遠野篇

遠野市街

キャット・ファイト

五日目 八月二六日(金)遠野市



 遠野に訪れたら、朝のひとときを満喫しなさい。


 それは誰からの受け売りだったか。



 山に囲まれたこのまちは霧が出やすい。

 陽が昇ると一面の朝がすみに、立ち込める青い稲穂の香り。


 あなたはきっといつの間にか深呼吸をしていることでしょう。


 そんな詩的な思い出ばなしをどこかで聞いたことがあった。


 漂う朝もや、白む山の端、ニワトリの声すら麗しい……。



「ええっ! なんでさ! どうしてどうして! おかしいよ! うん、おかしい!」


 そんな素晴らしい遠野の朝は、わたしの駄々っ子から始まった!


「だって仕方ないだろう? あんなパニック見せられちゃ」


 対する三ツ葉は毅然とした様子で髪を梳かしていた。跳ねた毛が一向にまとまらず、そして黒いレースの下着姿であることを除けば、とてもしゃんとしている。


 朝の三ツ葉といえば寝ぼけまなこをこすって、舌足らずな寝言をぷつくさ言うのがお決まりだというのに。



「だってさ、仕方ないじゃん!」

 こんな騒がしい朝になったのは、今朝の悪夢のせいだ。

「三ツ葉はパニくらないわけ? 夢と現実の区別つかなくなることくらい、一度はあるでしょ? 寝坊した夢とかさ!」


「寝坊した夢は見たことないけど……試験中に雑学の本をこっそり読んでたら先生にバレて全教科〇点にされた夢見たときは、生きた心地しなかったね」


「ほらほらほら! わたしだって生きた心地しなかったのよ! でもわたし、焦んなかったんだからね。冷静沈着だったんだからね! 目覚めるまで三ツ葉を守り抜いたわけだし。目覚めなくてもあのあと守り抜けた自信あるし!」


「そこ、なんだよ」

「そこ?」


 勝ち誇ったわたしとは裏腹に、三ツ葉は神妙な顔をしていた。


「依利江は動かなくなった私を助けようと、時間をかけてわたしのところまで来て、それでおぶって逃げた。助けてくれたんだよね?」


「そうよ。なにか、いけない?」

「ということは、現実でも同じことをするってことだよね?」

「そりゃ、そうしたくなるよ。三ツ葉なんだし」


「そこが心配なんだよ。もし私が絶望的な状態だったとしても、依利江は私を助けようとするでしょ? 時間だって惜しまない。それで波にさらわれたら、依利江まで犠牲になるんだ」


 三ツ葉が生きてようがそうでなかろうが、助ける。

 たしかにその通りだった。あのときわたしは生きるのに必死だった。

 その〈生きる〉とは〈三ツ葉と生きる〉という意味で間違いない。

 三ツ葉と一緒でなければ、生きてる意味なんてない、そんなふうに言ってもいいだろう。



 三ツ葉の言葉が、ちくちく痛む。


 それを察したかどうかはわからないけど、下着姿の彼女は小さく息を洩らした。


「ごめん、伝え方が悪いね。視点を変えて考えてみよう。地震で依利江がビルの下敷きになりました。もはや脱出不可能。そんなのわかりきってる。でも私は諦められない。だって、依利江なんだから、当たり前だよ。

