折れない心
当時ニュースになってたと思うんだけど。嬉しい内容ではなかったかな。保存作業に一億五千万円かかるってさ。震災遺構はお金かかるんだよ。ほら、気仙沼の共徳丸はモニュメント化を断念したって、昨日言ってたでしょ。保存維持費を考えたら被災者の支援に回すべきだってコメンテーターが。……
それは蛇口の水みたいに三ツ葉の口からざぶざぶ溢れ出た。
知識の仕入れ先はどこだろう。そう思うほど細かいとこまで触れた語りだった。
相槌を打つ間もなく、わたしは歩いた。
松を模した碑は橋を渡った先にあった。
シンボルを中心にした半径二、三〇メートルの広場になっている。
碑の足下に赤みかげの石でできた解説がある。
奇跡の一本松
The Lone Miracle Pine
――東日本大震災津波は、東日本各地に未曽有の被害をもたらしました。
――市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
――海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
――この保存事業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。皆さんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守り続けます。
ここには、世界中の奇跡と希望と想いが集約しているのかもしれない。
周辺は地盤沈下のせいか沼になっていて、緑色の水草が泥にこびりついていた。
広場の奥にはレモン色の建物がある。一階部分が潰れていて、使い古したクッションみたいだった。
その背後に白い壁がある。防潮堤だ。海は見えない。空にくっきりした入道雲が浮かんでいる。
ここは、人工物と被災物と自然と風景、それに概念や思惑や感情を絡み合わせた空間だった。
その中心にあるのが、このモニュメントだ。
〈それ〉を見上げるには、多少の勇気がいった。
見上げたら、ここにあるなにもかもを受け取らなきゃいけないような気がした。
こぶしに力を籠めて、わたしは像を見上げた。
ぽつんと直立するそれは、なんだかおっきく感じた。
ただそこにあるだけだった。
なにかわたしは、大切なものを見落としてるような気がする。
カバンをベンチに置いて、ぼんやり自問自答した。
これが抜け殻であることを知る前に、どんなことを考えてたっけ……。
こういうときに限って思い出せなくなる。思い出せないってことは、大したことじゃなかったのかもしれない。
そう、改まって思い直すほどのものじゃない。わたしが考えることは、大抵必要ないものなんだから。
でも――
「休憩しよっか」
思索は三ツ葉によって遮られた。
あとちょっとのところでゴール地点かスタートラインに立てそうだったのに。
まあ腹を立てる筋合いはない。そもそも休憩を提案したのはわたしなんだから。
「なんか、自販機、なくない?」
言われて気付いた。この広場には自動販売機がなかった。
「バス停んとこの駐車場で買っとけばよかったね」
ベンチに腰をかけて返事をした。
三ツ葉はそうだねと言ってボーチからカメラを出してレンズを替えていた。引き返すという選択肢はなさそうだった。
よっぽどこのモニュメントに思い入れがあるみたいだ。
わたしはいいかげん水をとりたい。三ツ葉の三倍くらい汗を流してるんだから当然だ。
「撮ってる間にテントで買ってこよっか?」
「いや、いいよ。撮るとこ撮って、駐車場で買えばいいんだし」
「わたしの喉が限界でさ……。ほらここ、ちょっと砂っぽいから、前歯パサパサになっちゃってるの。ぱぱっと行ってくるから、三ツ葉のもついでに」
「そう? じゃあお願いしちゃおっかな。アクエリ……いや、一番安いのでいいや。あとはお任せで」
「ん、任された。荷物、見ててね」
「了解。ま、誰も来そうにないけど」
なんて会話を交わして、元来た道を引き返した。
