陸前高田市篇

奇跡の一本松と被災地

モニュメント・バレー

 現代映画論、という授業があった。


 午後のふたコマを使って名作映画を観る。ただ観てちょっと感想を書くだけで単位が取れるから、大学で遊びたい人たちはこぞって取っていた。



「私取るけど、依利江はどうする?」

 だから三ツ葉が問いかけてきたとき、驚いた。三ツ葉は単位取得を理由にカリキュラムを組むような人じゃないと思ってたからだ。


 もちろん、誘いには乗った。



 現代映画論の講義は案の定騒がしかった。

 作品上映中はさすがに誰も声を出さないけど、それ以外はどこかしらがざわついていたし、上映中もスマホのライトがぼんやり点灯していて目についた。

 それ以降最前列がわたしたちの定位置になった。



 講義のあと、凝った首を休めつつ、観た作品についてあれこれ感想を言い合うのが恒例になった。

 主人公の相方の表情がコミカルだったとか、スタッフクレジットが凝ってるとか、サスペンス映画の神様だとか、教授の受け売りめいたことしか言えなかったけど、三ツ葉は違った。

 この監督はローポジ撮影に情熱を注いでいるだとか、人物をぼかし景観にピントを合わせることでテーマを主張させてるとか、あのシーンは広角でどうのこうの、きついパースだけど演出的にいいだとか。


