あるはずなのに。


 どのくらいの時間抱擁されてたんだろう。たぶんそんな長い時間じゃない。ほんのひと呼吸のあいだだけだった。



 松実の口がなにかをつぶやいた。


 それが呆然と耳に入った。ただただ脱力していた。こんなのありえないって、理解が追いついていなかった。


「まっちゃんの友達か!」

 松実が身を引いたのは、社長さん一言があったからなのか、それとも別の事情があったのかは、わからない。


「ま、そんなとこ。やー驚いた驚いた」

 とびきりおちゃめな声色で松実は笑った。


「女川へようこそ、イリエ。せっかく来たんだからおもてなししなくちゃね。ちょっと着替えてくるよ」

 早口に告げると、松実は厨房の裏に消えた。


 全員がその背中を見ていた。店内はピアノ・ジャズの音色に包まれていた。



 さっき抱きしめたときつぶやいた言葉だ。


 会いたかった。


 松実はまぎれもなくそう言った。通りのいい声をしてるから間違いなかった。〈彼女〉の言葉はいつだって胸に突き刺さる。



 会いたかった?


 松実が、わたしに対して?



 今なお抱きしめられたぬくもりが残っている。


 松実の手は震えていた。


 その理由は松実にしかわからない。



「依利江、あの子は」

 三ツ葉が耳打ちする。


「カメラ教えてくれた子、なんだ」

「あ、中学の」


 三ツ葉はお酒をゆっくり飲んだ。泡のなくなったビールはさざ波立っていた。



「あの子の友達かあ」

 社長さんが長い息をついた。遠い目をわたしに向けた。


「まっちゃんはな、本当にいい子なんだ。だからきっと、お前さんにしか話せないこともあると思うんだ。できることならこれからも友達でいてやってほしい」

 返答に困った。


 社長さんの言葉には真に迫るものがあった。彼にとって松実は『孫娘みたいな存在』だって言ってた。きっと心の底からのお願いなんだ。


 だからこそ、わたしの知ってる松実と今の松実が別の人間のように思えてならなかった。



 微妙な空気が流れた。


 マスターが三ツ葉に向かって尋ねた。


「二人は電車で来たって言ってましたけど、どこに泊まるんですか? 石巻?」

「仙台です。終電に乗る予定です」


「女川の終電は早いからね。ええと、いつだったっけ」

「八時二七分です」

 三ツ葉が答えた。


「そうそう。乗り過ごさないように気をつけてよ。一番近い宿でも歩きじゃ結構かかるからね。エルファロっていうんだけど……」


「自転車で一〇分くらい、だったかなー。結構面白い宿よ」

 お姉さんが便乗した。


「タイヤがついたプレハブの宿泊施設でねー。復旧工事の邪魔にならないよう、移転することを前提に考えられてるみたい」

 お姉さんの話を参考にすると、徒歩三〇分くらいだろうか。


 うーん、歩き換算をしちゃえる自分が奇妙に思えた。絶対旅で歩きまくったせいだ。



「プレハブってことは、今日みたいな日は蒸し暑いでしょう?」

 マスターが心配そうに言った。お姉さんはきれいな笑顔を見せた。


「クーラーガンガンにかけてますから平気です」


「ですよねえ。いやあ、うちは中部屋なんで風通しが悪くてですね、この時期になると部屋の隅にカビが生えちゃうんですよ。シミズさんもこの時期大変でしょう?」


「俺か? 俺は幸いにも角部屋だし、女房が手入れしてくれてるからなんとかなっとるよ」

「それは羨ましいなあ。シミズさんの仮設ってどこでしたっけ」


「中学校だよ。お前さんは?」

「僕は球場です」


「そりゃあカビも生えるな。まあここから近いし、歩いて帰れるのはいいな」


「そうですね。たまに飲んじゃいますし――いてっ」

 マスターが笑うと、そのもじゃもじゃ頭にチョップが入った。



「マスター、あれほど飲んだらダメだって言ってんですけど、もしかしてさっきも飲みました?」


 厨房からジョッキを持った松実が出てきた。

 そこに先ほどまでのしんみりした松実の姿はなかった。

 バーテンダースーツがぴしっと決まっている。紺色Tシャツのマスターとは対照的に、なんかすごく仕事ができそうな感じがする。


「僕、出損じだけしか飲んでないよ」

 あ、飲んでるには飲んでるんだ……。


「このあいだ飲みすぎてお会計間違えたんですから、ほどほどにしてくださいよ。あ、八助おじさん、いつものね」


 と言って、松実はちょっぴり泡の多いビールを社長さんに手渡した。社長さんははありがとうと言って一気に半分を干した。


