小さな世界のヒーロー

朝海 有人

1

 今日もいつも通り、平凡なまま一日が終わるものだと思っていた。朝起きて出社し、夕方に退社して帰宅する、そんな毎日の繰り返し。今日だけじゃない、明日も、明後日も、一年後も、誰に話せるものでもない極めて平凡な一日が続くと思っていた。

 この世界を作った神様だって、途方もない数の人間を全て見ているとは思えない。きっとたくさんの人間の中から、何人かをピックアップして見ているのだろう。

 毎日が変化の連続で、生まれてから死ぬまでたくさんのことを経験するような先駆者達は、きっと神様に選ばれた人達なんだ。成功も失敗も、酸いも甘いも、喜びも悲しみも経験することの出来る、物語のヒーローのような存在だ。

 一方、僕達のような人間はどうだろうか。息を呑むようなドキドキも、胸躍るようなワクワクもない。ただ毎日、生きるだけで全てが終わってしまう。

 彼等が神様に選ばれ、天啓を授かったヒーローだとするならば、僕達は何も授かっていないただの脇役だ。生きていようが死んでいようが、彼等の物語には何も影響しない。

 そうやって僕も、そして僕の周りも死んでいく。生き残るのは、語り継がれるのは、ヒーローとして一生を駆け抜けた彼等だけ。

 そう思っていた……。


 今日も僕は、いつも通り電車に乗って帰路に着いている。

 時刻は夜の十時。他の社員はもう家に着き、お風呂に入っている時間だろう。いつもなら僕もご飯を食べ終え、テレビでも見ながらのんびりしている時間なのだが、今日は不幸にも上司から残業を言いつけられてしまった。

 流石にこの時間の電車内は、帰宅途中のサラリーマンは少ない。代わりに、飲み会の帰りなのか、はたまたこれから向かうのかという感じの大学生、これから夜の街に繰り出そうかという女性が多く、電車内は朝の混雑時とまでは言わないにしろ、相当詰まっている。席も隙間がないため、疲れているのに立ったままの乗車を余儀なくされている。

 もう少しすれば、繁華街のど真ん中にある駅に着く。そうすればこの混雑具合も、いくらかマシになるだろうし、目的地まで座ることもできるだろう。

 そう思っていた時だった。僕の足元に何かが当たるような感覚が走った。

「ん?」

「あ、すいません!」

 見ると、隣に立っていた男が僕の足元に落ちているスマートフォンを拾っていた。

 きっとゲームでもしている時に、はずみで落としてしまったのだろう。

 僕は謝ってきた男に対して軽く会釈を返し、前に向き直る。気づけば駅は、繁華街のど真ん中にある駅に止まろうとしていた。

 その時だった。

「きゃあああ!」

 突然、女の人が甲高い悲鳴をあげた。その瞬間、混雑している車内の人間が一斉に声のした方を見る。

 びっくりした僕もすぐに声がした方を見る。すると、視線の先にいた女性が僕の隣にいた男の手を掴み、高々と上げていた。

「この人……痴漢です!」

 女性のその一言で、車内の空気が大きく変わった。誰もが、痴漢と呼ばれた男に対して侮蔑を込めた視線を向けている。

 一方、痴漢と呼ばれた男の方は、呆然としたまま固まっている。一体何が起きて、自分の身にどういうことが起こっているのか、全く分からず置いてけぼりにされている、と言ったような感じだ。

 その時、電車が駅に到着した。無機質な音声アナウンスが繁華街の名前を言うと、車内の人達が一斉に降り始める。

 その流れに乗じて、女性は男の手を掴んだまま駅を降りようとしている。

「ちょっと来なさいあんた! 警察に突き出してやるわ!」

「ちょ! ちょっと待ってください!」

 女性が男を電車から引きずり下ろした時、呆然としていた男がようやく動いた。自分の腕を引っ張る女性に抵抗し、必死に叫び始めた。

「違います! 痴漢なんてしてないです! してないですって!」

「何しらばっくれてんのよ! あんたあたしのお尻触ったでしょ!」

 男はしばらく抵抗していたが、女性の方も引き下がらない。掴んでいる男の腕をグイグイ引っ張り、今にも噛み付きそうな程に激昂している。

 しばらくすると、改札口の方から職員の人が数人やってきて、抵抗する男を取り押さえた。それでも男は、必死に抵抗しながら自分の無実を証明し続けている。

 そんな男の様子を、周りは汚いものでも見るかのような目を向けている。その場にいる誰もが皆、この男が痴漢であると確信している。

「違います! 僕はしてないですって! だって!」

 男がそう言った時、車内でその様子を見ていた僕と目があった。

 瞬間、僕は心臓を握りつぶされるような感覚に陥った。脂汗が急に出て、今まで何ともなかった呼吸が急に荒くなり始め、全く関係がないことなのに後ろめたいことがあるような気がして、全身が緊張していく。

