居酒屋〈たぬきや〉

どぶろく・ちょび髭・サンドウィッチ

   φ



 なんか夢を見てた気がする。

 気づいた途端に忘れちゃった。

 LINEの通知が来た夢だった気もする。通知音と共にスマホがブィブィと揺れた記憶がある。



 ソファでうたた寝をしていた。テーブルにしおりとスマホが置いてあった。

 カーペットの床に〈遠野物語〉が開いたまんまころがっていた。


 完全に寝オチしたらしい。



 遠野に訪れて、作品の舞台をいくつか散策したから、ちょっとは読めるようになっただろうって思ったのがいけなかった。

 わたしは賢くなったわけでも読書家になったわけでもなかった。

 わたしはわたしのまんま、ページを繰ってるうちに気を失ってたのだ。



 スマホの通知ランプが点滅していた。LINEが来てたのは夢じゃなかったらしい。

 つい先程、三ツ葉からだった。


「『終電で帰る。ご飯こっちで食べたから、依利江もどっかで食べておいで』かあ。充実してるなあ」


 ところで終電っていつだろう。

 『食べたから』ってことは、もう列車に乗ってるのかもしれない。


 時刻は間もなく夜の八時になるところだった。

 夜はこれからだというのに、なんて早いんだ、田舎の終電は!



 早速出かける準備をするものの、遠野市街に食事ができる場所はあるのだろうか?