「パースってなあに?」


 尋ねると、答えの代わりにカメラを向けられた。

 わたしは慌ててピースを決める。


「そういうのいいから」


 ちゃっかり演技指導が入って、お腹の上で手を重ねた。ちょっと左半身を引いて立つのはわたしなりの抵抗だ。


 撮られた写真は、わたしが真ん中になっていて、画面端に大学正門の門柱が立っていた。正門から続く一本の通りが画面奥の二号館へ吸い込まれていくような感じがした。


「道が収束してる感じするでしょ? 厳密にいうとややこしくなるからあんまし言わないけど、これがパース」

「遠近法ってやつ?」

「あ、知ってたんだ」

「中学んとき美術でやったよ」

「ならそう言えばよかった。わざわざ撮る必要なかった」

「いやいや。ねね、あとで送ってよ」

「はいはい」


 三ツ葉はため息を洩らしてイチョウ並木を歩きだした。


 その背中がどう思ってるかは知らないけど、わたしはこういう一枚が好きだったりする。あとで見返したとき、三ツ葉の顔まで思い出せるからだ。


 そういえば写真を取り扱う授業は、大学全体の科目を探してもなかったんじゃないかと思う。だから三ツ葉は現代映画論を取ろうと思い立ったのかもしれない。




 あの講義で取り扱った作品の一つひとつに、三ツ葉ほど強い思い入れはない。ただ、陸前高田の地に降り立って、ふとスクリーンに映る荒野を思い出した。


 からっとした深い青空。

 一点図法のお手本のような、テキサスの砂漠にのびる一本の道。

 主人公の運転するフォードの四駆が砂塵を飛ばしながら激走していた。

 誰もいなかった。運転席の主人公も、助手席に座るヒロインも、鉄の塊の一部分のような感じがした。

 もちろん路肩にも、砂の上にも、人の影はない。




 その光景が今、目の前にあった。


 ここはアメリカ南部ではない。

 バス停には〈奇跡の一本松〉と書かれている。

 東北地方、岩手県、陸前高田市。



 生まれて初めての岩手県は、荒野だった。

 夏の日差しの下、道路のダンプトラックと乗用車だけが動く世界だ。

 BRTを降りて、カバンの持ち手を担いだ。

 アスファルトの歩道がじゃり、と音を立てた。

 砂埃が薄く層になっていて、本来黒いはずのそれが白く染まっている。


 彼方に蒼い山がそびえ、その背後に大きな入道雲が灰色の陰を滲ませていた。


 目新しいものはそれだけだった。

 山の手前のセイタカアワダチソウやかさ上げされた大地は、気仙沼駅からの道中いやんなるくらい見せつけられた。


 目を逸らしたくなる光景だけど、他じゃ見られない光景でもあった。



「なんにもないね」

 自身の口から洩れたのは、これ以上ないほど意味をなさない言葉だった。


 だって、本当になにもないのだ。

 似たような風景は南三陸町で見た。

 志津川駅からホテル観洋へ至るまでの道だ。骨組みだけの防災庁舎に盛土、敷設途中の道路、白いアスファルト……。


 でも、あそこで感じた「なにもない」とここのはどこか違う。

 心のざわつき方が違う。

 ただ、どこが違うのか、そこまではハッキリとしなかった。



 三ツ葉は愛用の黒色カメラを手に、ファインダー越しにこの世界を覗いていた。

 アーミーグリーンのタンクトップにダークグレーの登山帽をかぶっていて、なんだか保安官みたいな後ろ姿だった。

 そよ風と共にぱし、ぱしとシャッターを切る音がする。

 無言で。

 それはいつもの光景だった。いつも通り、三ツ葉は旅を続けている。


 三ツ葉はこの世界を見て、どんなこと思ってるんだろう?



 このバス停は丁字路の一角にあった。

 内陸へ伸びる国道三四〇号と海沿いを走る国道四五号がぶつかる場所だ。

 広めの駐車場と、駐車場のスペースにしてはこじんまりとした長屋のような建物がひと、ふた棟ある。オシャレなダークオーク色から察するに、震災後建てられたものだと思う。


 新築か否か、色で判断しているように思えたけど、きっと便宜上そうしてるだけで、本当はそうじゃないんだと思う。


 だって、ここには「なんにもない」からだ。


 震災以前からそのままのものなんて、なに一つない。どこもかしこも……きっと今立ってる歩道ですら、仮設で敷かれたんだと思う。



 気仙沼の美術館で見た写真を思い出す。砂利で埋もれかかったガードレールのすぐ脇をアスファルトの道が通っていた。

 地震で地盤が下がっているから、腰くらいまでかさ上げして道をつくらないと簡単に潮で溢れてしまうのだ。


 このまちも同じだ。歩道から少し外へ逸れると白く干からびた地面が続いている。かつては田んぼだったのか住居だったのか駐車場だったのかすらわからない。


「なんにもない……」

 また同じことを言ってしまった。


 人がいない。わたしと三ツ葉しかいなかった。

 駐車場にはちらほらと車がある。

 かさ上げ中の盛土の上ではショベルカーがあくせく動いている。

 なのに、人の気配がない。


 だから注意を引こうと、横断歩道の手前にある背中に向かって、独り言めいた語りかけをしてたのかもしれない。



 じっと見つめていると、三ツ葉はカメラの覗き窓から目を離した。

 首を抑えて空を仰ぎ見、それから盛土だけの世界を見渡した。


 目が合う。

「すごいね、依利江」


 三ツ葉は口を開いた。

 なにがすごいのかよくわかんなくて戸惑っていると、三ツ葉はかさ上げされた土地をぐるりと見渡して続けた。


「ここから見えるどこまでもが中心市街地のあった平野だよ。三陸海岸最大級らしい。同時に平野部のすべてが津波浸水区域だ」

 市の中心。

 土木用土砂置場だと言われたら信じたかもしれない。


 信号が変わって、列をなしていたトラックが動きだした。

 ここに市街地があったなんて誰が想像するだろう。ここに人の暮らしがあったとは考えられない。



 信号待ちをしていた車がきれいさっぱり流れると、静寂が訪れた。


 認識できる静寂だった。音はあるんだけど。

 遠くで鳴る短めのクラクション。トラックに土砂を盛るショベルカーが、満載の合図に鳴らしてるものだ。


 けど、このまちは大切な音を失ってしまったような、そんな気がした。



「依利江、どっか行きたいところはある?」

「え、行きたいとこ?」

 ここに何があるのかな。どこを行っても同じ光景が続くだけな気がする。

「特に、ないかな」


 逆に何があるのか知りたいくらいだ。

 なあんて思ったところで、このまちのシンボルを思い出した。


「高田はそんな長く滞在できないから、まずは奇跡の一本松を見に行こう」


 過去テレビで見た映像が出てくる。大抵の震災ドキュメンタリーのオープニングに登場してそうなイメージがある。入り日色に染まった空に向かって伸びる一本のシルエット、みたいな。



