8-8 最後のチャンス


 お盆休みの夜は交通量が少なく、静かだ。


 僅かに聞こえる虫の鳴き声は耳に涼しく、ロケット公園では手持ち花火を始めようという家族の笑い声が響いている。


 お盆が終われば夏もすぐに終わり。Tシャツ一枚で外出できるのも最後かと思うと、肌に纏わりつく湿気った暑さも少しばかり寂しい。


 そんな寂寥感を胸に灯しながら歩く、静かな夜。


 その中を僕は電話を片手に、優佳との会話に興じていた。



「サトシのバカ、何度言ったらわかるの!?」


「優佳こそ、なんでそんなに悪く言うんだよ!」


 ……全てを台無しにする大声で。


「それはサトシが必要以上に持ち上げるからバランスとってるんです~」


「いいじゃないか別に、お茶を飲むくらいでなんでそこまで言われなきゃいけないんだ」


「飲むのは勝手だけど、夏にいっぱい飲むのはやめなさいって言ってるの。お茶に含まれるタンニンが、喉の渇きを促進させるのは有名なんだから」


「だからってスポーツドリンクばかり飲めって言うのはおかしいだろ。あれだって甘味料がたくさん入ってるから、甘くてすぐ喉乾くんだぞ?」


「お茶だって利尿作用もあるから意味ないのよ。脱水症状にならないように、ってせっかく心配してるのに!」


「なんだよそれ、お茶のことを悪く言うなら無理に心配してもらわなくて構わないよ」


「なにその言い方!? 暑すぎて頭おかしくなっちゃったんじゃないの?」


「大きなお世話だ、優佳こそなんでそんなにお茶の評価を下げようとするんだよ。もしかしてアレだね、お茶に嫉妬でもしてるんだろ」


「バ……バカじゃないの!? なんでわたしがお茶なんかに!」


「そうやってムキになって怒るところが怪しいな。悪口言わない分だけ、お茶の方がマシかもね」


「ちょっとサトシ、いまのは聞き捨てならないわよ」


「僕の知ってる優佳は、いつも笑ってて一緒にいて癒される女の子だったはず、だったのになあ?」


「そんなのサトシの願望。わたしはイジワルばかり言うサトシなんて知らないんだから!」


「僕はいつもこうだったよ。優佳の方こそ違う誰かと勘違いしてるんじゃないか?」


「そんなことあるわけないでしょ! サトシは興味ない素振り見せても、わたしのこと気にしててくれたし、こうやって電話してくれ……」


「……」


「……」


 お互い、黙り込む。


 ここ十年で何度と繰り返したかわからない、親切の押し売りから始まる沈黙。


「……悪かったよ。お茶だけに頼るのは、ほどほどにする」


「わたしのほうこそ、ごめんなさい。ちょっとムキになりすぎちゃった、なにを飲んだってわたしが口出す権利ないのにね」


「優佳にはあるよ、権利。健康を気遣ってくれて、踏み込んで言う、権利」


「……あるのかな」


「あるよ。少なくとも僕はそう言ってくれて……嬉しかった」


 そしてまた、沈黙。

 僕の言ったことに優佳は明確な答えを返さない。


 けれど、勘違いでなければこの種の沈黙は……良いものじゃないかって思えた。


「そうだ、優佳」


「なあに?」


「華暖、覚えてるだろ? 久しぶりに会いたがってるんだ、よかったら今度一緒に遊びに行かないか」


「華暖ちゃんかぁ。ひさしぶりだなぁ、もう一年くらい会ってないよ」


「えっ、そんな経つ?」


「経つよ~あのころ華暖ちゃんが一回だけ読モで写真乗ったって、雑誌持ってワイワイ話したよね」


「そんなことあったっけ?」


「したよっ、なんで覚えてないの? ショーパン似合ってる~って話してるのに、サトシは”足太い”なんて言うから叩かれてたじゃない」


「……思いだした」


「女の子はね~? そうやって言われたことずっと覚えてるんだからね? 確かあれから華暖ちゃんダイエットし始めたはずだよ」


「マジ?」


「大マジ! ……続かなかったみたいだけどね」


「華暖らしいね」


「それとっ! 夕霞東高の新聞読んだわよ。なんで華暖ちゃんとキスした記事なんて上がってるの!?」


「あ、あれは……」


 エーコ邸のベランダから落ちて、家に送り届けた日以来、僕たちは毎晩こうやって電話を続けている。


 最初はぎこちない会話だったけれど、少しずつ優佳も昔のように話してくれるようになった。


 もうお互いの間に遠慮といった壁はほとんどないと思っているが、直接会うことだけは中々許してはくれない。


 でも、いまはそれでもいい。

 だって僕は一度信頼を失った。


 だからこうして電話に出てくれるだけでも、嬉しいことなんだ。


 ……でもそうは言っても、心は違和感を訴えていた。


 だって優佳とはあんなにも近かったのに。どうして電話でしか繋がれないんだろうって。


 一ヶ月前よりは心の壁は薄くなり、会話の中身も昔と変わらない。それでもなんらかの壁が存在するのは疑いようもない事実だった。


 いままではいつでも直接的で、電話をするくらいだったら、すっ飛んで行って直接会って話す方が早かった。


 物心ついた時から優佳と電話で話すなんてほとんどなく、距離感を図ることもなかったし、気まずい思いを抱えることだってなかった。


 その事実だけで見るのであれば、優佳との関係は仕切り直し――マイナスとしか思えない。

 