 一方、男の方は僕を見て安堵の表情を浮かべている。まるで、救助隊を見つけた遭難者のように、絶望の淵から光を見つけた時のように。

「僕その時、携帯ゲームをしてました! 両手がふ塞がってて! だから痴漢なんて!」

 男は取り押さえられたまま、必死に弁明しながら僕を見ている。

 すぐにわかった。男は僕に助けを求めている。

「わかったわかった、言い訳は向こう聞くからとりあえず来なさい」

「待ってください! 本当に僕はやってないんですって! ほら!」

 そこで初めて、男は僕を指さした。それをきっかけに、女性や職員が電車内の僕を見る。

 瞬間、また緊張が僕の全身を硬直させた。心臓が縮み上がり、意識してないと呼吸が止まってしまいそうな、今まで経験したことのない緊張が僕を包む。

 確かに、僕にはわかる。

 男がスマートフォンを落とした時、僕はその画面を見た。あの時に映っていたのは、確かに両手を使わなければいけないゲーム画面だった。僕もよくプレイしているゲームだから、間違うはずがない。

 だから、僕は知っている。この男は痴漢などできるはずがない。この男は無実であり、これは冤罪だ。

 そして、それを証明することが出来るのは僕しかいない。その場にいる誰もが皆、痴漢として捕まった男を悪者だと思っている。それを救うことが出来るの僕しかいない。

 簡単なことだ。職員達の元に行き、男が無実であることを証言すればいい。僕と男に接点はないし、第三者の意見ならばそれが冤罪であることを証明するには充分だろう。

 そうだ、一歩踏み出せばいい。一歩踏み出して、「この人は両手を塞がれていて、痴漢なんて出来ません」とだけ言えばいい。

 そう、それだけいい。

 僕は、一歩前に出た。


 ***


「ただいま」

「おかえりー」

 家に着くと、奥から智恵がパタパタと急ぎ足で僕の元にやってきた。

「もう、遅かったから心配したんだよ? ご飯できてるよ? 先に食べる? それともお風呂?」

「ああ……先にご飯食べようかな。ところで、雪は?」

「もうとっくに寝てるわよ? お父さん帰ってくるまで起きてるんだーって言ってたけど」

「そっか……」

 脱いだスーツを智恵に渡した僕は、なるべく音を立てないようにそっと寝室の扉を開ける。

 中から、スースーと安らかな寝息が聞こえてくる。ゆっくり近づいてみると、雪は幸せそうな顔で眠っていた。

 僕はしばらく、雪の寝顔を見ていた。隣にはいつの間にか智恵もいて、僕と同じように雪の寝顔を見ている。

「ねえ、どうしたの?」

「え?」

 突然、智恵が僕の顔を見てそう聞いてきた。

「どうしたって、何?」

「あなた、帰ってきてから浮かない表情だけど、何かあったの?」

「うん、ちょっとね……」

 僕と智恵は、寝室を後にした。その間、僕はずっと浮かない表情のままだったと思う。

 結局あの時、僕は何も言わなかった。何もせず、ただ一歩出るフリをして、そのまま椅子に座って男に背を向けた。

 そのタイミングで電車の扉が閉まり、電車は出発した。その時、男の叫ぶ声がしていた気がしていたが、僕はずっと聞こえないふりをしていた。

 もしあの時、僕が男を庇っていたら、どうなっていただろうか。痴漢の冤罪を解いたということで英雄視されるのか、それとも同罪として僕も疑われるのか。

 一歩踏み出そうとした時、僕の脳裏に智恵と雪の顔がよぎった。それが僕の足を、思考を止めさせた。この先に進めば、大事な何かを無くしてしまうのではないか、と。

「なあ、智恵。次の休みに、どこか遊びに行かないか?」

「何? どういう風の吹き回し?」

「いや、久々に家族団らんとしたいな、って」

「そうね、じゃあドライブにでも行きましょうか。雪も喜ぶわよ」

 何より嬉しそうな表情でキッチンへと向かう智恵を、僕は笑って見ていた。

 きっと、神様に選ばれたヒーローはあそこで颯爽と人助けをしていたことだろう。男を冤罪から救い、痴漢した真犯人を見つけ、たくさんの人から感謝と賞賛を受け、文字通りヒーローとなっていただろう。

 僕みたいな脇役は、そんな器じゃない。仮にそうだとしても、僕はたくさんの人からの感謝と賞賛はいらない。

 今はただ、幸せそうな顔で眠る雪と、幸せそうに鼻歌を歌う智恵、愛する二人を守れるだけでいい。たったそれだけを守る、小さい世界のヒーローでいい。

 そんなことを考えながら、僕の一日は終わる。

 明日からまた、何も変わらない、生きるだけの毎日が始まる。

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小さな世界のヒーロー 朝海 有人 @oboromituki

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