情報津波の被災者に捧げる。

「観音像でなにがあったの?」

 緊張が伝播して、手のひらが汗で滲む。弱冷房の車内がやけに暑い。


「いや、結論から言うと観音像自体にシンパシーや衝撃は感じなかったんだ。感じなかったんだけど……。依利江、私は正直、ここからの話をしていいものなのか、今なお判断ができないでいる」

「判断? どうして? 話してくれればいいのに」


「それは……」

 言いよどむ。

「依利江の考えを壊してしまいそうだからだよ」


「そんな――」

「いや、違うんだ。そうじゃないんだ。本当は話す自信がないだけで」

 首を横に振った三ツ葉は一度深呼吸をして、ぐっと拳をにぎりしめた。

「この話を終えたあと、依利江が今まで通り接してくれるのか、それが心残りなんだ」

 多分言葉をオブラートに包んでいる。本当の三ツ葉はまだ見えない。



 『釜石市と私は似ている』。ノートの文言が目の裏側に浮かび上がる。


「三ツ葉の考えてること、正直わたしにはわかんないよ。だから……わたしさ、三ツ葉といろんな話、したいの。好きな子の話とかさ、将来かけて打ち込みたいことの話とかさ、生きるとはなにか、みたいな哲学的な話とか、してみたいなって」


「好きな子、依利江、いるの?」

「今は、いないけど……」


「将来なにになりたいか決めてないって、この前話してなかったっけ? なんか見つかったの?」

「まだ、だけど……」


「生きるとはなにか」

「んと、おいしいご飯を食べること?」


「ダメダメだよ、依利江」

「ダメダメかあ」

 言いたいことのひとつもなかなか伝えらんない。

 でもわたしは諦めたくなかった。

 だって三ツ葉は悩んでるんだから。



「わたしはさ、伝えるのへたっぴだからちゃんと言えるかわかんないけど、いろんな話をね、冗談でも真剣にでも、話せる友達がいたらなって、思うな。三〇になっても四〇になっても、これからどうしてけばいいのか迷ったときでも、ふっと会いたくなる友達をさ、たったひとりでいいから、欲しいの」

「友達、ねえ」


 三ツ葉は腕組みして天井の送風口を仰いだ。

「もしも依利江の言うことが友達の定義なのだとしたら、私はひとりたりとも友達なんて作ったことがないよ」

「そう、なんだ」


 知っていた。

 知っていたから三ツ葉と一緒にいることがこんなにも怖いのだ。


「それでもね、三ツ葉と話がしたいの」


 声を絞り出す。


「わたしは三ツ葉と、話がしたい」



 間もなく列車は平泉駅に停車する。車両がちょっとずつ減速していく。身体は自ずと前のめりになる。三ツ葉は唇がかすかに動いた。ちょっとした笑みを浮かべ、華奢な背筋をぴんと張った。


「一ノ関駅で乗り換えだから、それまでのあいだね」

 呆れたような声色がなんだか嬉しくって、わたしはぴょこんと頷いた。



「釜石で最大の出会いをしたんだ」

 彼女は話を再開させた。


「観音像のふもとにある商店街だ。大きな寺社仏閣の参道には店が並ぶ。有名なのは浅草寺だろう。雷門から浅草寺にいたる通りは仲見世と呼ばれてる。それにあやかったのか、駐車場から釜石観音にいたる道は仲見世通りと言われている。

 けど、その賑わいは浅草寺のそれには遠く及ばない。誰ひとりとして、本当に誰ひとりとして観光客がいないんだ。駐車場に人はいるし車も停まっている。観光バスだってあった。そのあと行った観音像の付近にも人はいたのに、この仲見世通りだけは現世から隔離されたみたいに人がいないんだ。


 ここは廃村だと思った。ビニール製の庇は破れて、切れ端だけが鉄骨に張りついている。鉄骨自体も錆びついてて、開いてる店は見当たらない。

 店の入口にはどういうわけかタイヤが積まれてて、軒並み錆びついたシャッターが下ろされている。透明だったはずの窓は埃と泥で磨りガラスみたいだった。軒下は草が茂っていた。古い軽自動車が路駐してある……。