 津波はもう間もなく……三〇秒後にはやってくる。そんなとき、依利江は私に対して、どんな声をかける?」


「そりゃあ」

 わたしなんかのために三ツ葉を犠牲にさせたくない。


「わたしを置いて先に行け、かな。……あっ」

「私もさ、同じ気持ちなんだ。依利江には生きてほしい。私が生き残る立場でも、ダメな立場でもさ」


 照れくさそうに髪をいじる背中を見ながら、思う。大切な人はそれぞれ違えど、誰もがその人を失いたくないのだ。

 去りゆく背中を見送るのは淋しいに決まってるけど、それでも寄り添う人の幸せを願わずにはいられないだろう。

 だからこそさいごはちょっとだけ見栄を張って、淋しさを包み隠して、お前は先に行けって言いたくなるのだ。


 本当はつらくても、痛くても、さいごまで一緒にいたいと思っても、自分のわがままは自分のなかに留めておけばいい。

 大切な人に呪いをかけたくない。自身の願望なんてつゆ知らず、のほほんと能天気に日常を送って、ときたまわたしのことを思い出してくれたらそれでいいのだ。


 そう、信じたい。



 三ツ葉が話を続ける。


「ちょっと話が変わるかもしれないけど、今日行く釜石市は、逃げるための教育が徹底されてるんだ。〈津波てんでんこ〉って、依利江も聞いたことあったよね」


 それは南三陸町で耳にした言葉だった。


 津波が来たら各自とにかく真っ先に逃げろ。

 一千年語り継ぐべき七文字だ。

 だけど、今の今まですっかり抜け落ちていた考えだった。


「三ツ葉、覚えてたんだね、その言葉」

 わたしは〈てんでんこ〉を忘れてたんじゃない。覚えてなかったんだと思う。


 三ツ葉はこちらを向いて頷いた。

「そりゃね。実践に移せない知識なんて知識とは呼べないから」


 自信満々に胸を張ると、彼女のすらりとしたラインが際立った。

 というか、早く服着ようよ。おへそ丸見えなんだけど。

 言おうと思ったけど、言葉じゃ伝わんないような気がしたから脇腹をつついてやった。


「ふにゃっ!」

 三ツ葉はくしゃりと身をよじり、真っ赤になった顔で私を睨んだ。


「三ツ葉が服着てないのが悪い」

「それ、依利江もだから!」


 火ぶたは切って落とされた。目にもとまらぬ速さで懐に潜り込まれ、ブラ越しに鷲掴みにされた。


「ひぎっ」

「くそ、なんでこんな……!」


 三ツ葉の恨み言に反論をしようと思ったけど、くすぐったくて息すらできない。

 これじゃ反攻に転じなきゃ窒息しちゃう! なにが「依利江には生きてほしい」だ!

 窒息して亡くなったら間違いなく三ツ葉を恨むし、呪いだってかけてやる。

 ちょっとお腹がたるむ呪いだ。


 自由の利く左手をじたばたしてると、奇跡的に三ツ葉の腹筋を捉えた。

「あふぃ」


 しばし、わけもなくキャットファイトに興じた。




 互いに息絶え絶えになったところで休戦し、乱れた髪を再び直した。


「ああ、せっかく直してたのに。依利江さあ、ヘアオイル貸して」

「あ、うん」


 あんず油を渡し、先刻以上に跳ねまくるクセっ毛と格闘する様をぼんやり眺める。


 なにしてんだろ、わたしたち。


「ところで、お互いの相手に対する気持ちを共有したわけだし、〈津波てんでんこ〉も復習したわけだしさ、一緒に釜石行ってもいいよね?」


「あー……」

 間の抜けた声を洩らし、三ツ葉の手が止まった。

「依利江さ、釜石でどっか行きたいとこ、ある?」

「釜石で? うーん……」


 旅前にもらったしおりには〈ギネスにも載る防波堤があった〉と書かれていた。

 昨晩移動中に釜石市へ寄ったとき、駅前の工場が製鉄所だということを教えてもらった。鉄か煙か、不思議な香りのするまちだという印象を抱いたのは間違いない。


 ただ、

「これといって行きたい場所は」


 ギネスに載る防波堤というものが、奇跡の一本松や南三陸町防災庁舎ほど興味を引くものじゃなかったし、製鉄所と聞いて心震えるほどでもない。

 そもそも行きたい場所は三ツ葉の行きたいと思ってる場所、としか言えない。


「それなら、さ」


 鏡越しに視線が合うと、三ツ葉は気恥ずかしそうに瞳を左右に巡らした。

「依利江にとって、ここは……特別な場所なんじゃないかと」

「ここ? 遠野のこと?」


 髪をいじいじしてるのは、クセっ毛と格闘しているわけではなかった。



 遠野が特別な場所である理由を考えていたら、ムッとした顔がこちらを向いた。


「ここは〈遠野物語〉の舞台じゃないか! 忘れたなんて言わせないよ。依利江、レポート書いてたでしょ」

「ええもちろん書きましたとも」

 とっさに答えたけど、レポートって、なに?



