金港館、二泊目
我が家同然の宿より。ひょいと足を上げる。その問いに、見てない。
二泊目だと、古びた旅館も我が家同然の心地がする。
大きな風呂釜も、背の高い天井も、じんじん熱いお湯も、心も肌もすんなり馴染んでくれる。
使用後の風呂椅子と洗面器とその他周辺を水で洗い流し、タオルで全身の水気をくまなく拭き取り、浴衣をまとう。
肌が乾燥しきらないうちに踊り場にある洗面所で化粧水と乳液を付け、お手洗いを済ます。
身体はまだじわじわ温かかった。すこし夕涼みをしようと、玄関へ続く階段へ降りた。
先客がいた。彼女は窓よりの式台に腰を掛け、外をぼんやり眺めていた。
「女将さん、こんばんは」
「あら、お風呂ですか」
「ええ、今上がりました」
「湯加減どうでしたか?」
「気持ちよかったです」
女将にはずいぶんお世話になった。
「女将さんも夕涼みですか?」
明日の朝にはこのまちを離れるけど、もうすこしお話したくなって、階段の最下段に腰をかけた。
「まあ、そんなところです」
女将はそう答えて、また外を眺めていた。
「よく、こうされてるんですか?」
「いえ、最近はほとんど」
景色も、すっかり変わってしまいました。言葉を洩らした。
「私が嫁いだころは、国道に船乗りさんがいっぱいだったんです。ひしめき合うくらいに。遠方はるばる、三重県から漁船に乗ってカツオを獲りに来た人もいたし、外国人も大勢来てましたよ。
服装もね、すっぱだか。なんですか、ふんどしですか、それだけ。私は怖くて外歩けなかったもの。それに、うちにも船乗りさんがたくさん来てね。ちょうどそこで」
指さしたのはわたしの足元だった。思わずひょいと足を上げてしまった。
「陸に上がったら、たくさん飲んで、騒いで、それで……旅館に泊まるんです」
二、三ヶ月滞在する漁師も少なくなかったらしい。大勢の漁師が這いつくばるようにして旅館に入るさまを想像した。
一升瓶を抱え、生まれたままの状態で廊下に転がる。酒と磯と汗の香り。
ふと、気仙沼一日目に駅から歩いてきたとき目にした旅館は、このときの名残だったんだと思った。
あのなかには既に潰れてしまって建物だけ残ってる旅館もあるだろうし、それに、波に呑まれて消えてしまった旅館だって。
「それが、あるときふっといなくなってしまったんです。本当に、ぱたっと。歩いてご覧なさい。船乗りなんてどこにもいやしないから。いるのは年寄りばっか。次男三男はみんな東京や仙台に行っちゃって帰ってこない。
長男はみんな独身。どうしてだろうねえ。ここらへんのほとんどの長男が独身なの。どうしてだろうねえ。『今いくつになったの』って訊くと『四十、五十』ってね」
「不思議な話ですね」
「ま、うちの若旦那には若女将がいるし、息子や娘もいますけどね。でも、どこも跡取りがいないの。漁師がいないで、子供がいないで、お客もいないで、寂れてって……。それで、追い打ちをかけるように」
あの日がやってきた。それは言わずとも共有できる。
「ここはうちの旦那……もういないんですけどね、その祖父が建てたんです。津波が来ないように高台にね」
しかし、水は台所まで及んだらしかった。台所とは女将の座る玄関の背中側にある、番頭室のことだ。
「女将さんは……大丈夫だったんですか?」
「私ですか? 私は、幸か不幸か、見てないんですよ」
「見て、ない?」
「はい。奥の稽古場にいましたから。最初の揺れがあって、それからも続いてたでしょう? だから収まるまでお弟子さんたちとおしゃべりしてたんです。ここは高台ですから、波も来ることもないでしょうから、皆さんお茶でも飲みましょうか、なんて」
「はあ」
「そしたら若旦那が早く来いって怒りだして。その怒り方がただごとじゃなくてね。だから服を着替えて行ったわけです。そしたらもう玄関は片されたあとで。
私の履物はもちろん、お弟子さんたちの履物もみんななくてね。おじいさんがきれいにしてましたよ。そのときはまだ津波が来たなんて信じられませんでしたけど、でも玄関前の車がないもんだから、パニックになって」
いつも通りのはきはきとした口調だけが現実のものであることを示していた。きっと、たくさんの旅客に同じことを話してるんだと思う。とても流暢で、くっきり当時を想像できた。
お茶を飲むくだりなんて、とても壁一枚隔たっただけの話じゃないように思えた。
すこしでも波の気分が違っていたら、わたしはこの人と話すことさえできなかったかもしれない。ここに泊まることすらできなかったかもしれない。そしたら夕食の弁当と出会うこともなかったし、リアスアーク美術館とも出会えなかっただろう。そしたらなにも知らないまま、このまちをあとにしていたと思う。
これほど出会いに強い感謝を抱いたのは初めてだった。
同時に、こうでもしないと感謝できない自分自身の想像力のなさが悔しかった。どんな人とだって、知り合えたら感謝の思いを噛みしめていいのに。
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