女将の嘆きとそれは結びつく。近所づきあいの当たり前。夜はまた更けゆく。

 女将は三月三十日まで市役所で寝泊まりをした。そのときのストレスと食糧不足から体重は十五キロ落ちたらしい。


「このまちもずいぶん変わってしまいました」

 女将の調子がすこし落ちる。

「国道より向こうは、新しい商店街になるみたいです。海岸には防潮堤が造られるようで。わたしは見届けることはできませんでしょうが、海が見えないんじゃ、誰がここに来ますでしょうか。

 津波はありますけど、海があって、大島との連絡船がのんびり浮かんでる……その眺めがいいんじゃありませんか」


 ヴェネツィアに学びなさい。

 あの言葉が語りかけてきた。文化か経済か。それとも、経済は文化である、なのか。


 このまちは果たしてヴェネツィアになれるのだろうか。女将の悲哀は文化のひと雫に溶くことができるだろうか。

 わたしは、なかなか思いを口にすることができずにいた。


「ここらの人は、みな山へ行ってしまいました……」

 諦めをはらんだ女将の嘆きが、心に深く沁みた。


「あんな高いところへ行ってしまって。仙人にでもなるんでしょうか。みんな、戻ってこないで。仮設にいる一人っきりの年寄りは、一日中ずっと籠って、ぼーっとしてるんだってね。やっぱり、話さなくなっちゃうみたいよ」


「そう、なんですか?」

「そうよ。私だって市役所にいたときは、ほとんど話さなかったよ」


 ふと、市役所前で見かけた郵便屋さんと婦人の会話を思い出す。薬局前の男性同士の雑談も。

 気仙沼の人たちはみんな、おしゃべりな印象があった。


「あのときはね、息子たちとも話す必要もないなって。でもうちに戻ると、こうして話さないといけないじゃない。そうすると自然と話せるようになるのね。

 仮設ってなると、ご近所が知り合いってわけじゃあないしねえ。若いもんが多いと、やっぱり、なにを話していいのかわからなくって」


「話題が、見つからないってことでしょうか」

 女将は頷いた。ふと、大昔聞いたような気がする、孤独死のことを思った。仮設住宅での孤独死、たぶんあるんだと思う。


 体育館の駐車場で、子供たちと遊んでいたボランティアの周囲には、お年寄りの方が何人かいた。あれは孤独死の防止のために、外から空気をかき混ぜていたのかもしれない。

 ボランティアが媒体になって、同じ場所で住む人たちのあいだでも会話ができるように、と。そうすればボランティアがいなくなっても孤独にはならない……。


 わたしはバカバカしい思い違いをしていたらしい。気仙沼の人は、気仙沼の人を察知するアンテナみたいなものが背中にくっついているわけじゃないってことだ。

 言葉にしてみるとあまりに滑稽な想像だったけど、似たことを今さっきまで信じてしまっていた。


 市役所前や薬局前で見た光景は、実はとんでもなく単純な光景だった。

 目の前にわたしの知る人がいる。そしたらわたしは挨拶するし、向こうだって挨拶する。近所の人って、そういう人のことだ。

 わたしと彼らとの違いは、その近所の人の数だけだ。


 だから、いきなり他人だらけの仮設住宅へ移住させられたら、あっという間に会話は消えてしまう。ゼロから築きあげなきゃいけない。


 高齢の人は、六十年七十年かけて培ってきた近所の人を、受動的に一からつくらなきゃいけないってことだ(しかも、老い先短いことを承知の上、震災で心の傷を負っているなかで、だ!)。匙投げたくなる気持ち、すごくわかる。


 それでも人と交わり、自身の知り合いを増やす努力を粘り強く続けている人がいる。きっといる。


 わたしは、その人に最大限の敬意を表したい。



「依利江、お風呂あがった?」

 階上から床のきしむ音がする。ちょっと長話をしすぎてしまったのかもしれない。


「ごめん、こっち。女将さんとおしゃべりしてた」

「もう、次がいるんだから」

「ごめんって。――それじゃあ女将さん、わたしはこれで。ありがとうございました」

「いえいえ。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 金港館二泊目の夜が、更けようとしている。

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