 ……ああ、〈民俗から見る文学の探究〉の期末レポートのことを言ってるらしい。


 夏休み前のことがずっと昔みたいだ。たしかレポートで〈遠野物語〉に登場するデンデラ野について書いたんだっけ。


 レポートの記憶が乏しいのは、書いたときのことより、聞いたときのことのほうが印象が強いからなんだと思う。


「わたしさ、たぶん、〈遠野物語〉が好きなんじゃなくて、先生の話が好きだったのかもしれない」

「は、あの先生の?」

 三ツ葉は憎々しげに言った。

 彼女は先生の講義を聞いてケンカを売るくらいだから、わたしが好意的に捉えてるのが衝撃的なのだろう。


「あ、別にあの人が好きなわけじゃないよ。先生がデンデラ野に行ったとき、集落との距離が近いって驚いてたじゃん? それが印象的だったの。

 〈遠野物語〉って物語なんだけどさ、完璧な創作ってわけじゃなくて、舞台になってるのは本当にある場所だったんだなって。当たり前のことなんだけど、先生の話聞いたら新鮮に感じたんだよね」


「ああ、そういうこと」

 なぜか三ツ葉は安堵の表情を浮かべた。それから何度か頷いてわたしと向き合った。


「ならなおさら遠野さんぽすればいいよ。同じ舞台でも物語にするとき、人それぞれ違う切り取り方をするでしょ?

 柳田國男のデンデラ野も先生のも、興味湧かなかったけど、依利江の話なら気になる。聞かせてよ、依利江の〈遠野物語〉」


 口車に乗せるのがうまいなあ、三ツ葉は。

 悪い気はしないし、まるで旅する以前から遠野に行きたがってたみたいなわくわく感に胸がときめいた。


「よおし、ならば期待するがいい。はっはっは」

 高揚感から尊大な感じでおどけてみせた。三ツ葉の冷ややかな視線をスルーして着替えを始めた。


 と、にわかに三ツ葉が「あっ」と声を上げた。

「今何時?」

「えっと」

「ああ! 七時四〇分!」

 ベッドに放られてるスマホを手にするも、三ツ葉はとっくに確認を済ませ、悲鳴をあげていた。


「あんなのしてるヒマなかった! 列車乗り遅れちゃう!」

 あんなの、とはキャットファイトのことだろうか。

 とにかく、跳ねっ毛との格闘の次は時間との格闘が始まった。


 遠野駅から釜石駅までへは、釜石線下り列車で一時間ちょっと。乗り換えなしで行ける。

 ただし、日中の電車は大体二時間に一本なので、都内感覚で乗り損ねると計画を大幅に見直すハメになる。


 軽装備三ツ葉の仕度は早い。腰バッグを装着すると「カギよろしくね」と言い残して颯爽と出ていった。


 夕方になったら一度連絡を取って、いつどこで落ち合うかを決めよう。

 なんにせよ今夜はこのホテルにもう一泊するわけだから、連絡が取れなくてもここで待機していればいい。


 さらによく考えてみると、もう一泊するということは連絡の有無関係なく、今日はこの部屋に引きこもってたっていいってことだ!

 TSUTAYAで九〇年台ロボットアニメでも借りてだらだら過ごしちゃってもいいのだ!


 わくわく自堕落ライフを妄想したところで、待てよと考えを改める。

 そういえば昨晩、駅前を歩いたとき、TSUTAYAどころかコンビニすらなかったような気がする。

 お店は日が暮れると大体閉まっちゃう。

 そう、これが田舎のまち、田舎の駅。



 思えば遠くまで来たもんだ。

 そんな思いを抱きながら、お腹をへこませた。

 もちろん、ジーンズのファスナーを引き上げるために。


 帰ったらまたダイエットしなきゃ。

 道中はおいしい出会いが多すぎる。

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