釜石市篇

車窓

一ノ関行電車の車窓から

 ホテル鍋城かじょうは道沿いの駐車場の奥にある。

 この宿に用がなかったら、視界に入らず通り過ぎちゃうと思う。

 けれども、気仙沼で立ち寄った薬局みたいに、一度でも目にしたらいつだって思い出すことができる。


 その外壁はレモン色に塗装されている。

 そう、レモン色だ。

 遠野市街地で、こんな西洋モダンな色を使ってるのはこれだけなんじゃないかな。

 文字通り異色の建物だ。異色なんだけど、そっちのほうが遠野っぽいというかなんというか、そんな感じがする。

 たぶん妖怪と共存してるまちだからなんだろう。異色なものと日常生活が溶け込んでる。

 不自然なものだって自然なものの一部なんだと思わせてくれる。その空気があるから、ホテル鍋城の淡黄色の外壁だって「まあ、そんなもんだよね」で片付けられるのだ。



「駅前さ、コンビニないからどこで夕ご飯にするか、大変だったよ」


 朝霧のかかる遠野市街は寝起きのまどろみみたいなよどみがあった。街道に自動車は通らない。けれども掃除をする人やジョギングをする人、わんこの散歩する人、みんな思い思いの朝を過ごしている。


「コンビニとかファミレスとか、似合わないんだろうね。バイパス沿いに並んでるんじゃないかな」


 そんな話をしながら駅の待合室で列車を待った。

 わたしたちは釜石線で花巻駅まで行き、東北本線上り電車を使って仙台まで行く予定だ。青春18きっぷの、車窓を眺めるのんびり旅だ。



 のんびり旅の、はずなんだけれど。



六日目 二七日(土)東北本線一ノ関行



「ちょび髭さんね、遠野じゃカッパ見たことないのに、東京じゃいーっぱい見たんだって! なんでだと思う?」


 車窓の景色なんてちっとも見ずに、三ツ葉の鎖骨ばっか見て、ひたすらおしゃべりしていた。


「んー」


 二両編成の客室内は賑わっていた。北上駅を発って以降、立ち乗りの乗客も多い。ボックスシートに向き合って座る。三ツ葉の気のない相槌なんてお構いなく、わたしばっか話していた。


「本郷で修行をしてて……本郷って東大のあるとこね。東京大学。ちょび髭さん本郷で女の子の髪切ってたんだって」

「髪?」

「うん、髪。……あっ、ちょび髭さん床屋さんなんだって。言い忘れてた言い忘れてた。でね、女の子の髪って昔はおかっぱだったじゃん?」

「はあ」

「だから、おかっぱは見飽きるくらい見て」

「うん」

「えーっと、東京のおかっぱ、カッパ……ってわけで」


 お互いの膝には空っぽの駅弁がある。花巻駅で買ったものだ。三ツ葉はロマン銀河鉄道SL弁当で、わたしは特製賢治弁当ってやつだ。

 銀河鉄道SL弁当はイクラがきらきらしてて天の川みたいだった。わたしの賢治弁当はワサビ漬けとか鉄砲漬けとかミートボールとか、昭和の味がするお弁当だった。ご飯はこりこり梅の日の丸で、箱がアルミ製だったら完璧な昭和弁当だったと思う。平成生まれの妄想だけど。



「オチは、ついたの?」

 東京カッパ談議に手厳しい批評を下すと、三ツ葉はビニール袋に空箱を入れた。


「あれれ、こんなはずじゃ。ちょび髭さんから聞いた話はすっごく面白かったのになあ」

「酔ってたからじゃないの? 依利江、酔うと変なテンションになるでしょ。迷惑かけなかった?」

「迷惑なんて……!」


 かけてない、と思ったけどよくよく思い直すと〈たぬきや〉の若旦那が困惑の表情を浮かべてた記憶がある。無自覚でなにかやらかしてしまったのではないだろうか。


「そっか、わたし、酔うと変なテンションになるんだ」

「知らなかったんだ」

「知らないよ! だって飲む相手なんていないし! うちの人、滅多にお酒飲まないもん」

 飲む相手は三ツ葉だけなんだ。そう心のなかでつぶやく。


「依利江お酒強いのにね」

「そうなの?」

「日本酒飲めるでしょ。アルコールダメな人は日本酒なんて飲めないよ」

「おじいちゃんが強かったみたいだから、その遺伝なのかなあ。わたしが幼稚園通ってたくらいんときに肝臓悪くして死んじゃったけど」

「隔世遺伝ってやつだ」

「もう顔も覚えてないんだけどね」


 順調に続いた会話も、三ツ葉からの返答が途切れると終了した。頬杖して外を見つめる三ツ葉の横顔が窓に映る。

 三ツ葉はあんまし話をしたくないのだろう。もともと話し好きな子じゃないのは、大学での姿を見てればわかる。わたしだって別に話し続けなくちゃいけない人種なわけではない。それにしても今日のわたしはやけに饒舌だった。