φ
テントまで心なしか早く到着した。
路地の脇に組まれたテントの隣に発電機が置いてある。駆動音に合わせて石油の香りがした。
中年の男女がパイプ椅子に座っていて、ラジオが流れていた。
長机の上には保冷用のスチロール箱と売り物と思しきアクセサリーが置いてあった。
アクセサリーというのは木目調の四角いストラップキーホルダーで、シンプルでスタイリッシュな感じだ。
「あらいらっしゃい」
近づくと女性が立ち上がった。
花柄の園芸用フードハットをかぶっている。
「あの、飲みもの、ありますか?」
「ええ、こちらにありますよ」
女性はスチロール箱からペットボトルを取り出した。
ハーフサイズのお茶からシトシト水がしたたっている。
箱のなかにはたっぷりの水が入っていて、飲みものが浮かんでいた。
よく見ると透明の氷もあって、小波にゆられながら光を跳ね返している。
「あの、ちなみにおいくらですか?」
アクエリがあるか探しつつ女性に尋ねた。
お茶がメインで、他は炭酸飲料が少々。スポーツドリンクの類はなさそうだ。
「小さいのが一二〇円で、こっちの、普通の大きさが一六〇円よ」
五〇〇ミリポトルを取り、女性はタオルで表面の水滴を拭った。
値段を上げてるわけじゃなくてよかった。手間を考えると、むしろ良心的なんじゃないかな。
「観光?」
「あ、はい。いろんなとこ、巡ってるんです」
「なんもないでしょ、ここ」
女性は世間話の口調で言った。
その言葉はきっと、どこの田舎でも耳にするフレーズなのだろう。
でも、ここでの「なにもない」は他とはワケが違う。
「あ、じゃあお茶ください、小さいの」
場を濁しつつ、愛想笑いを浮かべた。
「はいはい、二四〇円ね。ちょっと待ってくださいね」
言及されることもなかった。
女性は水中からペットボトルを引き上げると、水滴を丁寧に拭った。
その間にポーチから財布を出すと、硬貨を二枚探す。
「お嬢さんは、どこから?」
声をかけられたのはそのタイミングだった。
顔を上げるとテントの奥に控えていた男性が、長テーブルを挟んで正面に立っていた。
額に手ぬぐいを巻きつけ、顔も腕も真っ赤に日焼けしている。
にんまり笑みを洩らすと黄色い歯と抜けた犬歯の隙間がちらりと見えた。
「神奈川です」
「神奈川。でしたらお守り、いかがです?」
男性は木のストラップを二つ三つ手に取り、見せてきた。
ごつごつ、黒ずんだ手のひらだ。
お守りと呼ばれたそれには〈陸前高田〉〈奇跡の一本松〉という焼印がされていた。
「津波で倒された松の木を使って、私たちがひとつひとつ丹精込めて作ったんですよ。お守りです。これを付けていれば、一本松のように夢が折れることは、決してありません」
男は澄みきった目で言葉を並べた。
どうもお守りのようには見えなかった。
倒木を使っているのに、折れることはない……。
「えっと、わたしは」
女性の姿が見当たらない。
ラジオの音と発電機の臭い。口がぱさぱさする。
明らかだった。
再来だ。
間違いない。
人は違えど、かき氷おじさんの再来だ……。
さすがに二度目となると身構えてしまう。
いくらなんでも謳い文句が怪しすぎる。
「別にお守りとしてでなくてもいいんですよ? アクセサリー感覚で身に付けることだってできます」
男は松の木片をひとつつまむと、紐の部分を持ってぷらぷら揺らした。
「たとえばお嬢さんのバッグ、似合うと思いますよ。ほら」
バッグに伸びる手――反射的に半身引いた。
「買うつもり、ないです……!」
声を上げてバッグポーチを抱きしめた。
飲みものの会計が済んでたらすぐさまここを立ち去っていただろう。
三ツ葉が待ってるんだ。
おばさん早く渡してくれないから。
なにしてんだろう。
どこに。
……本当に、本当に飲みもののことだけだろうか。
ここに来たのは三ツ葉からお願いされたからじゃない。
わたしが望んで来た場所だ。
かき氷おじさんと会うことを望んでいたのだ。
