孤島

 それを聞いてどっと息をはくことができた。


「ごめん、依利江。ちょっと休もうか」

「うん……」


 へたりと三ツ葉の肩に頭を付けると、三ツ葉は髪を撫でてくれた。

 いろんなことがありすぎて、頭のなかが渦巻いている。



 もう生きた心地がしない。

 この気持ちが生きているということならば、これほど心地いいものはなかった。



 夢に浸りながら、わたしは思いの丈を述べた。


「三ツ葉とさ、いろんなまちを巡ってさ、まちごとにいろんな違いがあって、どんな違いがあるのか探すのが好きなの」

「石巻とか、気仙沼とか?」


「うん。石巻はたくさんの人がいて、いろんなチャンスのあるとこだなって思った」

「商店街もあるし、デパートもある。〈カフェ「 」《かぎかっこ》〉とか、だね」


「それで、南三陸町にはホテル観洋がある。市街地は壊滅しちゃったけど、おいしいご飯も広い海も、きれいな部屋もある。外からたくさん来てくれる。

 気仙沼は漁港とリアス・アーク美術館がある。生活の基盤がちゃんと生きてるし、

 それとね、三ツ葉、ずっと伝えたかったんだけど、リアス・アークはすごいんだよ。震災を学芸の目で見てるところ、あそこだけだと思うの。三ツ葉が見たらきっとわたしよりいっぱいの発見をすると思うの。今度一緒に行こうよ」


「そうだね、またあとでさ、聞かせてよ。その美術館の話」

「うん」

「このまちは? 依利江はこのまちについて、どんなふうに思った?」


「絶望のまちって、思った」

「……絶望って」


「違うの。ちゃんと聞いてほしい」


 絶望。

 その言葉の意味を共有した上で伝えたかった。

 普段軽く口にする絶望とはわけが違う。


「わたしさ、絶望ってこう、激しいものだと思ってたの。ベートーベンの〈運命〉みたくドラマチックで、扉をたたくような。

 でも、陸前高田を歩いてみて、激しいようじゃまだ絶望とはいえないんじゃないかって思えたの。どんな天変地異や、人災が起こっても、『もうダメだ』って『おしまいだ』って嘆くうちはさ、絶望じゃないんだよ。今までの希望を失っただけなんだよ」



 わたしは映像で、たくさんの人を見てきた。カメラの先には波があって、かつての住まいがあった。

 失望するひとコマを、まるで食い散らかすように求め、疲れていった。

 当時それを絶望と解釈していたけど、それは違うんだ。



「望みが絶たれちゃったら、嘆く力すら奪われちゃうんだよ。なにひとつ残んない。あのテントでそれを見ちゃったの。絶望に沈んだ人は穏やかでさ、ほほえんでて、自虐的なんだ。三ツ葉、かき氷おじさんだよ」

「そう、なんだ」



「あの人見たとき、どこからも哀しさを感じなかったの。どこからもだよ? 自由の女神やドーナツ屋や、屋台の看板、地面の草だって哀しみだらけだったのに。あの人はなにひとつ哀しさがなかった。

 それを見たわたしのほうが哀しくなってつらいって思っちゃうくらいだったの。あの人は哀しみすら奪われたんだよ。本当はなにひとつ持ってなかったんだ。

 だから……そう、あの人はかき氷を売ってたとばかり思ってたんだけど、そうじゃなかったんだよ。

 あの人は同情を売り物にしてたんだ」

「同情」


「同情はさ、売るほうはなんにもしないんだよ。わたしたちが勝手に抱いて、勝手に伝えたくなるものなんだなって、思ったの。お守りも同じだったんだって。お守りじゃなくて、同情を売ってたんだ、あの人も」


 三ツ葉は閉口して頷いた。肯定でも否定でもない相槌だった。

 わたしには救いだった。



「それでね、あの人『お守り買うと支援になりますよ』って言うんだ。すごくヤな気持ちになった。支援って言葉を穢された気がしたの。『同情してお金を落としてください』って言われてるみたいで。

 でも、支援するって、そういうことなんだよね。お金を使うことがなんとなくうしろめたいから、違う言葉で着飾ってたのを、あの人は見透かしてただけなんだよね。それで――」


 一度、言葉を区切った。

 三ツ葉の横顔をちらと見た。

 視線に気づいた彼女は優しく笑んで話の続きを待っていた。


「それでね、三ツ葉と映画論の授業取ってよかったって、思った」

「どうしたの、いきなり?」

 三ツ葉の顔がしゅっと崩れた。



「物語に触れないままここに来てたら、わたしきっと、このまちを見放してたと思うからだよ。だって、そうでしょ? 普通お守りの押し売りされたら、いやになるでしょ?」

「そりゃ、まあね」


「なのにね、もう一度来ようって、心の底から強く思えるの。ううん、たぶんまた来るよ。何度だって。

 楽しいからとか、出会いがあるからとか、勉強になるとか、そういうのじゃないよ。復興とか、日常を取り戻すとか、未来とか、希望とか、いいとか悪いとか、そういうのとも関係なくてね。

