これは思い出

φ



 濃い色をしてた影がちょっとずつ東へ伸びつつある。

 お腹が減ってきたわたしたちは、バス停前の駐車場へ引き返した。



 駐車場の奥にある新築風の長屋みたいな建物の正体は、一本松茶屋という土産屋だった。

 L字になったウッドデッキに店舗が並んでいる。

 手前に平屋根のお手洗いとお土産を売ってる〈たがだ屋〉が一続きになっていて、折れ曲がったところに切妻屋根の和カフェの〈つるや〉があり、左端に一面ガラス張りのラーメン食堂〈岩張楼がんばろう〉がある。



 近付いて見てわかったけど、全部プレハブ製だ。

 シックな外観からは想像ができないオシャレさだ。

 ここはかさ上げされてない土地だけど、プレハブってことは近い将来ここも手が加わるってことだ。


 お手洗いを済ませ、〈岩張楼がんばろう〉で昼食をとることにした。



「おお」

 引き戸を開けると、そこは空調の効いた世界だった。

 思わず声を洩らす。ようやく人間の住む世界に辿り着いたような、そんな安心感があった。


 店内はプレハブにしては広々としていた。四人掛けのテーブル席が四つと国道に面したガラス壁に五つのカウンター席が設けられている。

 昼のラッシュを終えたばかりなのか、店内にお客の姿はない。

 厨房脇の天井に液晶テレビが備わっていて、昼のワイドショーが流れていた。



「いらっしゃい。お二人?」

「はい」


 気さくそうな女性店員がやって来て、中央のテーブル席を案内してくれた。

 間もなくお冷がやってきた。

 いつ氷漬けになってもおかしくないくらいひんやりしていた。



「なにしよっか」

 メニューを眺めつつ三ツ葉が言った。

 メニューはテーブルに備え付けのものの他に、店内を見渡すといたるところにオススメが張りだされていた。


「岩張楼ラーメン七〇〇円、オススメはこれみたいだね」

「海鮮たっぷり……いいねえ。これの正油しょうゆにしよ」

「じゃ、わたしは塩で。あとで食べさせてね」

「はいはい」


 塩のほうが、海鮮の味を直接楽しめそうだからこっちにしたけど、正油も気になる。

 なにせ〈醤油〉でなくて〈正油〉と表記してるんだから、なにかこだわりを感じる。

 店員に注文をすませ、コップに口をつけた。



「まずは、お疲れ」

 三ツ葉はコップをかざしてそう言った。

「あ、うん、お疲れ」

 先に飲んじゃってごめん。


「それで、さ」

 コップの縁が三ツ葉の唇に触れるところを眺めてたら、彼女は伏し目がちにつぶやいた。

「私、自分の知識ばっか話してたんだなって」

「あ……」

 それはわたしが伝えた思いの丈だった。



「そんなはずはって、一瞬思ったんだけど、確かに怖いとか、きれいとか、そういうの全然口にしてなかったよ」

「別に、ムリして言わなくてもいいんだよ?」

「ムリしてるわけじゃないんだ」


 三ツ葉は乾いた笑みを浮かべた。

「そういうのって、あんまし表に出そうとしてこなかったんだよ。前さ、高校んときの話したの覚えてる?」

「うん。長野とか――」

「松本ね」

「あ、はい、松本とか、栄村とか」

 なぜか食い気味に訂正が入った。



 もちろん、高校時代の話は覚えてる。

 ま、おいおいね。

 あの観念した感じで息をつく三ツ葉の姿までくっきり浮かぶ。


「高校で一番の物知りだって言ったと思う。他の連中と同じように見られたくなくて、相応の振る舞いをしてたんだよ。要するにイキってたんだ。

 きれいとかこわいとか、ヤベーとかパネーとか、そういうは子供っぽいというか底が見えるっていうか……私には必要ないって認識だったんだ。

 だから感動を伝える言葉を使わないように知識の仮面をかぶることにしたんだよ」


「知識の仮面って、なんか格好いいね」

「格好よくないよ。知識の仮面をかぶるということは、自分を認めないってことなんだからさ。

 日の出を見たとき、きれいだって思えたとしてもだよ、次の瞬間にはただの天文現象だと自分を落ち着けるんだ。単なる地球の自転運動だと。感動する必要性はないんだと。

 そんなのより、日の出がいかにきれいで、いかに好きなのかを伝えられるほうが人としてずっと魅力的だよ」

「そうかなあ……」


「そうなんだよ。今日だって思い知ったよ。依利江の言葉を聞いて、このまちをずっと見てたいって、思えたんだ。知識だけでは行き着けない場所がある。この旅をするきっかけなんだけど――」

