だからあなたに思い出話を。

「三ツ葉、あのさ」


 そろそろ話題に出してもいいだろう。口に出してみると、三ツ葉はぎくりと肩を硬直させ、じっとわたしの胸元を見た。


 頬からあからさまな緊張が伝わった。


「明日は……名取だね」

 なにから話せばいいのか、わからなかった。


「そうだね、名取だ」

 返答したのち、三ツ葉はふた呼吸の沈黙をおいて口を開いた。


「今まではリアス式海岸のまちだったけど、今度は仙台平野にあるまちだ。広大な範囲が波に流されたんだ。特に名取川河口に面する閖上地区があってね……」


「今度は平野なんだ。たぶん今までとは全然違う風景なんだろうなあ」


 広い土地が浸水したのは陸前高田市で見た。

 きっとそことも違う雰囲気があるんだと思う。

 一面のセイタカアワダチソウか、嵩上げされた大地か。



 三ツ葉のうんちくに耳を傾けると心が安らいだ。見知らぬ土地の導入はいつも彼女の話があった。


 でも、もはやそれは過去の思い出なのだ。

「……三ツ葉?」

 隣を見ると、杯を持った手を頭に添えて俯いていた。


「なんか、違う」

 三ツ葉は深いため息を洩らした。



「私が名取のことを話したところで、なんの意味があるんだろう。釜石を見てしまった今、私の持つ知識に力を感じないんだ」


 入口の暖簾が揺れ、客が入ってきた。

 店員のいらっしゃいませでかき消えてしまうくらい、三ツ葉の声は細々としていた。

 でも当人はそんなのお構いなしに徳利から酒を注いだ。


「お酒早くない?」

「いや、これでもペースメークしてるんだ。平気だよ」

 くいっと日本酒をあおる。その頬はほんのり上気している。


「依利江は変わったよ。私は私のままだった」

 彼女はじっくり言葉を選びながら、そっと語りだした。



「いろんな人と会った。「 」かぎかっこの店員、萬画館の案内係、屋台のお兄さん。

 いろんなことを話した。南三陸町のおじさま、シャークミュージアムの係員、気仙沼復興屋台村の〈たすく〉の女将さん。

 どれも貴重な体験談だった。

 でも響いてこないんだ。なにも。私の知ってることばかり耳に入って、知らないことは聞こえてこない。

 きっとね、相手は話してるんだ。私が本当に求めてるものを。

 依利江は変われた。求めるものをちゃんと見つけて自分のものにしたんだ。自信を持ってる、って言うのかな。生き方に」


「そんな、自信なんて」

 首を横に振る。そんな大層なの、持ったことない。


「三ツ葉みたいに写真撮って発信することもないし、将来の夢も決まってないよ。もう不安だらけだよ。来年就活始まるのにさ、こんなんでいいのかなって。ちょこちょこ知らない人と話せるようにはなってきたけど、社交性みたいなの、よくわかんないし」


 そう言って三ツ葉の目をじっと見たら、ふ、と視線を逸らされた。


「違うんだ。依利江、違うんだよ。自信って字は自らを信じるって書くんだ。社交性がどうとか、未来がどうとかなんて関係ない。依利江の不安は単に世間の目を気にしてるだけだ。