 ただ、いつまでも見守ってたいし、寄り添ってたいって思えるの」


「うーん、そう思うのと映画論の授業、関係ある? 私だって同じ作品観て、感想共有し合ったでしょ。でも同じ目遭ったら、そこまでして行きたいとは思えない」


「薄情だなあ、三ツ葉は」

「いやいや。依利江が特殊なんだよ。あの騒がしかった映画会のなにがいいのか教えてよ」

 冗談ぽく、でも真剣な目をしている。



「授業で見た映画のなかでさ、強盗しながらアメリカじゅうを駆け巡るお話、あったでしょ」

「えーっと、なんだ……。あれか? ラストシーンが壮絶な」


「うん。蜂の巣になっちゃうやつ。マシンガンかなんかで。タイトルが、えーっと」

「たぶんアメリカじゅうを走るんじゃなくて、テキサスが舞台だったはずだよ。アメリカンニューシネマの回で放映されたんだよね。実在の人物をモチーフに、反体制的な人を描いてて、八十七発の弾丸を受けるラストシーンは死のバレエとも呼ばれてて……」


「そうだっけ?」

「そこ、覚えてないんだ」


「三ツ葉こそ、なんでスラスラ出てくるの?」

「そりゃ、私だから」


「そうだね。間違いなく三ツ葉だよ。で……タイトルは?」

「あとちょっとで思い出せそう」


「なんでさ」

「ま、続けて続けて。その映画がどうしたの?」


「なんか、このまちと似てるなって」

「テキサスと? たしかに、荒野が広がってるのは似てるけど」


「それもあるんだけど……主人公とヒロインに似てるのかなって」

「なんだろう、興味ある」


「んと、主人公と女の子の二人が各地で強盗してる途中でさ、彼女が実家に帰るシーン、あったでしょ」

「あったかなあ」


「あったの! なんでそういうところは忘れちゃうの、三ツ葉は!」

「あったあった。もみがらの山があったよね」

 三ツ葉はあの映画をストーリーではなく、構図で記憶してるみたいだった。



「そこでさ、女の子はお母さんから見放されちゃうじゃない」

「そんな気がする」


「観てるときは、なんて冷たい母親なんだ、って思ったけど、まあそうなるよね。強盗だっていけないことなのに、逃亡中に警官をたくさん殺しちゃってるわけだし。

 やってることは悪いことだけど、二人は二人なりのポリシーがあってさ、貧しい人からは人気があったりね。

 でさ、観てていつの間にか二人が幸せになってほしいって思っちゃってたんだよね」

「観客は強盗してるとこ以外の二人の姿も知ってるからね、憎めなくもなるよ」


「そう、憎めなくなる。

 もしもさ、三ツ葉、どっかの動画サイトでラストだけ……警官の一斉射撃を喰らって絶命するとこだけ観たとするよ。そしたら、ただオーバーキルしてるとしか思えなかったろうし、それ以上の感情は出てこなかったと思う。

 二人のこと、わたし知ってるからさ、画面が暗転するまでの一分が、かけがえのないものに思えるの。大切な友達を失ったような、走馬灯を辿るような、そんな気分。

 それで……このまちも、おんなじだなって」



 映画の主人公がこのまちで、わたしは観客なのだ。


 現実に結末なんてものは存在しないのかもしれない。

 それでもわたしは、わたしの望む結末を求めて主人公を追い続けるのだ。

 追い続けて、しまうのだ。



「依利江、思い出したよ。映画のタイトル」


「なんだっけ」

「『俺たちに明日はない』」


「あすは……ない」

「二人がどんなに足掻こうと、明日を描こうと、黒背景に〈The END〉が出たら、その作品は、おしまい」



 あるいは、わたしの願う結末は八十七発の銃弾と共に消え去ってしまうのかもしれない。

 あの映画が実話を元に描かれているのと同じように。



「ただ、私はそれで終わりじゃないって思ってる」

 三ツ葉は言葉を選びながら腕を組んだ。


「陸前高田の話に戻っちゃうけどさ、依利江の言葉を借りるなら、陸前高田市は絶望の孤島だよ」

 彼女はそう切り出した。



「高田は、海沿いは気仙沼市と大船渡市、内陸側は住田町と一関市と隣り合ってるんだ。気仙沼市や大船渡市のように良質な漁港もない、住田町のように林業に強いわけでも、一関市のように交通の便がいいわけでもない。

 自慢できるのは、高田松原くらいだったんじゃないかと思うんだ。日本三大松原だって言えるくらい、誇らしかったんだと思う。でも、あの日を境に、一本の松を残して失ってしまった。

 かつての故郷も土に埋もれ、山は削られ、人口は流れ、お金は消えてって、これからどうなってくのかってときに、生き残った一本松すら死んでしまった。もう、どうしようもないよ」


「絶望の孤島」

 その言葉を噛みしめる。


 どうしてあの松をモニュメントにしてまで遺そうとしているのか。なんとなくわかったような気がした。



「依利江。私思うんだ。映画と現実は違う。違うからこそ、明日はあるんだよ。ノンフィクションにいる、私たちにはさ」

「三ツ葉……」


「わかるよ、依利江の気持ち」

 わたしの頭を二度、ぽんぽんと叩いて彼女は言った。

「世間がなんと言おうと、私は寄り添うよ。依利江も、そうなんだよね?」


 もう言葉はいらなかった。

 頭を彼女の頬にこすり付ける。

 それだけで伝わる。



 奇跡の一本松はただそこにあった。


 そこにあるのは偶像モニュメントでも偽物レプリカでもなかった。

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