変わらないもの

田沼凜々子

第1話

ここは絶望という名のラビリンス。あなたはもうここから抜け出すことはできないのです。一度踏み入れてしまったら最後、振り向いたって誰もいない。あがいてもあがいても闇の中。その覚悟の上でここに来たのでしょう。今さら何を後悔しているのですか。あなたは自ら茨の道を選んだ勇者なのですよ。

佐々木は目を覚ました。時計の針はちょうど午前三時を指していた。嫌な時間に起きてしまったな、と佐々木は思った。ここのところ妙な夢ばかり見る。それも決まって調子の暗いものばかりで夢のせいで鬱になりそうだ。これといって何かに追い詰められているわけでもないし、失意の底に陥るような経験をしたわけでもない。体調もいたって万全だというのにどうしたことだろう。

今日も出勤するために六時には起きなければいけないことを考えると今から寝るのもかえって心配なので、そのまま朝を迎えることにした。一時的に目覚めているとはいえ、あと三時間の間に眠気に襲われない保証はない。そう思って彼はコーヒーを入れ、飲んでから念入りに歯を磨いた。手持ち無沙汰になってふと室内用のゲージの中に小さくうずくまって眠る愛犬に目をやると、その小さな愛玩動物はまるで彼の視線に気づいたかのようにかすかに体を震わせた。途端に暴力的な感情が体の中心部から沸き起こり、気づけば彼はゲージに飛び込むようにしてそれを開いていた。驚いて吠える愛犬を引きずり出し、頭や腹をめちゃくちゃに殴った。その間中彼の心からは感情というものが消え去り、体と心が切り離されたような状態に陥っていた。それはちょうど寝ている自分が半分目覚めかけた意識下で、夢の中の自分を眺めているような感じだった。

佐々木は目を覚ました。時計の針はちょうど午前六時を指していた。彼の体は安楽椅子の上におさまっていて、目の前のテーブルには空になったコーヒーカップが置いてあった。ゲージに目をやると愛犬はいかにも平和そうな顔ですやすやと眠っている。彼は数時間前の自分の行動を思い出し、今の状況をやっと理解した。また不快な夢を見た。今日のは特別に不快だ。自分には自分でも気づかないような暴力性が存在しているのだろうか。そう考えると恐怖と不安で居ても立っても居られないような気になってくる。ともあれきっかり六時に起きられたことは唯一の救いだが、同時になんとなく不快でもあった。十数年も同じ時間に起きて同じ時間に家を出て同じ場所に行く生活を続けていれば嫌でもそのルーティーンが体に染み付いていて、何があろうと決まった時間に目が覚めてしまう。僕はそういう「変わらないもの」に言いようのない気持ち悪さを感じた。

会社に着くと、例によってすでに言葉がその意味を失ったあいさつをして、入社したときから変わらない席に座る。

ふと社員たちの反応に違和感を覚えたが、特に気にもかけなかった。

書類に目を通すよう部下に声をかけると、明らかに様子がおかしかった。青ざめた顔をしているので体調が悪いのかと聞くと、いえ、とだけ答えて早くこの場を離れたいというように足早に去っていってしまった。

その日の仕事を終え街を歩いていると、やけに周囲の視線を感じる。顔に何かついてでもいるのかと思ってショーウィンドウを見ても特に変わりはない。

帰宅すると誰もいない部屋に向かってただいまをいうことが毎日のことになっていた。今にもおかえりという答えが返ってきそうで、またそれを期待している気持ちもあって、やめることができなくなってしまった。

恋人はおろか友達もいない、同じことを繰り返すだけの単調な日々に彼は退屈してはいたが、これといって何か新しいことを始めようとも思わないし、何もしたくなかった。電話の音がなったので受話器を取ると故郷の母の声が聞こえた。

「もしもし、あんた最近元気なの?全然顔見せないし電話もよこさないから心配しちゃったのよ。」

「ああ。元気でやってるし何も問題ないよ。」

「陽介、、、。あんた本当に大丈夫、、、?」

「大丈夫だよ。心配かけてごめんな。」

息子の生きた人間とは思えない魂の抜けきった喋り方が悲しく、恐ろしかった。

「あんた、えみちゃんのことで立ち直れないのはわかるけど前に進まなきゃだめよ。何か他に気を紛らわせるような趣味でも見つけないと。苦しければお母さんに話したっていいし1人で抱え込むのはやめなさい。」

「えみ、、、?だれだよそれ。恋人だったら俺にはいないし母さんが心配するようなことは何もないよ。」そう言って笑った。

佐々木は目を覚ました。時計の針は午前3時を指していた。この時間に目を覚ますのは本当に厄介だ。それにしても今日の夢は一体なんだったのだろう。いつもよりやけに現実味を帯びていて薄気味悪かったが、現実は、今日だっていつもと変わらない一日が始まるだけだ。夢なんてなんの意味も価値もないじゃないか。佐々木はそう思いながらまた眠気覚ましのコーヒーを入れた。ゲージの中の愛犬は、いつもと同じ格好でいつもと同じ寝息を立てて眠っている。いつからか「変わらないもの」が僕を苛立たせるようになった。僕だって何も変わっていないし僕を取り囲む環境も一切変わりはしないのに。愛犬の首輪についたプレートにはEMIと書かれている。どこかで聞いたような名前だ、と彼は思った。変わらない日常、変わらない人間、変わらないお前の寝顔が、僕には許せないんだ、えみ。これ以上僕を怒らせないでくれ。涙が次から次へと溢れ出し、自分の意志とは違う生き物がえみを殴り続ける。

佐々木は目を覚ました。そこに時計はなかった。目の前には鉄格子。僕はゲージの中にいるんだ、と思った。いつもと違う景色が彼には嬉しかった。

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変わらないもの 田沼凜々子 @nrnl1016

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