 世間なんて関係ない。今の自分、今の考え方に胸を張れるかどうかなんだ。だから私のこと、正面から目を合わせられる。

 私、思うんだ。この旅は依利江のための旅だったんだなって」


「違うよっ!」


 それこそ間違ってる。

 確かに旅を通してわたしは変われたのかもしれない。

 見知らぬまちをひとりで散策できたし、ひとり居酒屋だってできた。


 でもだからといってわたしのための旅だったなんて評していいわけがない。


「わたしたちの旅だよ。わたしと、三ツ葉の旅」

「どうだろうね」

 三ツ葉の冷たい言葉が刺さる。

 けれども、確信はある。

 この旅はわたしたちの旅なんだ。


「だってだって、三ツ葉だって大切な出会い、したじゃない」


「出会い? 誰と?」


 三ツ葉は気づいてない。

 やさしげな笑みを見ればわかる。


 わたしたちはお互いに大切な出会いを果たした。

 言葉にするのは、ちょっと気恥ずかしいけど。



「わたしだよ、三ツ葉」


「ふざけないで。依利江と会ったのは一年前の春だ。大学のガイダンス。そこで話しかけてきた。それが出会いだよ」


「ううん。出会いは今だよ。わたしは今ここで出会えたんだって思えたよ。三ツ葉の弱音を聞けたから。弱音なんて大切な人でないと言えないもん」


「……南三陸町の」

 彼女は呟いた。

 思い当たりがあるらしかった。


「弱音が出るときっていろんなこと考えちゃうと思う。こんなとき、上手なアドバイスとか、ためになる知識を教えてあげられたらいいのかもしれない。

 そんなの持ってないから、わたしじゃ三ツ葉を助けらんないのかもしれない。

 けど、思い出話だったら、できる」


「依利江の過去話なら大歓迎だよ。今度はどんな話?」

「三ツ葉と被災地を旅をした話」

 隣の三ツ葉がくすっと笑った。


「現在進行形の話じゃないか。でもまだ聞いてないことが山ほどあるだろうね」


「うん。だからお話したいの。三ツ葉から釜石の話を聞いたあと、考えてたんだ。三ツ葉のこと、被災地のこと。いろんなこと。んーと、なにから話したらいいんだろう」


「いいよ、依利江のペースで」


 わたしのペースといっても、話したくてうずうずしてる。

 ペースもへったくれもない。今だって心臓がじゃんじゃこ鳴ってるんだから。



「わたしたちが情報津波の被災地だって言ってたの聞いて、あれ思い出したの。

 『震災は終わってしまった。一瞬たりともそう感じてしまった以上、当事者には戻れない』

 ……誰が言ったか、覚えてる?」


「すごい他人事みたいに震災語るね、その人。誰だろう?」

 三ツ葉は本当に忘れてしまったのだろうか。小首を傾げる彼女が可愛いと思えた。


「わたしの隣にいる人」

「私?」


「ゴレンジャーかき氷食べてるときだよ。そういえば今とおんなじように座ってたような気がする」

「食べたけど……あ、そうか、石巻に住む人と私のあいだにギャップを感じたんだ。それで、そんなこと言ったよ」


「そそ。思い出した?」

「思い出したよ」


 記憶って不思議だ。

 大事なことは忘れちゃうのに、ふとした拍子にささいな出来事が頭のなかをよぎることがある。


 三ツ葉はお酒を一口飲むと「けど」と疑問をあげた。

「それと情報津波の被災者のどこが関係あるの? 当事者に戻れないことと、本当に求めてるものが見つからないこと、関連性はどこにもないよう気がするけど」


「本当に求めてるものを手にできない人たち。これがわたしたちだとしたら、そのことに気づいちゃった三ツ葉は情報津波から逃げだせたってことなんじゃない?」

「んん……どういうこと?」


 三ツ葉は顔をしかめた。

 そんな表情を見せられると途端に気がすくんじゃう。

 ずいぶん長いあいだ手に持っていたお酒をちびりと飲んで、なんとか話を続ける。



「だってわたし、三ツ葉から聞いた情報で満足してたんだもん。石巻市のことも気仙沼市のことも、三ツ葉が調べてくれた話以上のことを知ろうとも、疑おうともしなかったの。みんながみんな、わたしと同じ感覚じゃないと思うけど。

 少なくとも三ツ葉みたいに自分が固く信じてたものが、実は間違ってたんじゃないかって気づける人、あんましいないと思う。だから、わたしたちと三ツ葉は違う。もう三ツ葉は被災者なんかじゃないよ」


「そんなはずないさ。私も被災者に相違ない。情報に踊らされてるんだから。被災地が震災以外の問題を抱えてることに気づけずにいたわけだし」


「でも、今は気づいてる」

「そりゃ……そうだけどさ」


「三ツ葉は被災地から被災地じゃないものを見つけだした。それってすごいことだと思う。今なら被災地とそうでないまちを同じ目線で見ることができるんじゃないかなって思った。なかなかできることじゃないよ。

 みんな、あの日の光景を見て傷ついたんだもん。傷がついたら、傷口を見ちゃうよ」


「すごいこと言うね、依利江」

「そう、かな?」

 うんうん、と三ツ葉は頷いた。


「理屈はわかったよ。言う通りかもしれない。わたしは傷口でないところが見えるようになってしまったらしい。よくも悪くも机上の空論だ。被災地の人が聞いたら『お前は現実を見てない』って言いそうだ」


「いやあ、実はね、もう言われちゃったんだ。リアス・アーク美術館で」

「リアス……ああ、気仙沼の。金港館のお弁当のとこね」


「そこの受付の人にね、『こんなまち、誰が好きになるんですか』って。ほほえみ浮かべて言われちゃった。なにもわかってないくせにって言われたような気がしたの」


「はは、当然の反応だ」

「好きになっちゃうのも当然の反応だもん!」

「間違いない。リアス・アーク、よかった?」

「もちろん!」

 ぱっと両手を広げて、楽しさを表現した。



「気仙沼の民俗とか、震災の展示とかあって。一番印象に残ったのはヴェネツィアかな?」


「ヴェネツィア? 気仙沼でヴェネツィア?」

 三ツ葉の質問は至極真っ当なものだった。

 気仙沼とヴェネツィア。関連性があるなんて普通は思わない。


「企画展でやってたの。ヴェネツィアは、アックアアルタって現象がたびたび起こるんだって」


「アックアアルタ、いわゆる高潮だね」

「知ってたんだ」

 いとも平然と答えられたから、がっくしうなだれた。


「イタリア行ってみたいから調べたことがあって。とにかく、話してよ。私は字面でしか知らないんだから」


 三ツ葉は興味津々だった。

 さっきまでの苦しそうな表情がゆるんでいる。



「んとね、まちが水没しちゃうんだよ。でも迷惑な災害って感覚じゃなくて、ヴェネツィアの人は上手に付き合ってるの。沖縄と台風とか、新潟と豪雪とかと似た関係なのかはわかんないけど。アックアアルタの日はのんびりくつろぐ日になるんだって。

 ヴェネツィアで暮らさなきゃいけない事情があったから、自然となんとか付き合い続けるしかなかったって。できるできないじゃなくて、やり続けた。

 ヴェネツィアってすごくきれいなまちだけど、あれは観光目的で作られたわけじゃないって、学芸員の方に教わったんだ。話を聞いてね、ああそうなんだって。

 一千年自然と向き合ったからヴェネツィアはヴェネツィアの文化をつくりあげることができたんだって」


「向き合う、一千年……」

 三ツ葉はぽつんと呟いた。

 杯を傾け、潤った唇と触れる。

 その横顔を見つめた。

 喉を鳴らすと、向き合い続ける、と声を震わし、またお酒を口にする。その視線は厨房に向いてるように見えたけど、きっと一千年先を見てるんだと思う。



「ああ、ごめん」


 ふと夢から醒めたみたいにほほえんだ。

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