よぎる日々
φ
遠野の言葉でおやつのことを〈こびる〉と言うらしい。
漢字で〈小昼〉と書く。
こびるどきに近づきつつある昼食をカッパ淵の近くにある伝承館でとることにした。
デンデラ野から約三〇分で到着した。
ひっつみ、ケイランという郷土料理を頼んだ。
ひっつみは、わたしの知ってる料理でたとえるならすいとんだ。
鶏のダシが効いたあっさりな汁に、キノコやゴボウ、ニンジン、山菜各種を煮込む。
それから鴨の肉と水餃子の皮みたいな、肉厚のひらべったい麺が入っている。
「小麦粉を練って平たい団子状にして、それをひっつまんで入れるから、ひっつみって名前になったんですよ」
「ひっつまむからひっつみ……面白いですね」
お店の女性とそんな話をした。女性は四〇代前半くらいの年齢で、農婦風の頭巾をしていた。
秋田美人という言葉はあるけれど、遠野美人という言葉はあるのだろうか。
もしあるのだとしたら、彼女に与えたい称号だと思った。
頭巾越しからでもわかる美貌。
とくに笑んだときの細い釣り目は、かつて宝塚の男役をしていたと言われても信じちゃえるくらい魅力的だった。
右目に泣きぼくろがふたっつ、それがまたいい。
なまりはなくて、はきはきした標準語でていねいに料理のあれこれを教えてくれる。
ちなみに〈こびる〉を教えてくれたのも彼女だった。
「じゃあこの、ケイラン? というのは」
せっせと質問しちゃってるのは、ちょっとでも話をしてたいって願望もある。
「けいらんはですね、お汁のなかに入ってるお団子が鶏の卵に似てるから、鶏の卵と書いて
「ころっとしてて、か、かわいいですね!」
名前の由来になった団子は黒いお椀のなかに入っていた。
透明な汁のなかに真っ白のお団子。黒と白の対比がくっきりしててきれいだった。
「昔はお祝いや来客の方へのおもてなしとして食べられてました。お団子にはあんこが入っております。ひっつみのあとに召し上がってください」
女性は会釈して、違う席の客のもとへ注文を取りに行った。
その背中を見送り、ひっつみに視線を落とす。
ひっつまんで入れるから、ひっつみ。女性の言葉を胸のなかで繰り返す。
食べ終えてから、けいらんの汁をすすってみた。
ほとんど味がない。白湯か、少量の塩が振られた程度だと思う。
団子を一口かじってから汁を飲むと、けいらんはお吸い物感覚で食べるものじゃないとわかった。
あんこの甘味と食感が、じわあっと舌の上で変わっていく。
上品な味わいだ。それに、かじりかけの団子からあんこが溶けだして、椀の色合いも変わっていく。
三日月が雲に隠れていくような、そんな感じ。
たしかに、お祝いの席で食べられてきたのも頷ける。
命名といい味といい、どこか都情緒をにおわせる。
どうしてこれがみちのくの郷土料理になったのか。
ひっつみとは違うルーツがありそうな予感がする。
三ツ葉がいたら教えてくれたのだろうか。
そういえば三ツ葉はどのくらい東北のことを勉強してるんだろう。
三ツ葉の東北知識は、震災以降に吸収したものだって言ってたけど、そのなかに歴史は含まれてるのかな。
旅の途中でまだ一度も伊達正宗の話を聞いてない。あとは奥の細道の話とか。
今夜、そこらへんのことも訊いてみようかな。
厨房から話し声がする。
店内はわたしの他に、年配の夫婦が一組いる。机の下の荷物置きには、大きなリュックサックが詰まっていた。
静かだったから厨房の会話はよく聞こえる。
けれども、会話の内容は一切聞き取れなかった。
声量は充分なのに、雑談なのか事務連絡なのかすらわからない。
わたしの知らない言葉で早口にしゃべっているからだった。
方言、というものを初めて聞いた気がする。語尾が違うとか、なまりが強いなんてレベルじゃない。
単語からして違ってるんじゃないだろうか。
きっと、こっちが遠野の標準語なのだと思う。
わたしと話すときは公用語で、身内と話すときは遠野語を使う。
辞書を引いてもわからない暗号にしか聞こえないけれど、彼女たちにとっては公用語で話すよりもスムーズで気楽に話せるんだと思う。
――くだらないくらいでいいんだよ。他人が見たら暗号交わしてると思われるくらいワケわかんなくていいんだよ。二人だけしか伝わらない会話であればあるほど充実感感じるな。