「はい、おまちどうさん。岩張楼ラーメン、塩と、正油ね」

 いいところでラーメンがやってきた。

 魚介のしっとりとぬくい香りが、鼻の奥まで行き渡る。


 じゅあ。舌の裏から唾液が溢れ出てきて口内が満たされる。


 わたしたちは目を見合わせた。



「とりあえず、食べよっか」

「そうだね」


 いただきます。

 手を合わせて麺をすすった。

 三ツ葉のカメラはテーブルの隅にちょこんと置いてあった。


「おいしいね」

「ああ。正油も魚介ベースで、あっさりしてるけど味に幅があるな」

「麺は弾力があっておいしい」

「具材はチャーシューと半熟卵と、あと盛りだくさんの海草だ。ワカメとメカブ、この赤いコリコリした海草はなんだろう? あとで店員さんに訊いてみるかな」

「そんなのできるの?」

「当然だよ。これをきっかけにして陸前高田の話を質問するんだ。知る人ぞ知る名産品があったら、ぜひ堪能したいし」

「これも、充分名物じゃないかな……?」

「そうだね。とにかくこの赤い海草、これが気になる」


 わたしたちは思い思いの言葉を言い合った。



「なんか、私評論家っぽいコメントばっかな感じする」

「そう? わたし結構楽しみなんだけど。観洋のアワビとか」


「ああ最高だったねえ。銀のふたを開けたとき湯気と共に伝わる磯野風味がかぐわしくてね。味の調整はバターにレモンだけ。余計なものはなにひとつない。あれはアワビに絶対的な自信がなきゃできない一品……なに笑ってんのさ」


「べっつに」

 三ツ葉だって、充分すぎるくらいの魅力が詰まった感動を伝えられるじゃない。


「ごめんね。私、話しすぎだね」

「ううん。もっと聞きたい。さっきの続きも。旅するきっかけってなんだったの?」

「してもいいけど、あんましいい話じゃないよ」

「聞かせて」


 三ツ葉はスープを二口すすると、レンゲを置いた。

 視線をテーブルのカメラに向ける。



「内山さん。覚えてる?」

 内山さん。聞き覚えがある。

「えっと、もしかして、カメラマンさん?」

 記憶が正しければ、三ツ葉が仲良くしてるプロの人だ。


「そう。内山さんさ、震災直後に行ったみたいなんだ。被災地」

「知らなかった」

「教えたくなかったんだよ」

 ぶっきらぼうに言い放つ三ツ葉から憤りのようなものを感じた。



「最初は純粋にボランティア目的だったみたいだけど、被災者と仲良くなるうちに、その人たちの暮らす風景も収めるようになったみたい。内山さんはプライベートでも二、三年は遊びに行ってたんだってさ」

「なんか、いいね」


「私もその話を聞いて、素敵ですねって伝えたんだ。そしたら内山さん、なんて答えたと思う?」

 スープで口を湿らし、三ツ葉は続けた。


「あんな場所留まってないで、全員移住しちゃえばいいんだよって」

「そんな」


「さすがにそれは間違ってると思ったから、わたしも反論したさ。でも内山さんの考えは変わらなかった。


『あそこに津波が来たのは初めてじゃないんだろう? はっきり言ってあそこは人が住む場所じゃないよ』


 確かにリスク回避の面でいえば正論かもしれないよ。今回の震災はあまりに損失が多すぎた。でも、どうしてそんなことが言えるのか、まして被災者と関わりを持った人間の言うことじゃないでしょ。

 だから、なんとかその理由と、反論材料を掴むために膨大な資料を漁った。結局、知識が増えただけで、納得のいく答えは出なかったけどね」



 三ツ葉の震災知識はここで蓄積されたのだった。

 このまちになにがあって、あのまちはなにを失ったのか。

 記事やニュース、SNS、書籍……黙々と読み漁る彼女の姿がありありと浮かんだ。


「同じ土俵に立たなくちゃダメだって思ったんだ。写真家は現場に出なきゃなにも表現できない。

 でも、もしなにひとつ答えを得られないまま帰ることになったら? ……あるいは、内山さんと同じ考えを持ってしまったら?