 廃村をイメージした後で津波の被害を受けたのだと思った。観音像は岬の丘だけど、ここは岬と鉄の歴史館の丘に挟まれた位置にある。海と陸続きになった窪地なんだ。商店は二階建で、二階の窓辺に物干しが付いていた。居住スペースもある造りだと推察できる。

 つまり浸水区域に指定されたからここでの居住を禁止されたのだと。


 ……でも予想ははずれた。仲見世通りの最奥でゴムボールを突いて遊ぶ子がいたんだ。ゴムボール。まるで高度経済成長期の風景だ。まりつきの子は私に気がつくとサッと店に隠れてしまった。西部劇のならず者になった気分がしたよ。ここが一体いつの時代なのか、わからなくなってしまった」


 三ツ葉は笑った。わたしは無言で頷いて、話の続きを求めた。


「子供が入った店が唯一開いてる店だった。陽で焼けて褪せたのぼりがなかったら見逃してたかもしれない。

 主に駄菓子を売ってるように思えた。思えた、というのはなにが陳列されてたかいまいち覚えてないんだ。店内を見渡してみたものの、壁と埃と商品が一体になってる印象が強すぎた。店内奥は畳の居間になっていて、テレビでバラエティ番組をやっていた。それを眺めるおばあさんがいた。まりつきの子もいた。

 私が店内にいてもおばあさんは一瞥したきり無反応だった。結局ガブリチュウを手にお会計呼ぶまで動かなかったよ」


「ガブリチュウ買ったんだ」


「目についたのがそれしかなかったんだ。買い物ついでにおばあちゃんと簡単な雑談をした。終始笑顔だったけど、その笑みは自嘲気味だった。

 土日もゴールデンウィークもこんな感じだと言った。そこらのシャッター通りに負けない寂れ具合だろうと言った。もう一〇年はこの状態が続いてるとも言った。淡々とね。死にかけの状態、それこそがアイデンティティなのだと言わんばかりに。

 一〇年って言うと、二〇〇〇年代中ごろだ。まだiPhoneのない時代だ。そこから時が止まっていた。津波がこのまちを襲ったことすら知らないような、そんな態度だった。実際には商店街のすぐ背後まで津波が来ていたというのに。


 よくよく見ると、通りの建物自体はレトロ風味漂っていて、オシャレなんだ。黄土色の外壁、二階に格子窓、赤い瓦屋根。ちゃんときれいにすれば今でも通用するんじゃないかと思ったよ。

 ただ、観光客の多くは駐車場と仲見世通りのあいだにある近道から観音像へ向かうらしい。以前は賑わってたんだよ、とおばあさん繰り返し言ってたけど、私には想像もできなかった。見栄だとすら思った。


 でも、あとあと考えてみて気づいたんだ。とんでもない見落としをしていたんだ。旅をやり直したいと思うくらいには。釜石大観音を見学して、帰りにもう一度仲見世通りに立ち寄った。相変わらず寂れていて、余命いくばくもないだろうと思った。それで、私は悔しいと思った」



 悔しい。


 それは、三ツ葉がこの旅で初めて吐露した感情だった。


 東北本線は山ノ目駅に着いた。次は一ノ関駅だ。この列車は一関駅で終点で、小牛田行に乗り換える。



 三ツ葉の話は続く。

「旅で最初に訪れた場所、依利江は覚えてる?」

「えっと、石巻のマンガロード……じゃなくて、市役所の〈エスタ〉だっけ?」


「そう。そこの〈いしのまきカフェ「 」かぎかっこ〉でお茶したね。地元の高校生がゼロから始めたカフェ。

 被災地で復旧復興のために活動してる人たちは大勢見てきたけど、地域振興に取り組んでる人はほとんど見てこなかった。


 規模はどうであれ、地域振興自体はどこでもやってる。私も結構関心持ってるから調べたり行ったりするんだ。SNSやってるとわかるんだ。どこも苦労してて、工夫しててさ、似たとこ違うとこ、比べてみるとすごく面白い。

 けど、それは単なる私の趣味。今回の旅で見ていくものは違う。石巻の〈かぎかっこ〉も面白い取り組みだとは思ったけど、旅の主題とずれるから注目して考えなかったんだ。


 でも、そうじゃなかった。そもそも、旅の主題ってなにさ。

 被災地の今を知ること?

