりじゃねえか」
「二年ぶりですか」
「今回もボランティアか?」
「いえいえ、今回は観光ですー。エルファロ初宿泊ですよ」
「エルファロかあ。つーことは自転車借りてここまで? どこ停めたんだ?」
「テラス側に置いときましたよ」
なんだか話が盛り上がっている。
「あ、この子たち、初女川なんですって」
若干の置き去り感を抱いていると、お姉さんがわたしたちを紹介してくれた。
男性は目を細めてわたしと三ツ葉を見た。
彼は水玉模様の半袖ワイシャツを着て、甚平風の半ズボンを穿いていた。マスターに負けず劣らずラフな姿をしていた。
店に入ったときずんぐりとした印象があったけど、よくよく見ると中肉中背だった。骨が太そうな感じがする。
「ほお、どこから来たんだ?」
「神奈川からです。私は平塚からで、三ツ葉は……この子が三ツ葉って言うんですけど、今川崎のアパートで暮らしてます」
「神奈川かあ。こんな田舎までよく来たなあ」
「神奈川といえば湘南ビールですね。鎌倉ビールとか」
マスターが厨房から出てきた。手には豆の入ったお皿とビールがある。男性の〈いつもの〉らしい。
「ああそうそう、店主さんよ、看板娘はどこいったんだい。いつも七時から来てるだろう」
ビールを半分飲み干した男性が言った。
「やーそれがですね、本業が忙しいらしくて、遅れてくるみたいです」
マスターは顎ヒゲをぽりぽりしながら答えた。
「そうかあ。ま、国道も混んどるだろうしな」
「あら、従業員増えたんですか?」
女性が尋ねると、マスターは苦笑を浮かべた。
「いやあ、実はね。ちょっと前からどうしても働きたいって子がいて」
常連の男性が腕を組んだ。
「もう何ヶ月前だ? 四月からだったから、もうすぐ五ヶ月か。あっという間だなあおい」
「本当、あっという間ですね。あのとき中学生だった子が、まさか僕の店でビール注ぐとはね」
「ああ、実にあっという間だ」
男性感慨深く押し黙る。マスターも頷いた。
奇妙な間が生まれ、お姉さんはビールを口に運んだ。
つられてわたしも飲んだ。
三ツ葉はチーズをかじっている。
沈黙を破ったのは男性だった。
「いやあ、給仕姿がよく似合っとるんだ。そうそう、嬢さんも知ってる子だぞお」
「私ですか?」
ビールを飲んでいたお姉さんの手が止まる。
「ほら、ボランティアで相手してたろ。なんだ、カウンセリングってやつをよ。中学生だった〈あの子〉だよ」
「中学生の……」
あっと思い出したように声を上げた。
「あの子ね! そっかそっか、ここで働いてるのねえ。あー、そうなんだあ。ねえお二人さん、ここの子ね、ちょうどあなたたちと同い年くらいかもしれない」
同い年。ということは今は二十歳かそこらってことだろうか。
「あの子は元気があるし、もの覚えもいいし、なによりひたむきで一生懸命なところがいい。俺たちにとって孫娘みたいな存在だよ」
男性の寸評にマスターも同感らしく、首を縦に振った。
「そうですね。僕も励まされます」
「お前さんの場合は、叱られるの間違いだな! いっつもお説教されてるじゃねえか」
男性は指摘訂正をし、大声を上げて笑った。
「ええ、すごく助かってます……」
「ま、俺も建設会社の社長やってるが、女房がいなかったらここまでやってこれなかったろうしな」
社長……?
この水玉ワイシャツの男性が、建設会社の社長。遠野の富澤さんといい、女川の彼といい、人は見かけで判断しちゃいけない。小学生のころから言われてきたことだけど、本当にそう思う。
社長さんが振り返り、わたしを見た。
「お二人さんは女川初めてだっつってたな」
とはいえ、水玉ワイシャツに半ズボン姿なのは逆にありがたかった。身分を明かされた今もなお、特に緊張することもなく頷けた。
「はい。初めてです」
「よくもまあこんななんもねえところへなあ。嬉しいねえ。いやしかし、女川には本当になにもねえんだ。でけえ漁港もねえし、石巻みてえな都市でもねえし、リゾートホテルもねえ。どこか観光地になるようなとこ……あったか? なあ、店主さん」
「僕に振りますか?」
「そら、お前さんも女川の人だろう」
「そうですけど……お二人は車、持ってましたっけ」
「いえ」
「電車で来たんです」
わたしたちは答えた。
「じゃあちょっと紹介できるところはないですね……」
マスターは諦めた。
ないんだ……。
お姉さんも苦笑いを浮かべていた。「そうねえ」と彼女も観光地を考えてたみたいだった。
「私もあんまし思い浮かばないかなあ。それが女川って感じなんだけど……。金華楼って中華料理屋さんが気になるくらいかしら。あと詳しいのはゆぽっぽに観光案内のリーフレットがあるから、それを読めばいいんじゃないかしら?」
「僕もそう思います」
マスターも同意見らしかった。このしまりの悪さが彼の美点なんだと思う。空気が終始ほろ酔い気分なのだ。
「うーむ、車があればコバルトラインをドライブできるんだがなあ」
社長さんはジョッキ片手に唸っていた。マスターが便乗する。
「ああ、最近行けてないなあ。すごい絶景なんですよ、コバルトライン。牡鹿半島の高地を走るんだ。女川湾を一望できる」
「晴天のコバルトラインは格別だぞお」
「金華山も見えるんですよ。金華山、石巻市だけど」
「あ、金華山」
ここで三ツ葉が話に入ってきた。
「霊峰ですよね。奥州三霊場のひとつで」
「お、嬢ちゃん詳しいね」
「旅する前に調べたことがあったんです。基本情報だけですけど」
三ツ葉が話している途中で、再び背後のドアが開かれた。
「すみませーん、遅くなっちゃいました」
輪郭がくっきりしていて、よく通る声だった。
それでいてどこか懐かしくもあり、緊張感を抱かせる声でもあった。
「本業お疲れさま。道混んでた?」
「混んでました混んでました。三十分違うだけで激混みですよ」
マスターとの会話から察するに〈ガル屋〉の看板娘らしかった。
「おいおい、まっちゃん待ちくたびれたぞお。早く俺のビール淹れてくれい」
社長さんが上機嫌にジョッキを掲げた。
「はいはい。もー、八助おじさん、酔うの早いよ」
ちょっぴり押しの強い語調。ふと、どこかで聞き覚えのある気がした。
そんなはずはない。
けど。
振り返ると、そこには青い作業服を着た〈彼女〉が立っていた。
忘れるわけもなかった。
セミショートの黒髪。くりっとした釣り目。情熱をたぎらせ、きゅっと引き締まった唇。
小顔でかわいいを凝縮させた感じ。面影はおんなじだった。
どことなく陰が潜んでいる頬だけが、過ぎ去った時の流れを指し示している。
わたしたちは見つめ合った。
かれこれ、七年ぶりに。
「松実ちゃん……」
ちゃんと発声できただろうか。
「イリエ……」
呼応するように〈彼女〉がわたしの名を口にした。
永遠に会えないと思っていた。会えるとしても会おうとは思わなかった。たとえわたしに大切なものを教えてくれた人だろうと、二度と会うことはないはずだった。
間違いなく松実は〈彼女〉だった。中学時代の親友だった。
松実は綿帆布のトートバッグを放り投げた。抱きしめられた。ビールの芳香に混じって、潮と汗の香りが漂った。
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