ヨコハマ篇

ヨコハマ

「依利江、見て見て、ほら!」


 三ツ葉の一言にはっと気がついた。

 三ツ葉は無邪気にぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 満面の笑みをたたえた三ツ葉はみずみずしくて、幸福そうだった。

 こんな三ツ葉、ディズニーランドへ行っても見らんないだろう。


 それにしても、ここはどこだろう。

 もっと人のいないところを歩いてたような気がする。

 そうだ、被災地だ。

 わたしたちは被災地を旅してたんだ。

 それがここにはたくさんの人が歩いていて、幸せそうなカップルの笑い声があちこちから聞こえる。


 三ツ葉は疲れ知らずだった。

 三ツ葉はずんずん右手を引っ張っていく。

 荒っぽいエスコートだ。

 わたしはトラベルバッグを持っているから思うように歩けないというのに。

 少しでも握りしめる力を緩めたら、ぬるっと離れてしまいそうだった。

 そのぬめりが何だか得体の知れないもののような気がして、不安は強迫観念のようなものに変化した。

 手を離したら見失ってしまう。

 赤レンガ倉庫にはそれだけたくさんの人が行き交っていた。



 ここは横浜だった。

 何年ぶりだろう。

 高校のときは滅多に外へ出なかったから、中学ぶりかな。

 横浜駅から歩いて行こうと言いだして聞かなかったのだ。


 わたしは仕方なく彼女について行くことにした。

「困った人」

 ため息まじりの不平に、三ツ葉は笑って返事をした。

「それでもついてきてくれるんだから嬉しいよ」

 大人びた三ツ葉の笑顔はなんだか凛々しくて、頼もしくて、自ずとこちらの頬がゆるんだ。

 しょうがないか。

 なんだかもう許せてしまえるし、なにに腹を立てていたのかもどうでもよくなった。



 悪いね、悪いね。



 そこに歳を取った男が割り込んできた。

 その男はわたしたちの間を歩きはじめた。



 ここまで来てくれてありがとうね。

 れんでくれてありがとうね。

 君がいなくちゃ俺はなあんにもできないんだ。



 ちがう、ちがう。

 声を振りほどこうとした。

 なんでそんなこと言うの?

 そんなふうにあなたを思いたくない。

 でも声が出なかった。

 さっきまで出てたのに。

 舌を失ってしまったような心地がした。

 結局わたしはなにも言えず仕舞いで、三ツ葉にしがみつくしかできなかった。

 ね。

 三ツ葉。

 ゆっくり歩こ。

 ちょっと怖い。

 やはり声は出なかった。

「そこ、よさげだなあ」

 三ツ葉の片方の手がアクセサリーショップを指していた。

 もうわたしのことが見えていないのかもしれない。

 返事をする間もなく、一歩ごとにペースが速まっていく。

 道ゆく人の肩にぶつかる。

 ごめんなさい。

 胸の中で謝罪した。

 その相手の顔がかき氷を売ったおじさんだった。

 わたしはぞっとして駆け出した。

 三ツ葉の横を並んで歩きたかったのに、もはや駆け足よりも早く前を歩いている。

 わたしのことが見えなくっても、どんなに速度があがっても、この右手だけは離してはならない。

 必死でついていく。



「このカメラ、オリンパスだ。いいだろう……」

 手を繋いだ先からの声は違う相手に向けられていた。

 アクセサリーショップには一八四五六点のカメラが横一直線に並んでいた。

 すべて三ツ葉の首に下がる一眼レフと同じ姿かたちをしていた。

 知ってるよ。

 EM‐10。

 コンパクトで、高画質。・

 なんだか妙にオリンパスにこだわりがあるみたいだった。

 なんでだろう。

 オリンパスって、どっかの神話で登場する神様だったっけ?