 たしか、あの松は海岸沿いの松原に生えていたものだったとどこかで聞いた。

 松原は市街もろとも波で壊滅しちゃったけど、一本だけ残った。

 まさに奇跡的生存だったからか、人々から〈奇跡の一本松〉と称されるようになった、とか。


 乏しい知識はこのくらいだ。



「で、その一本松はどこにあるのかな?」

 尋ねてみると、三ツ葉は困った様子で周囲を見渡していた。

 この付近には一本松と思しき姿がない。

 それどころか地面から生えるのは人工物ばかりで、細くて頼りない電柱が道路沿いに伸びていた。


 木なんてもの、どこにもない。


「海側だと思うんだけど……あ、看板がある」

 三ツ葉は歩行者用信号の足下に立てかけられた案内板を指さした。


「ここから一五分くらいだって」

「じゅ、じゅうごふん?」

 意外と遠い。心なしか荷が重くなったような。


「うん、片道ね」

 さらっと追い打ちを喰らってたじろぐも、希望を失ってはいけない。


「ロッカールームは、ないんですか?」

「お土産屋はありそうだけど、この感じ、なさそうだね。平気平気、観洋より短いし、坂道もないしさ」


 そりゃ、あの六〇分トレッキングと比べたら大抵楽勝だ。

 でもその感覚は狂ってるし、三ツ葉はわたしのことをちっともわかってない。



 足回りを比べてもらいたい。三ツ葉は登山で履いてもおかしくない全天候型ローカットブーツ。

 対するは冬に履いてもおかしくない合皮ハイカットブーツ、靴擦れプラス。


 さらに軽装を究める三ツ葉はジーンズショートパンツにタンクトップというウエスタンな出で立ちだ。

 わたしはオシャレをこじらせギンガムチェックのスカートと白ブラウス、さらになんと青色サマーカーディガンのオマケ付きなのだ!


 参考に買った雑誌を恨みたくも思ったけども、よく考えるとあれは都会のオシャレさん向けの雑誌だった。

 だから雑誌は悪くない。アウトドア知識の貧しい自分が悪い。


 メッシュハットを新調したとはいえ、わたしの着こなしは真夏日の真昼間を歩いちゃいけないものなのだ。



 三ツ葉はこれを理解してなお『平気平気』と言えるのだろうか?

 志津川市街を歩いたとき、若干の熱中症になったんだっけ。

 セイタカアワダチソウがザワザワいってて、疲れもたまって、愚痴を洩らして……。


『依利江は依利江の見たいように見ればいいんだよ。苦しかったら頼っていいんだから』

 あのときはそう言ってくれた。


 まあ、さいわい今はそんな喉渇いてないし、もしもまずくなったらちゃんと言おう。そう思った。


 三ツ葉はちょっと早歩きだった。さっき長く滞在できないって言ってたし、BRTの都合なのかもしれない。

 今日は遠野に泊まるらしいし。


 まあ、なにはともあれ、観光地を歩くんだから、死ぬことはないだろう。わたしだって一本松、見たいんだ。



φ



 横断歩道を渡って国道沿いの道を歩く。

 人気のないまちの――この空き地一帯をまだ〈まち〉と呼んでいいものなのかは別にして――地面すれすれのところを、満身創痍の息遣いというべきか、悲愴感のようなものが漂っている。