 思い当たるのはどこも懐石料理のお店だった。

 とてもじゃないけど、一人で行くようなところじゃない。


「それでしたら〈たぬきや〉くらいですかね」

 フロントに尋ねたら心強い返答があった。

 カウンターに遠野まちなかマップを広げ、フロントマンは飲み処をマルで囲った。


「どうやら一一時までやってるみたいです。ほかは大体スナックとかカラオケバーとか……あと懐石料理店ですか」

 選択肢はほぼひとつだった。

 なんと、このわたしが初ひとり居酒屋だ。



 〈たぬきや〉は徒歩で四、五分のとこにあった。

 今朝鍋城号ナベシロゴーで走った道沿いにあった。


 暖簾がないけど電気は点いてるし、ビールのポスターが引き戸の脇に掛かっている。

 たぶんここだと思う。〈たぬきや〉とは書かれてないけど。



 勇気を出して戸を開く。

 勇気を出すなんて、何年ぶりのことだろう。

 たかが戸を開けるだけで大げさだけど、慎重に足を踏み入れた。


 店内には手前側のカウンターで語らう男性一組がいる。

 わたしには目もくれず話を続けていた。

 店主は眼鏡をかけた好青年だった。遠野で見かけた大人のなかで一番若いかもしれない。

 厨房から客の話に付き合ってるみたいだった。奥の薄暗い床に年老いた女性が正座している。

 別の世界の人みたいな気がする。


 店主と目が合う。まあるい眼をぱちぱちさせていた。わたしもぱちぱちさせながら尋ねた。


「あの……〈たぬきや〉さんですか?」

「そうですけど」

「開いてますよね……?」

「ええ。どうぞどうぞ、お好きなとこへ」

「でも暖簾が」

を見てしまっちゃうんです」

 当然のように言う。

 自分の無礼さを詫びつつ、カウンターの一番奥に座った。



 床の間にいた女性が注文をとりにやってきた。

 どぶろくとうどんを頼んだ。メニューのなかでなるべく手間のかからなそうなのを選んだつもりだ。


 店主がコンロの火を点けたところで、どぶろくがやってきた。

 真っ白いそれは甘酒にとてもよく似ているけど、日本酒独特の風味が強い。

 ぺろりと舌をのばして舐めてみた。当たり前なんだけど、甘酒感覚で飲むと、とても辛い。



 どっと笑い声があがる。向こうのお客の話が盛り上がってるらしい。

 饒舌な遠野語を話す二人が、果たしてなにを話してるのか……聞き取ることはできなかった。

 カウンター席には空になった徳利が転がっていた。ゆかいな話をしていることに違いはない。


 わたしから見て手前の男性が酒を仰いだ。

 鼻の下にふさふさとしたヒゲが生えていた。いわゆるちょび髭ってやつだ。

 髪のボリュームも相まって、なんだかヒトラーみたいだった。

 でもこんな田舎の酒場にヒトラーがいて、しかも方言でしゃべってるのが面白い。


 その話を聞いて、たびたび口を開くのは、半袖のYシャツを着た中年の男だった。

 どこかで見覚えがあると思ったら、芸人のサンドウィッチマン富澤に似ていた。

 ちょび髭さんと同じくらいお酒を干してるようだけど、徳利はカウンターの厨房側に並び揃えられていた。



「ごめんね、うるさくてさ」

 困り顔の店主がうどんを持ってきた。


「いえ……」

 確かに騒がしいけど、なにを話してるのかわかんないからそんなに気にならない。

 どっちかっていうと、どんな話をしてるのか知りたいんだけども。


 店主はそれ以上は言わず、男たちのいる場所まで戻った。

 六〇秒に一度はちょび髭さんから話を振られ、店主はそれに困惑の表情を見せる。

 それを富澤さんとちょび髭さんが笑う。

 そんなやりとりを言葉を変え口調を変え繰り返していた。



 うどんは薄味のダシを使ってるみたいだった。

 キツネと薄切りのかまぼこに山菜が入っていた。

 〈たぬきや〉なのにキツネうどんなのはちょっとした遊び心なのかもしれない。



「おめえの嫁さんはめごいべよ」

 唐突にちょび髭さんの声が耳に入った。

 ラジオのチューニングがカチッとハマったみたいに、お前の嫁は可愛いって言ってるのが聞き取れたのだ。


「んだあ、嫁ご自慢があ?」

「そぉでねくてよ、羨ましいっつってんだ。えぇ嫁さんでよ。俺も東京さいだころは愛人ぐれぇいぐらでもいだもんだがよ。嫁ご選ぶどきクジでもってよ、ひょいとひとりつまんだらハズレひいぢまってよお」