 場所だったかもしれない。


 三ツ葉はカメラのトンネルを駆け抜けていった。

 かたかた。

 アクセサリーショップのマグカップが小刻みに揺れているのを、わたしはこの目で見た。

 走りながらその様子をじっと見つめていた。


 何かの仕掛けがそうさせている。

 そんなふうに思った。



 地震はそのとき起こった。

 赤煉瓦倉庫全体がガチャンと大きな音を立てて沈んだ。


 咄嗟にしゃがみこんで、頭を右の手で押さえた。

 左の手は掴まるものを求めて地面をぱたぱた叩いた。

 なんとかアクセサリー台の脚を捕まえた。

 頭上を腕時計とお皿とバッグが通り過ぎた。

 あらゆるものが水平移動をしている。

「え、うそ、なにこれ」

 買い物をしてた大学生の女の子が震えた声で言った。

「バ、バッカじゃないの!」

 悲鳴はやがてどこからも上がらなくなった。


 なにかの間違いだ。

 みんなそう思ってたんだと思う。

 だって、こんな揺れ初めてだったんだから。

 赤煉瓦倉庫ごと滑り落ちていくような、そんな揺れだった。


 かしゃん。

 かしゃん。

 写真機が割れる。

 うそだ。

 うそに違いない。

 こんなの間違ってる。

 台の脚にしがみつきながら、天井が落ちてこないことをひたすら願った。

 視界が揺らぐ。


 揺れが収まる。

 ぽつぽつと伏せていた人たちが立ち上がる。

 でも揺れてる感覚は引きずってる。

 あるいはわたし自身が動揺してるからだろうか。



 津波が来るぞ。

 誰かが叫んだ。

 みんな思い出したように走りだした。

 このままでは取り残されてしまう。

 逃げようとした。

 でも――。

 三ツ葉。三ツ葉はどこだろう。

 知らぬ間に手を離してしまっていた。

 あれほど求めていたものを、わたしは自ら放棄していた。

 三ツ葉は背後にいた。

 ずっとうしろにいた。


 助けなくちゃ。

 人の流れに逆らって、足を前に出すことだけを考えた。

 地面がつるつるしてて、なかなか進めない気がしたけど、三ツ葉だけを見つめて何度も足踏みした。

 今だったら津波にだって逆らえそうだった。



 三ツ葉は伏していた。

 背負うとだらんと腕が垂れた。

 ぬるりとした体温が伝わる。

 しっかり押さえとかないと滑って落としてしまいそうだった。

 走った。

 高いところへ。

 港の見える丘公園を目指した。

 階段を登る。


 不思議と重さは感じられなかった。

 でも頑張って走っているのに、どんどん追い越されていってしまう。

 駆け登る人々の焦りや苛立ち、死に物狂いな息遣いを強く感じる。

 顔を上げると、黒い頭部がわらわらとてっぺんへ向かって進んでいた。

 きっとうしろの人が見れば、わたしも三ツ葉もこの黒の一部分なんだと思うと、気分が悪くなってきた。

 もう黒いぐちゃぐちゃを見ないよう夕方の空を見つめた。

 いつ津波が襲ってくるのかわからない。

 誰のものだかわからない鼓動が激しく脈打っていた。



 港の見える丘公園に到着した。

 でも心のざわめきは収まらなかった。

 この場所に留まっていては、呑まれてしまう。

 なにせ津波は丘すらも軽く呑んでしまうほど大きなものだからだ。

 公園に展望台があった。

 展望台の階段を一歩一歩踏みしめた。


 最上階には大勢の人々が不安そうな面持ちで立ち尽くしていた。

 大きなベッドやソファがあった。

 最上階は誰かの住まいらしかった。

 でも主はどこにもいない。

 そもそも人が多すぎてわかりようがないけれど、わたしにはわかった。

 三ツ葉を床に降ろした。

 人形のようにくたりと倒れた。

 わたしは不思議と冷静な心地でいられた。

 こうなってしまったのはわたしが手を離してしまったからだ。

 三ツ葉と生き残るために外の様子を見なければならない。

 もう理解していた。


 息を殺して窓に手を添え、外を見た。

 横浜の高層ビル群が見える。

 観覧車と半月状のホテルが見える。

 ここはランドマークタワーの最上階だった。

 ランドマークタワーだから、横浜駅も見えたし、ベイブリッジの橋脚をくしゃっと折り曲げる水しぶきもまた見えた。


 間もなく波の音がした。