 私は私とカメラを信頼できなくなる。だから、依利江を誘ったんだ」


「え、そこで、わたし?」

「依利江は私にとっての初心だからね。自分じゃ気付けないものも、依利江はちゃんと見てるんだよ」



 ちょっと待って。

 初心って、どういうこと?

 そんなふうに言われるの、初めてなんだけど。

 一体わたしがなにをしたっていうの?


「ここへは何度目ですか?」

 突然耳元でささやかれ、わたしは訊くべき言葉をひっこめざるを得なかった。


 店主と思しき男性が脇に控えていた。

 赤い鼻にアロハシャツを着ている。

 にんまりと笑みを洩らしている。


 自ずと緊張が走る。なんだかあの気配を感じるからだ。


高田たかた、初めてです」

 三ツ葉が気丈に応じた。


 その対応はごくごく自然で、なおかつ親しみが籠っていた。たくさんの出会いをしてる人の顔だ。


「それは嬉しいですねえ。高田タガダはねえ、なんもないでしょう?」


 それはわたしが返答に困った自虐的世間話フレーズだった。


「でも素敵な場所ですよ。また来たいと思います」

 間合いもセリフも模範解答だった。

 手練れは違う。

 改めて思う。

 三ツ葉ってすごい人だ。



「あら、初めての方?」

 カウンター席を拭いていた女性店員が話の輪に入ってきた。


「そしたら〈希望のかけ橋〉も見てない?」

「初耳です」

 三ツ葉の受け答えに便乗して頷いた。



 〈希望のかけ橋〉……なんとも陸前高田りくぜんたかた市にふさわしい名をしている。


「ああ、もったいない! すごかったのよお。ほら、こんなのが、市街の頭上に」

 女性はカウンターに飾ってあった写真立てを見せた。

 そこにはベイブリッジのような銀色の橋が山から伸びていた。


「仮設かなにかの……橋ですか?」

 わたしが尋ねると、三ツ葉は俯いて肩を震わせた。


 どうやら三ツ葉は〈希望のかけ橋〉の正体を知っているらしい。

 知ったうえで、コミュニケーションをとるために知らないていでいるのだろう。



 女性は嬉しそうに首を横に振った。リアクションが大きくて、親しみを持てる。


「そんな立派なもんじゃないわよ。これ、ベルトコンベアなんだから。人じゃなくて土を運ぶの」



 〈希望のかけ橋〉は、付近の山を削った土砂を市街中央部に運ぶために利用されたらしい。

 この橋が現在の陸前高田の景観を作り上げたといっても間違いじゃないだろう。

 二〇一五年の秋に運用が終わった。

 トラックの往復で一〇年かかる作業を、二年半で完了させた。



「毎日毎日砂埃がすごくって。どんどん高田タガダも変わっちまってね。ま、なくなっちまったらなくなっちまったで、寂しいかな。お客さんも減っちゃったし」


 女性はぽろぽろと呟いた。

 笑みを洩らしつつも、そこには一切の感傷もなかった。


 ああこの顔だ。



 あのおじさんの顔と重なった。


 そういえば、この女性は三ツ葉がしてた内山さんの話を聞いてるはずなのだ。

 それなのに、店員はすこしも動揺していない。

 わたしたちはどこにでもいる観光客で、女性は観光客用の世間話をしている。


 女性にとっては、これが日常なんだろう。



 わたしにとっての日常はたとえば大学の講義だったり、急行の電車内で三ツ葉とおしゃべりすることだったり、部屋に引きこもってマンガを読んだりすることだ。


 このまちの光景は、あまりに非現実だ。

 巨大な橋が土を運び、土地は荒れ放題で、人の数よりショベルカーが多くて、鳥の声も蝉の声もしない。

 こんなの病気の寝床で見る夢とそう大差ない。


 けど、このまちの人はそうじゃない。

 誰もが日常のなかでかき氷おじさんを飼っているのだ。



φ



 どうやら遅延してるらしい。

 大船渡線盛行一四時四一分発のBRTは定刻を過ぎてもその姿を現さない。


 BRTは電車の代用にはなるけど、電車と同じように走れるわけじゃないみたいだ。


「依利江が羨ましいよ」