 でもなぜか、それは単純なマイナスとは思えなかった。


 それはどこかぎこちなく、不器用で、気恥ずかしくて。


 まるでお互いの好意の在処を探るみたいに。


 当たり前に交わされていた「ありがとう」「ごめんなさい」に、妙な気恥しさが生まれて、その言葉を掛けることがとても意識的で。


 ……とても心地よく、感じてしまっていた。


 いままでが当たり前の当たり前すぎて、見えていなかった。


 だからこの変化はマイナスではなく、もしかしたら実はプラスなんじゃないかって、そう思えるようにまでなっていた。



「って、サトシ聞いてるの~?」


「あ、ああ。聞いてるよ?」


「ホント~に? じゃあ答えてよ」


「……えっと?」


「やっぱり聞いてなかったんじゃない!」


「ごめんごめん! もう一回いい?」


「ケガは、もう大丈夫なんだよね」


「えっ?」


「だから、ケガ。交通事故。華暖ちゃんかばって、ケガしちゃったんでしょ?」


「あ、うん。入院も一日だったし、華暖も無事だった」


「よかった。サトシって普段は大人しいのに、急に行動的になるんだもの」


「……必要に迫られたら、誰だってそうなるよ」


「ホント~に? たまに自分のこと大事にしてないんじゃないかって、心配」


「それはお互い様だろ? 体崩して、現地でアルバイトまでして、李さんトコに籠城する誰かさんには言われたくないかな?」


「あ、ひどい」


 そう言うが、優佳の口元に笑みが浮かんでいるのが想像できる。


「僕だって心配したんだから。……ちゃんと病院には行ってるの?」


「うん、おかげさまで快調に向かってます。もう外出とかしても大丈夫なんだから」


「無理するなよ、また体調悪くなったら言って。優佳の大丈夫は信用できないんだから」


「……うん、ありがと。そうだ聞いて、明日は李さんと買い物に行くの。バクガイしたいんだって」



 電話口で優佳は鈴を鳴らしたような声で、ころころと楽しそうに話してくれる。


 会えないもどかしさはあるけれど、それでも楽しい時間だった。


 ……でも、夏はもう終わってしまう。

 夏休みが終われば毎日電話するのも難しくなるだろう。


 もし電話を継続できたとしても”それだけ”が続いてしまうかもしれない。だから心地良いぬるま湯な現状は打開しなければならなかった。


 一度、僕は何年かけてでも優佳の信頼を勝ち取れればいいと考えた。


 けど、先日の一岳の言葉で目が覚めた。


 短く太く生きなきゃダサい……そうだよな、それってダサい。


 ダサイのは、理屈抜きにイヤだ。

 スキかキライかくらい単純に、ダサい自分でいるのはイヤだった。


 だから僕はそれを打開するために、動かなければいけなかった。


 これが、最後のチャンスになるかもしれないのだから。



---



 翌日、某家電の街。


 わたし――縁藤優佳は、ゴエンさんと予定していた家電購入のため、朝から支度をして正午前には改札を出ることができた。


 右手の大きなビルが夏の太陽光を浴びて鋭く光り、その足元ではデジタルサイネージがアイドルの曲(?)を流している。


