全部!
「あ、伝承館の……」
声が洩れて、それで目が合った。しばし真顔で見つめられ、えっちゃんは思い出したように口元に手を当てた。
「あらあ、奇遇ねえ」
旅をすると、ときどき世界が小さく感じることがある。
偶然の数珠つながりというべきか。
金港館のお弁当からリアス・アーク美術館に辿り着いたこと。石巻のかき氷おじさんと陸前高田のお守りおじさん。授業で〈遠野物語〉を知り、伝承館でご飯を食べたこと。
「なんだ、おめえ、この子と知り合いか?」
ちょび髭さんが訊くと、笑みを絶やさぬままえっちゃんは答えた。
「昼にひっつみとけいらんを食べに来たんですよ。こんなことってあるんですね」
ほんとそう思う。何気ない積み重ねが面白い出会いをもたらすらしい。
「な、美人だろう?」
富澤さんがウィンクした。
「はい。女優さんみたいです」
「なあに言ってんの、もう。アサクラさんも」
「ほおら、東京人のお眼鏡にも適ってる。えぇおがだだな」
富澤さんの本名はアサクラさんと言うらしい。
まあでも、わたしのなかでは富澤さんのほうがイメージしやすいから、そのまま富澤さんって呼ぶことにする。心のなかで。
ちょび髭さんが思い出したように手を打つ。
「この嬢ちゃんな、被災地旅してんだど」
「被災地を? 女川へは行っだ?」
えっちゃんからの質問にドキッとした。
初めて耳にする地名だった。
いや、実は一度この名前は出ている。
石巻市の自由の女神像、あそこの移動販売車でドーナツを売ってたお兄さんが、言っていた。
シーパルピア女川ってところでもドーナツを売ってるって。
「……いえ」
そのまちへは、行く予定がない。
女川といえば女川原発が最初に出てくる。
――政治的情報が錯綜している今行くのはもったいない。
以前、三ツ葉がそんなことを話していた。
三ツ葉のことだから調べすぎて情報の海に溺れかけたんだろう。
また日を改めて「観光」として行きたい。そんなふうにも言っていた。
「行ぎな行ぎな。あすこはぜんっぜん違ぇがら」
その口調は、わたしたちが被災地を語るのとは、どこか違うように感じた。
「違うって、どこがですか?」
「全部!」
えっちゃんは、両手を大きく広げて断言した。
「被災地……いや、東北じゅう探しでも、あすこみてえのはねえよ。女川には大学の友達さおってねえ」
「これでもこいつ、東京の大学出たのよ。そいで俺と知り合――った!」
ちょび髭さんが口を挟むと、えっちゃんはその広い額をぺしっと叩いた。
「んもう、あんだこげなこと言わない! で、この間……もう一年前になっちまうかなあ。すっかり見違えちまっでね。もうすっごいんだから。被災地旅行してんなら、あすこは行がねえど後悔すっぺ」
「へえ……」
「女川どうなってっか、知らん?」
「ええ」
三ツ葉だったら知ってるだろうか。
もしかしたら、知らないかもしれない。
「ならなおさらよお。わだすのつまんねえ話より、行げ行げ。
三ツ葉は、今行くのはもったいないって言ってた。
けど、どうなんだろう。
わたしには、今行かないともったいないような気がした。
といったところで時間切れが訪れてしまった。若旦那が小声で「あの……」と言った。
「おお、日付が変わっとる」
ちょび髭さんの一言ですっと酔いが醒めた。
たぶん三ツ葉はホテル
どんな顔してるのか、想像して苦笑いが出た。
「そんじゃ、お勘定」
ちょび髭さんが立ち上がった。富澤さんもそれに続く。
「これもなにかの縁ですよ」
なんとわたしの分まで支払いをしてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
おごりなんて初めてかもしれない。申し訳なさが込み上げるより親近感を抱いたのは、きっと楽しかった気持ちがお互いにあったと思えたからなんだろう。
なんだかずっと昔から一緒の友達みたいな気がした。
富澤さんとえっちゃんが〈たぬきや〉を出る。
ちょび髭さんも続いて外に出ようとするけど、振り返ってわたしを見た。
「遠野ってまちはですね、見て回られたからわかると思いますが、なんにもない田舎です。でも、どこよりも情が深いまちだと思うんです」
さっきのトーンと変わって、落ち着いた、静かな声だった。
「仲間が集って酒が入れば校歌を歌いますし、都会に移り住んだ遠野人がお忍びで戻っても、すぐ広まるんです。人伝にね。どこどこの社長がいついつから戻ってるぞ、みたいに。
市議会議員が深夜に立ち小便すれば、あってぇ間に評判になって次回の選挙に落ちたことだってあるんです。
人の血がめぐってるまちなんです。脈々と」
ちょび髭さんが手を差し伸べてきた。
なにかの縁です。なまりの入った声で、にっと笑った。
その手はやわらかくて、あったかかった。
「いいとこも、悪いとこもありますが、おらぁここが好きみたいなんです。あなたも……旅のなかで素敵な出会いがあるといいですね」
ちょび髭さんが車に乗る。
元気でね、と運転席のえっちゃんが窓を開けてそう告げた。
車が遠野の地をゆく。
それを富澤さんと見送った。
また。
富澤さんはそう言って道を挟んだ向かいの店に入って行った。
はい、また。
わたしも返事をした。
二週間後に会う予定が入ってるみたいな、そんな気軽さがあった。
次会ったら一緒に校歌を口ずさんでしまえそうなくらい、大昔から知り合いだったみたいな。
中学のも高校のも、校歌なんてすっかり忘れちゃった。
大学にも校歌があるみたいだけど、一度も歌ったことはないし、聞いたことすらない。
今、わたしにとっての校歌は、この旅の日々なのかもしれない。
しかもこの歌は二重唱だ。
ちょび髭さんの言うことは間違いなかった。
旅を終えて、大学を卒業して、彼女と会うことがあったら。
きっとわたしたちは歌うだろう。そうして学生時代を偲ぶんだ。
さあ、彼女のいる場所へ戻ろう。
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