「ああ、まっちゃんのビールは何度飲んだってうまいよ」

「こんなの誰が入れたっておんなじおんなじ。それより八助おじさん、飲みすぎちゃダメだよ。奥さんに心配かけさせちゃあ」


「そうだよなあ。女房にはいくら感謝してもしきれんなあ――」

 社長さんの話に耳を傾けていると、一瞬だけ松実と目が合った。視線に気づくと、彼女は手元の布巾を見て軽く手を拭いた。


 目が赤かった気がした。



 社長さんは間髪なく奥さんの話をしている。


「――今仕事が山ほどあってよ。そのこと自体はありがたいんだが……ありがたいって言うのもまたおかしな話だが……。多忙だから家のことはまかせっきりなんだ。そしたらなんだ、このあいだインパクト買ってきやがって」


「インパクト?」

 わたしとお姉さんが同時に首を傾げた。


「要は電動ドリルよ。マキタのバッテリー式で、穴をあけたりネジ締めつけたりするやつなんだが、女房のやつ、それ使って棚を作りだしたわけよ。家のことなんでもやっちまうんだ。今じゃ俺よりインパクトの使い手よ」


 がははと社長は笑い、話を続けた。


「女川はまだまだどこもかしこも工事中だが、それは町長が極力地元の会社だけでやるって考えてるからなんだ。俺もそう思うし、そうしねえと長い目で見た場合、女川は終わっちまう。町長はよく理解してるんだ。若ぇのに大したもんだよ」


「町長さん、若いんですか?」

 三ツ葉が尋ねると、社長の代わりにマスターが答えた。


「四十歳だったと思います」

「よんじゅう……」

 それ、すごく若い。と思う。


「就任したときは三十半ばでしたよ。震災後先代の町長さんが勇退して。そうそう、このあいだうちにも来たんです」

「え、町長がですか?」


「さすがにビールは飲みませんでしたけど。ちょうどお二人さんの後ろがテラスになってるんですが、そっちから入ってきて、軽く挨拶したあとレンガ通り側のドアから出てっちゃいました。たびたびあるんですよ。先週もレンガ通りでポケモンGOやってましたし」


「ポケモンGO? あー、私のスマホ、対応できなくてショックでしたよ。町長さんやってるんですねー」


 お姉さんはカバンからスマホを取り出した。二世代くらい前の小さなアンドロイドだった。


 夕べレンガ道でスマホをいじる人たちがいたのを思い出す。



 マスターが話を続けた。


「ええ。どうも話題作りのためみたいでしたが。女川町長がレンガ通りでポケモンGOやってるぞ、ってウワサが広がったら、それだけで注目されるでしょう? そんなことしたって意味がないのかもしれませんが、できることはなんでもするのがうちの町長ですから」


「あの方はとことん考え尽くすお方ですよ。本当、頭が上がらん」

 社長さんも同じ意見らしかった。



 話を聞いてて、なんか不思議な感じがした。

 それは多分、愚痴がなかったからだと思う。


 行政への愚痴は地元でも被災地でも、たくさん聞いてきた。


 ――草、刈らないんですか?

 ――だなあ、市がやらねえもんだからよ。本当、なんとかしてほしいもんだ。


 かき氷おじさんと交わした会話のなかにも、あった。


 不満はきっとここにいる誰もが抱えてることだと思う。



 あるはずなのに。


「最近ようやく、復興住宅を建てられるようになってきたんだ。ようやくだ」

 社長さんはぽつりと言った。


「仮設は夏暑くて、冬は寒い。隙間風が痛ぇくれえだ。誰だって仮設なんておさらばしてえと思っとるだろうよ。だが俺は立場上、最後まで居残る。別に俺は構わねえ。みんなが喜ぶんなら、俺はそれでいいんだ。

 心配なのは女房なんだ。そんで、前に謝ったんだ。悪ぃ、早く移りてえだろって。そしたらな、いいじゃあありませんかって言うんだ。狭ぇけど、私たち二人だけならちょうどいい広さですよって。夏は暑ぃで冬は寒ぃで、最初は一刻も早く抜け出してぇって思ったけど、ちょうど愛着を持った頃合いですって。も少しここで一緒に暮らしましょって言うんだ。俺、なんも言えなかった。感謝……だったね」


 レンガ通りの街灯に垂らされた〈START! ONAGAWA〉のスローガンを思い出した。

 たぶんあれはよくある空虚な文字列とは違うみたいだった。

 ここに暮らすひとにとっても、まちそのものにとっても、あるいは訪れるひとびとにとっても。

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