そう言ったのは、石ノ森萬画館でのわたしだったっけ。
ゴレンジャーかき氷を囲みながらそう三ツ葉に伝えたのだった。
方言の話し手はこんな感覚なのかもしれない。伝わるから、地元の言葉で話してるんだ。
身内にしか伝わらない言葉のことを方言と拡大解釈するならば、わたしと三ツ葉の間で交わす雑談も方言と呼べるのではないだろうか。
だって、わたしたちのとっての日の出や奇跡の一本松や遠野物語は、他の人には通じ合えない特別な意味合いがあるんだから。
φ
お昼のあとは近くにあったカッパ淵まで散歩した。
常堅寺の裏に木陰の気持ちいい小沢があって、カッパがたくさん暮らしてるとこなのだそうだ。
小橋を渡ると素朴な釣り竿が立てかかっていた。
細い竹に麻ひもが垂れてて、キュウリが結んである。これで釣れるらしい。
いたるところに祠や鳥居があって細身のカッパ像が膝を抱えて座ってる。
ザルに乗っかったキュウリやトマトが供えられてた。
カッパ淵の〈淵〉っていうのは、水の流れが緩やかで、深まったところを指す言葉らしい。水底の茶色い小石がよく見えるけど、どうもそれは浅いからでなくて水が澄み渡ってるかららしい。水面に触れると思った以上につめたくてびっくりした。
沢沿いに下ってくと、かわいいイラスト付きの看板があった。
『この先にカッパさんはいないようです』
ポップ体で記されてて、とても愛嬌のある看板だった。
たぶん私有地との境界に設けられてるんだと思う。
カッパさんがいないのなら仕方がない。元来た道を引き返した。
残暑の日光を浴びながら遠野の道を走った。
市街地へ戻るころになると、お日様の色は橙へと変わっていた。
博物館に寄りたいとぼんやり考えてたけどこの時間からだとゆっくり回れないし、疲れも溜まってたから宿へ戻ることにした。
昨日今日とホテル鍋城のツインルームに泊まっている。
とにかくゆったりできる広さだ。三ツ葉のひとり暮らしアパートの二部屋分くらいはある。
入って右手にふかふかベッドが二つ置いてあって、大の字になったってはみでない。
居間は突き当たりで左に折れていて、ソファと小さなテーブル、液晶テレビが置かれていた。
テレビ台の下に小型の冷蔵庫もある。
バスルームは玄関左にある。このお風呂場が心躍る。
いわゆるビジネスホテルにあるようなユニットバスじゃない。これはシステムバスって呼ぶんだと思う。
美しい曲線を描く浴槽は足を伸ばしたって窮屈なんかじゃない。ちょっぴり富豪気分を味わえる。
さすがに泡風呂機能はなかったけど。そもそも泡風呂の泡ってどうやってできるんだろう……。
そんな疑問は汗と共に流し去って、鼻歌まじりに半身浴だ。
最近の浴槽は半身浴に適した構造をしているのだ。
全身浴特有の肺がシュッとなる感覚もいいもんだけどね。
昨日もこんな感じで長風呂を満喫したっけ。
お風呂はいいもんだ。
シャワーでさっとおしまいな三ツ葉が不思議でならない。昨晩疑問を口にしたら、ビジネスホテルで湯船につかる習慣がないって言ってた。
融通が利かないのかお風呂が苦手なのか。後者のほうが三ツ葉っぽい。
今度、お風呂がいかに素晴らしいものであるか、感情論で説いてみようと思う。
……ふと、観洋の露天風呂で三ツ葉にお説教したことを思い出した。
温泉は五感をフル活用するんだ。そんなふうなことを。
あれは被災地一日目のことだった。
被災地をめぐって、六日が経つ。
六日。
旅の終わりが、近付いている。
明日は仙台。
北へ北へ上ってった旅は、ここから南へ……わたしたちのくらすまちへと続く道をゆく。
仙台、名取を訪れて、そしてわたしたちにとっての日常へと帰る。
そうだ、日常だ。
旅以前が日常ってことになってるんだ。
このまちが、被災地が、東北が、日常になることはない。
旅してるってそういうことなんだろう。
居心地のよさを抱くことはあっても、遠いまちに本来の暮らしがある。
日常は日常で、非日常は非日常で。
けど、わざわざ別に考えなくたって、いい。
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