 横浜の海がせり上がり、公園が海に呑まれた。

 国道一号線を舐めるように水は流れていく。

 ダムの放水みたいにじゃぶじゃぶ、流れている。

 その音は永遠に水を流すトイレみたいな音だった。

 その音がトラックや人々をごろごろ転がしている。



 ふわり。

 ランドマークタワーが浮いた。

 土台から切り離され、タワーは方舟となった。

 ビル群を砕きながら舟は水際を突き進んだ。

 土台の小さな揺れが最上階ではゆったり大きな揺れになった。

 振れ幅がちょっとずつ大きくなっていく。

 振り飛ばされ、窓を突き破る人がいた。

 次は、自分だ。

 それはわたしの意思でなく、この場にいるすべての人が同時に覚悟したことだった。

 わたしは地面を這った。

 床に転がる三ツ葉の胴をつかまえた。

 生きてやる。

 生きてやる。

 生きてやる。

 小さく呟いた。

 呼吸は小さく荒く激しくなった。

 生きてやる。

 生きてやる。

 生きてやる。

 間もなく舟は横転する。

 私は必死になってかけがえのない人を抱き寄せた。


 そこで目を覚ました。

 暗転。




 それから薄暗い一室、カーテンの隙間から一筋の線が壁紙を照らしている。息を吸うのを忘れていることに気付いた。


「どうした、依利江」


 枕元から声がする。


「今ね、今ね、あの日のことを思い出したの」

「あの日?」

「震災のあった日。あの日、二人で赤煉瓦倉庫で遊んでて、それで地震があって……それで津波が来たの」

「津波がね」

「三ツ葉と一緒にランドマークタワーに逃げたよね」

「ランドマークタワー」

「それで、それで……」


 三ツ葉があまりにも平静で少し腹立たしくなる。なんだかわたしだけ必死で、焦ってて、バカみたいだ。


「依利江、落ち着いて。夢だよ。横浜に津波は来てない」

「夢……」



 今のが夢だった?

 それにしては、やけにはっきりしてる。なめらかに動く水の流れとか、魂が抜けた三ツ葉の表情とか、飛び交うコップの色つやまでくっきり思い出せるのに。


 ……カメラだらけの場所に、どうしてコップが飛び交うのだろう?



「でも三ツ葉と一緒で」

「いいか、五年前、私たちはまだ中学生だった」

「そんな、だって赤煉瓦で」

「赤煉瓦は行ったことないよ、私。いいかい、私も中学生だったし、依利江もまた中学生だったはずだよ」

「あ、れ……?」


「依利江とも会ってなかったし、その時は松本の学校で卒業式の予行演習をしてたよ」

「中学……中学生、か」

「依利江は、その日何してた?」

「先輩たちの卒業式、終わった日、だった……」



 その日のこと、わたしは覚えているはずだ。


 その日は早めに帰宅できて。リビングにいて、それで……。

「家でパソコンしてた」

「そうかい」

「家、誰もいなくて……ダイニングテーブルに隠れたの。でも脚が太くてしがみつけなくて、結局椅子の下に移ったの」

「はは、依利江らしい」


「揺れが収まったら、テレビをつけて、窓開けて、ヘルメットかぶって、お風呂にお水溜めて、炊飯器一杯のご飯を炊いたの」

「なんだそりゃ。模範行動だ。詳しい」

「それは、えっと、グーグルで」

「ググったんだ。ググったんだな」


 三ツ葉は笑った。

 笑って、私の髪を撫でた。


 感触で寝癖が立ってることに気付いた。でもそんなのお構いなく、私は三ツ葉を抱きしめた。


「少しだけ、こうさせて」


 三ツ葉の谷間に鼻を押し付け、その香を肺いっぱい吸い込んだ。


「目覚ましが鳴るまでな」


 やさしいなあ、三ツ葉は。左手を私の腰に回し、もう片方の手で髪を撫でてくれた。


 鼻越しに鼓動が伝わる。


 夢だった。



 いろんなものが詰まっていて、思い出すだけで気味が悪かった。

 でもこの夢が単なる偶然だとは思いたくなかった。きっとこの夢を欲していたんだと思う。失っちゃいけない。



 でもひとまずは。



 生きている。それを知れただけで幸せだった。





 悪夢の正体は、今日未明の地震だった。


 わたしたちの宿泊した遠野市は、震度三だった。

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