あの人なら、わたしのうやむやな思索に答えを与えてくれるはずだと。
「そう言われましてもねえ」
言葉の上では男は困惑しているように聞こえる。
けど、口振りからは奇妙な落ち着きが滲んでいて、表情は波一つない水面みたいなほほえみを浮かべていた。
「このお守りを買うだけで支援になりますよ」
図らずも「え」と息が洩れ出た。
「売上げの一部が奇跡の一本松の維持費に使われるんです。募金は敷居が高いとお思いでしょう? でもこのお守りなら気軽に支援できるんですよ。ストラップとしても使えますし、一石二鳥です。値段もワンコイン五〇〇円で、お手頃だと思いますけどね」
男の透明な眼差しはわたしの瞳の奥を見つめていた。
ひと呼吸置いて激しい拒絶の感情が押し寄せてきた。
せめてほんの少しでも取り繕ってる姿が見え隠れしていたら、こんな思いをしなくてよかったと思う。
男は機械的な売り文句を連ねている。
ストラップなのかお守りなのか。
お金が欲しいのか。
なんだかよくわからない。
そのくせ、そのことに一切の疑問を抱いてないような、開き直りとも思える面持ちをしている。
こんなに不快を感じる人は初めてだ。
そもそもわたしは人をイヤになることなんて滅多にないのに。
なのに、この人は気持ち悪くて、ひたすら、気持ち悪い。
「お待たせしちゃったわね」
男の背後から女性が現れた。
白いビニール袋にお茶が二本入っている。
「お守りって、なんですか」
袋を受けとり、お礼すらしないで男の顔を見て投げかけた。
「奇跡の一本松みたいに折れないって。だってもう、一本松は――」
「ええ、そうです、一本松」
対して男は答えた。
「お嬢さん、いかがですか、倒れない心、奇跡の一本松!」
男は壊れたラジカセみたいに繰り返した。
終始穏やかな顔で語る。
わたしはその場をあとにした。
φ
息を荒げながらモニュメントへ向かう。
気が
不安になったり感動したり、泣いたり腹を立てたり。
旅をして感情的になってる自分に感心すら覚える。
鈍くなった感情にこびりついてた錆が、ぺりぺりと剥がれてく心地だった。
中学や高校のときのわたしが見たら、きっとびっくりするだろうな。
なんせ、わたしは自分を埋葬させて生きてたんだから。
――友達ってなんだろう。
高校のとき、人と仲良くなるたび、遠くからこの問いかけが降ってきた。
寸前まで目の前の子と無邪気に笑ってたのに、途端に笑顔が不自然なものでないか、気になってしまう。
悟られたくなくて、グループの子たちの表情を窺っていたと思う。
まばたき分の先を読んで、輪が笑いそうだったら笑って、驚きそうだったら驚いて、同情の空気が漂う寸前に「ひどかったね」って慰める。
全部、みんなと同じ考えを持ってるって表明したかったんだと思う。
当時は見捨てられまいと一生懸命でそんなこと考えもしなかったけど、今ならそう振り返られる。
必死だったのは、輪のなかでただの一人も「標的」を作っちゃいけないことを知ってたからだ。
敵がいれば結束は強まる。けど、際限がない。
的がぼろぼろになったら、また新しい的をこしらえなきゃ、いつかグループは自壊する。
いつ自分が的になるのか……怯えながら笑い合うなんて、友達とは呼べない。
友達ってなんだろう。
心の底にすまうなにかが、また囁いてくる。
でも、囁いてくるだけ。それだけ。それ以上のことはしてこない。
だからわたしさえどうにかすれば、万事うまくいく。
わたしさえアンテナを張り巡らせて、適切に立ち回って、耐えれば、それでいいんだ。
高校生活は、そうして終わった。
所属したグループが崩壊することはついになかった。
これも中学でできたあの親友のおかげだ。
モニュメントのある広場までもう少し距離がある。
袋からお茶を出した。
自分のは、濃い緑茶だ。
中学時代を振り返るにはちょうどいい。
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