 バリケードの先にある、幾重もの盛土を見つめながら、三ツ葉が言った。


「過大評価だよ、それ」

「それはこっちのセリフだよ。ま、お互いのないものを持ってるってことなんだ」

「不思議だねえ」


「依利江はどんな高校時代を送ってたの?」

「え? つまんないよ。絶対つまんない」

「いや、それ判断するのこっちだから」


 だからといって面白い保証はどこにもないと思う。

 三ツ葉みたいにドラマチックでもないし、さわやかでもない。

 わたしのは底辺どろどろだ。


「ほんと、なんもなかったよ?」

 とはいえ、中学の頃できた親友の話は、したいと思った。



 高校で友達ができなかった話と、中学の親友と絶交してしまった話を伝えた。

「……結局学年が変わるまで、その子は口をきいてくれなかったの」


 そしてこの話には続きがある。

 あの子と過ごしてきたなかで一番つらかったのは、むしろここかもしれない。


「進級後のクラス替えで別々のクラスに分かれちゃって、それからは会わなくなっちゃった。でもね、一度だけその子のウワサが流れてきたことがあったんだよ」

「ウワサ?」


「うん。不登校になったって。わたし、びっくりしちゃった。元々気の強い子で、いつもグループのリーダーだったから。

 ただ、話を聞くと、いつもグループのなかにいじめの標的を決めて、みんなでモノ隠したり、ムシしたりやってたんだって。それを続けてたら、今度はその子がみんなから標的にされて、それで」

「不登校に、ねえ」


「なにも言ってくれなかったのが、ショックだった。そりゃ、自業自得だとも思うけどさ、あの子のこと一番知ってるつもりだったから。ちょっとでも相談してくれたら……仲直りして、なにか別の道もあったのかもなって。

 話を知ったときにはアドレスも変わってたし、電話もつながらなかった。あれっきりで、顔も声も忘れちゃった。……ね、つまんなかったでしょ?」


 わたしは自嘲気味に笑った。

 三ツ葉も笑い飛ばしてくれると思ったけど、じっと遠くの防潮堤を眺めていた。

「依利江」

「なぁに?」


「依利江の昔話、初めて聞いたよ」

「え、そうだっけ?」

「そうだよ」


 三ツ葉と出会ってから今に至るまでの記憶をひっくり返してみる。

「……そうかも」

 わたしも同じ結論に辿り着いた。


 もっとたくさん伝えてると思ってた。

 それがなんだか意外だった。


「依利江の自分語りを聞くの、悪くないよ」

「他人の不幸は蜜の味ってね」


「真面目な話だよ。……ただ、正直なところ、どう返せばいいのかわからないんだ。依利江、君にとってその子との記憶は、思い出? それとも、トラウマ?」

「うーん」

 ちょっと唸ってみせたけど、答えは決まってる。


「これは、もう、思い出だから」

「そっか」

 三ツ葉はそれ以上の言及はしなかった。



 車道の隅には砂が溜まってる。

 わたしたちの背後には折れ曲がった電柱が土に埋まってる。


「依利江はさ、依利江の思ってる以上に面白い考え、持ってるよ」

 わたしたちが辿った国道四五号線から、赤い車体がちらっと見えた。BRTだ。


「私の反応なんて気にせず、何でも話してくれて、いいんだからね」

 BRTの奥にある山は深く抉れている。

 やがてそこには復興住宅が建つのだろう。


「依利江も、私も……思い出に囚われてる必要なんて、ないんだから」

 BRTが停車する。


 ああ、三ツ葉とおしゃべりしたくてたまらない。

 見てきたことを、感じたことを、伝えたい。


 同じ風景を三ツ葉はどう捉えてるんだろう。

 なんだかいろんな思いが溢れてきた。



 でも、慌てる必要なんて、ない。


 中扉が開いた。

 大船渡市、盛駅行き。

 ステップを踏みしめた。



 今はこれだけ、言えればいい。


「うん。ありがとね、三ツ葉」


 話の続きは、次のまちで。




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