「なあにがハズレだよ。えっちゃんめんこいだろおよお」

「いづの話だ、いづの。抱ぐどいい声でなぐがらよ、おらぁだまさいだんだ」

 なんだかお互いの奥さんを褒めてる、のかな。



「あの、お二人、若い方がいるので……」

 店主の狼狽ぶりを見る限り、猥談らしかった。


 話を遮られたからか、ちょび髭さんは不満そうに厨房の店主を睨んだ。


「なんだ、若旦那、お前だって女ぐれぇいるだろう?」

「そうではなくてですね。お嬢さんがいらしてますので」

「んん?」

 店主がわたしをちらと見た。

 その視線を追うようにちょび髭さんと富澤さんがわたしのいる席をじっとりと見た。

 もしかすると、この人たちは今までずっとわたしに気付いてなかったんじゃないだろうか。


 目が合う直前にうどんを注視し、必死で食らった。

 わたしはなにも聞いてません。

 うどんをすする音が大きかったから、いい声でなくだとか、そんなの聞こえなかったです。



「お嬢さん、おいくつです?」


 ああ、ちょび髭さん、絡んでこなくていいですから。

 その丁寧語が妙に浮ついてて、違和感があった。


 でも声をかけられてしまった以上ムシするわけにもいかない。

 お箸を椀の上に置き、愛想笑いをこしらえる。


「わたし、ですか?」

 むしろ自分以外の誰がいるんだろう。ちょび髭さんはこくりと頷いた。



 その目を見るまで、わたしはちょび髭さんのことをどこにでもいるエロオヤジだと思っていた。

 けれど、その目はちっとも濁ってなかったし、ゲスじみた視線も感じなかった。

 それどころか、くりっとした垂れ目が可愛らしいとさえ思えた。

 たぶん、幼いころからこの目は変わらないんだと思う。

 その目は性的なものでなく、純粋な興味から来る輝きがあった。


 その後ろに座る富澤さんが申し訳そうに会釈した。

 こいつはこういう男なんです。そう言ってるように思える。

 空けた徳利の量はちょび髭さんに負けず劣らずだけど、ほとんど酔っぱらってないようにも思える。


「二十歳、です」

 どぶろくを一口すすり、おそるおそる返答した。

「じゃあもう気にする年齢じゃねえべ」

「やや、気にするのはあなたですよ、お客さん」

 若旦那がぴしっと言った。

 気弱そうな見た目だけど、言うときは言うらしい。



「旅か?」

 富澤さんが代わって質問を投げた。


「あ、はい。東北を旅してるんです。友達と。今日は別行動でして」

「東北をねえ。どぶろくは初めて?」

 と、富澤さんはわたしの胸元に置いてあるどぶろくを指した。


「はい。面白い味です」

 三ツ葉だったらもっといろんなお酒の銘柄を挙げて上手にどぶろくの魅力を伝えられたろうけど、わたしにはそれが精一杯だった。


「面白れえ味、そうだろ。どぶろくはいろんな飲み方ができっからな。甘口辛口の違ぇはもちろん、上澄みだけ飲んでもまた違ぇんだ」


「上澄み、ですか」

のねぇとこだよ。ああ、っつうのはな、まあ、どぶろくの白い部分よ。米とかこうじとか、お酒の元になるもんだ。

 一升瓶に詰めてっともろみは沈殿すっから、普通はそいつを混ぜて飲むんだが、混ぜないで飲むのも味や舌触りが変わっからな。それ口に合うんなら、一度試してみ」


「はあ……お詳しいんですね」

「だべよお、こいつ酒屋の社長やってんだ」

 ちょび髭さんが話に入ってきた。


 社長! そんな方がこんなとこに……!

 居酒屋に身分は関係ないってことか!



「詳しいのは当たりめえだなあ。でだ、嬢ちゃん、旅って、なんの旅だ?」

「それは――」

「男探しか?」

「違いますって、もう」

 答える前にちょび髭さんが茶化して笑った。若旦那がお冷をふたっつ、二人組のカウンターに置いた。


「ま、男目当てだったら仙台へ行くんだな。ここにゃ俺たちみてえな老いぼれしかいねえがら」

 ちょび髭さんがお冷を口にする。

 次の目的地は仙台だから、これ以上この話をするとどんどんややこしくなっていきそうだった。


 それにしても、老いぼれ、なんて言葉はまだ早いような気がする。

 ちょび髭さんは五〇代くらいだし、富澤さんは四〇代、若旦那は二〇代後半から三〇代ってところだろう。



「こんな時間に居酒屋ってことは、泊まるとこは決まってるのか?」

 富澤さんが違う話題を提供してくれた。

 助け船にありがたく乗船する。


「はい。ホテル鍋城なべしろに」

「ナベシロ……?」

「鍋城、ですけど……」

「聞いたことねえな」

 二人とも顔を見合わせた。


 どういうことだろう。

 たしかにあの宿は異彩を放っていて、それでいて隠れ家的な様相を醸し出していたけども。

 遠野の人たちに認知されていないものなのだろうか。


 ふと、異空間に迷い込んでしまったのではないだろうか。

 ホテル鍋城は実在しない宿泊地で、わたしはキツネかたぬきかカッパに化かされているのではないだろうか……?


「ホテルカジョーですよ」

 と、若旦那が言った。


「ああ、カジョーさんね」

 富澤さんが納得したように頷いた。



 カジョー……? お酒を含み、首を傾げる。


 なにかの聞き違いかと思った。

 けど二人ともハッキリ『カジョー』と発音していた。

 どういう字で書くんだろうと思って、〈鍋城〉という漢字が当てはまることに気が付いた。

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