 理由は明らかで、昨晩ノートを見ちゃったからだ。

『誰も素顔の私を見てくれない。釜石市も私に似ている』


 三ツ葉を見てるつもりだった。でも確認したことはない。三ツ葉がどう感じてくれてるか、それはわからない。なにを考えてるのかさえ彼女の言葉の節々からかすかに察せられる程度だ。どんなに目を凝らしても淵の底が見えない。


 その状態がなんだか怖い。場の雰囲気を保たないと。焦燥感に駆られて口が回ってしまう。そもそもわたしたちのあるべき雰囲気ってこんなんじゃないと思うんだけど、「じゃあどんな雰囲気なの?」って聞かれても返しが出てこない。


 今わかるのは、このままおしゃべりを続けても行き着く先はバッドエンドだってことだ。高校の三年間をかけて傷つき、学んだというのに。



 電車は前沢まえさわという駅を出発した。


「はい、わたしの〈遠野物語〉はこれでおしまい」

 だからわたしがしゃべるんじゃなくて、なんとかして話を聴かなくちゃいけない。


「今度は三ツ葉の番ね。釜石のお土産話」

「私の? 私のはいいよ。聞いたって面白くない」

「またそういうこと言う! それ判断するの、わたしだからね? ちなみにこれ陸前高田で三ツ葉が言ったの、そのままだからね?」


「そうかもしれないけど、依利江の話と私の話は別問題でしょ。私の話、長ったらしいし」

 三ツ葉がやっとわたしを見た。


「長ったらしいのはいつものことじゃん。ほら、膨大な知識を披露するときとか」

「それ、お説教はもううんざりだって解釈でいい?」

「超楽しみってこと! 三ツ葉の物語、聞かして」


 やれやれ、と三ツ葉はため息を洩らした。

「釜石は鉄鋼業のまちなんだ。新日鐵住金釜石製鐵所しんにってつすみきんかまいしせいてつじょがある。現在の釜石製鐵所は駅前にあるから、依利江も見たと思う」

 遠野を出ておよそ二時間。ようやく話のバトンを三ツ葉に渡すことに成功した。


「白い煙がもくもくしてたね」

「あれ、たぶん水蒸気だけどね。昔みたいな煤煙垂れ流しはどこもしてないんじゃないかな」


 製鉄所は、歴史の教科書で見たようなごちゃごちゃ感はなくて、のっぺりした切妻屋根の建物が並んでた印象がある。


「製鉄所といえば北九州の八幡製鐵所やはたせいてつしょが有名だけど、歴史は釜石のほうが古い。というか釜石が近代製鉄発祥の地とされてるんだよ。一八五七年……明治時代が始まる一五年前に洋式高炉が造られ、一八六六年に官営の釜石製鐵所が誕生する。八幡に製鉄所ができるのが二〇世紀初頭だから、その古さがわかると思う」

「く、詳しいね」


「釜石で得た知識だよ。せっかく釜石に訪れたんだし、鉄鋼に関する知見を深めたかった。〈鉄の歴史館〉って施設が釜石市街の南にある丘にあるから、まずそこに向かったんだ。駅から歩いて六〇分弱だったかな」

「ずいぶん歩いたんだ」


 志津川駅からホテル観洋まで徒歩でちょうど六〇分だから、同程度の道のりだったんだろう。一緒に行ってたら途中で行き倒れてたに違いない。


「写真を撮りながらの道程だからね。まっすぐ行けば四、五〇分ってところさ。駅からしばらく製鉄所に沿って歩くんだけど、過ぎると景色は被災地のそれに変わった。草に覆われた公園があったり、壊れた護岸が放置されてたりね。このまちも他と同様ずいぶん大変な目に遭ったんだ。鉄の歴史館の展望室から、復旧工事途中の釜石港湾口防波堤も見えたよ」

「ギネスに載ったってやつ?」


「そう。今はケーソンに砕石を……ケーソンというのはコンクリート製の超巨大な箱だ。これを海中に沈めて防潮堤の外殻を形成する。今はそこに砕いた石を詰める作業をしているらしい。けど、そんなものよりもひときわ異彩を放つ建造物のほうが気になった」


 そんなもの。防潮堤は旅のしおりにも書かれていたし、釜石の防災対策を象徴する代物だったと思う。それを三ツ葉は『そんなもの』と言った。


「建造物というのはやや不自然かもしれない。釜石観音像という仏像だ。高さ四八・五メートル、七〇年代に完成した。白亜の像は岬の丘の頂上から釜石湾を見つめている。本当はこのあと市街地のイオンタウンを見学しようと思ってたけど、間近で見たくなったから寄り道することにしたんだ。観音像に誘われたのかもしれない」


 三ツ葉はここで話を切った。垂れた彼女の前髪から顔色は窺えなかった。

 単に話の構成をどうするか考えこんでるだけだと思った。

 それがやけに長く感じられて、もしかすると苦悶の表情を隠してるんじゃないかって、ふと思った。

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