 そんなの、記者にでもなればいくらだってできる。


 釜石には、震災以前から抱えてた問題があったんだ。たとえば仲見世通りのシャッター街化だ。

 原因は高齢化もあったろうし、人口流出だってあっただろう。交通の便が悪いのもそうかもしれない。原因はたくさんあったはずなんだ。

 それが震災後は、あらゆる問題の原因がすべて津波であるような錯覚を抱いてしまっていた。少なくとも外部の人間である私は、あっさりそう解釈していた。

 もしもおばあさんと話をしなかったら、仲見世通りの現状を震災の爪痕なのだと誤って認識したまま、心に留め置くこともなかっただろう。


 依利江には『見たいように見ればいい』って言うくせに、自分はそうしてこなかった。私は私の設けた主題に縛られてたんだ。


 私にとってこの旅はなんだったんだろう。なにを見て、なにを感じた?

 被災地に指を這わせて、情報を追いかけてただけなんじゃないか……?

 ただただ仕入れた情報が合ってるか間違ってるか、答え合わせしに旅してたに過ぎないんじゃないだろうか。

 だから、悔しかったんだ。もっと自分の気持ちに正直になっていたかったんだ」



 ――次は終点の一ノ関です。


 運転士のアナウンスが車内に響く。ことん、ことんと線路の音を鳴らしながら、アナウンスは乗換えの案内をしている。


「私が被災地で求めていたのは、傷跡ではなかったんだ。そうじゃなかったはずなんだ。でも、調べて出てくるのは傷跡ばかりだったから、知らないうちに傷跡のことばかり詳しくなってしまった。

 栄村大震災じゃないけどさ、大きい情報の波が世界を支配してて、小さな、けれど本当に求めている情報はその陰に潜んでしまっている。私たちは情報津波の被災者なんだ」


「情報津波って、なかなかきわどいワードだね」

「言い得て妙だと、私は思う。もはやすべての情報を自分のものにすることはできない。非浸水区域は、あらゆる媒体からセンスを駆使して取捨選択し、本当に求める情報を見極められる人だけだよ。そんなこと、スマホを手にした人間全員ができると思う?」


「たぶん、そんな面倒なのしてんの、意識高い系の人だけだと思う」

「そうかもしれないね。あるいは、意識高い系の人が誰よりも深みに呑まれている可能性もある」


 三ツ葉はほほえんだ。


「意識高い系の人はさておいて、多くの人はしないよ。依利江、高校時代の私だって情報に踊らされてたから栄村のこと失念したんだ。今だって本当に求めるものは手にできないでいる。それって津波に家を流されたも同然じゃないか。そのことを自覚してるのか、無自覚なのかは別としてさ」


 三ツ葉が立ち上がった。網棚から引っ張り、登山帽を握りしめた。


「一ノ関で小牛田行に乗り換えだ。小牛田で仙台行電車に乗るから、今日の行程もあと少しだよ」

「あ、うん」


 彼女はドアの方へ先に行ってしまった。わたしはぼんやりとしたまんま、提げ慣れたトラベルバッグを肩に掛けた。



 釜石市は三ツ葉に似ている。どちらも外からじゃ見えないものがあるってことなんだと思う。


 でも三ツ葉の素顔を見るには、三ツ葉自身がさらけださなくちゃ、誰も見らんない。

 田舎の電車は、ボタンを押さないとドアが開かないのだ。



 本当に求めるものを手にできないでいる。

 三ツ葉はさっき、そう言っていた。

 その気持ちはわたしだって一緒だ。いろんな風景を見てきたけど、三ツ葉の考えはどこまでも深く、理解するにはあまりにも遠い存在であることに変わりはなかった。


 でも。



 間もなく一ノ関駅に到着する。

 背中に追いついたわたしは、彼女の隣に立って〈開〉のボタンを押した。

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