 浸水区域特有の感覚だ。

 三ツ葉は道の先をまっすぐ見つめていた。


「なんかさ」

 わたしはその横顔に向けて呟いた。


「どうしたの、依利江」

「いや、改まって言う必要もないんだけど……」


 実際、あえて言うようなことでもなかった。

 陸前高田市に降りてから感じることを、ただなんとなく思いつくまま口にしたい欲求に駆られたんだ。


「ここは不思議な感じのするとこだね。音がない感じっていうか。あ、もちろん音がないっていっても、足音とか、車が走るのとか、そういうのはあるんだけど」


 三ツ葉は小さくふうん、と唸ってから口を開いた。

「でも南三陸町もこんな感じじゃなかった?」


「んー」

 確かに似てると、最初思った。


「でもなんか違う気がする。あそこはもっと、いろんなのがざわざわしてたと思うな。わたしはそうじゃなくて」

「あのときはおじさまがいたしね」

「あ、うん、そうだったね。道案内してくれたよね」

「志津川のワカメがおいしいって教えてくれたんだ。元気してるかな。三日前になるのか」

「なんか、ずっと昔に思えるね」

「こんな懐かしく思うなら、もっといろんな話聞けばよかった。例えば――」

 胸の内側がむずむずする。

 言葉がかたちになる前に話題が移ってしまった。


 どうして音がない感じがするんだろう。そのない理由をどうにか見つけ出したい気もする。

 でもわざわざ話を引き戻すほどでもないから、三ツ葉の話に耳を傾けることにした。

 正直、わたしはあのおじさんのことをよく知らないのだ。

 おじさんと聞くと、かき氷を思い出してしまう。



 歩道は国道から逸れて海側へ折れた。

 左右はトラ柄のガードフェンスで区切られてて、檻のなかにいる感じがする。


 フェンスの外側には痩せ細ったセイタカアワダチソウとチカラシバが覇権争いをしている。

 チカラシバというのは強そうなネコジャラシ、と言えばわかりやすいと思う。

 ここではススキやアワダチソウと同じくらい見かけるから、さっきBRTのなかで調べてしまったのだ。



「お、見えてきた」

 何度か右折左折を繰り返し、テントを組んでできた売店の角を曲がったところで、三ツ葉が正面を指した。

 見覚えのある陰があった。


「一本松だ」

 目的地が見えると気持ちが楽になる。


「向こう着いたら休憩したいな。汗かいちゃった」

 帽子を脱ぐと浜風が額に当たって気持ちがいい。

「そうだね。到着したら飲みもの買おう」

 三ツ葉は頬を伝う汗を輝かしてほほえんだ。

 汗すら化粧になるんだから、美顔はいいなあ。羨ましい。



「さっき売店があったからそこで買えばよかったのに。飲みものあったと思うよ」

「わかってないなあ、依利江は。ああいうとこの店は大抵ぼったくりだよ。石巻で引っかかったでしょ」

「ああ、まあ……」


 欲しくもなかったかき氷を成り行きで買ってしまった。

 片脚を失った自由の女神の音、あれが被災地を初めて意識した音だった。



 から、から。



 ああ、だからなのか。


 ひとりで勝手に納得してしまった。


 このまちが静寂に包まれているのは、あの音がいたるところまで響き渡ってるからだ。

 案内板や舗装路やバリケード、もちろんあの一本松にも。



「依利江って奇跡の一本松のこと、どれくらい知ってたっけ」

「どれくらいって? 松原で唯一残ったって話?」


「そうそう」

 三ツ葉はちらりとこちらを見てポーチを撫でた。

 続きを促してるみたいに見えるけど、なにかあるのだろうか?

 首をかしげると三ツ葉は小さく息をついた。



「奇跡の一本松は、津波から生き残った。確かに生き残ったんだけどね、一年後にはもう枯れてるんだ」

「え」

「枯死。海水に浸かってたから」

「え」

「根が腐ったとも、潮にやられたとも言われてる」

「え……じゃあ、あれは?」

 正面にある、そのまっすぐに伸びた〈一本松〉を示し、尋ねた。

「あれは、なんなの?」


偶像モニュメントだよ」

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