 空は高くまで蒼を広げていて、時折吹く風を受けた屋外広告の旗をパタパタとはためかせる。


 日差しも強く、帽子を持ってきて正解だった。

 夏休みということもあって、この時間でも人は多い。


 なかなか都内から出ることのないわたしにとって、こんなにたくさんの人を見ることはあまりない。


 ゴエンさんは前日からとても楽しみにしてくれていた。それにつられて、わたしも少しわくわくしている。


 あっちの国にいる時は、迷惑のかけっぱなしだった。

 だからこっちで少しでも彼女の役に立てると思うと、いやが上にも気合が入る。


 ちなみにゲストとなる本人は花を摘みに席を外している。わたしは柱を背に人の流れを眺めていた。


 ……たまに足元から頭の先まで舐めるような視線を感じる。


 別に都内が苦手ってことはないけれど。

 少し普通の人と外見が違うわたしは、注目を集めやすい。


 だからほんの少しだけブルーになってしまうのも本当。

 そして、たまにこうやって話しかけられてしまうのも、本当。


「ねえキミ、一人?」


 白髪でサングラスをかけた黒い帽子の男性。さっきから遠巻きにわたしを見てた人だ。


「いえ連れがいますので……」


「へえ? それってもしかしてキミみたいにかわいい女の子?」


「……」


 なにを言っても仕方ない、私は目を背けて拒絶の意志を示す。


「あれ? 大人しくなっちゃった。そうやって黙ってるとフランス人形みたいにかわいいよ」


 溜息が出てしまう。

 ゴエンさんが来てもこの人を追い払うのは難しいだろう。


 だからわたしが言葉を選んで、ちゃんと断らないといけない。ネガティブを言葉に出すのは、とても苦手だ。


 この人はきっとたくさんの人に声をかけてるんだろう。

 でもわたしに好意を持ってくれたのは事実、だけどそれを撥ねつけるような言葉を言わなきゃいけない。


 口にしたら否が応でも罪悪感が生まれる。だから、苦手。


「黙ってるのもかわいいけどさ、またさっきみたいなかわいい声、聞かせてよ? だからさ、これから……」


「お~優佳、待った? あれ、この男の人誰? 黒の絶対零度さん?」


 場の空気を読まない大きな声が、あさっての方角から飛んでくる。突然のことに、わたしとサングラスの男性はぽかんと口を開けていた。


「……ちっ、男連れかよ」


 我に返ったように、舌打ちをして去っていく白髪の男性。


 わたしは目の前で起こった光景に混乱しそうになりながらも……とりあえず色々な意味で横入りしてきた男に声をかける。


「……なんで、サトシがここにいるのよっ!」




 優佳は翠のリボンを巻いた白のハットに、無地で純白のノースリーブ。ビビットピンクのフレアスカートを身に着けていた。


 そんな愛らしい恰好とはうってかわって、僕に向けられる目線はジトッとした訝し気な視線。


「昨日、電話で話したじゃない。今日はゴエンさんと買い物だって」


「え~と……李さんからは、なにも聞いてない?」


「聞いてない、ってなんのこと? ……って、ちょっと待って電話かかってきた。ゴエンさん、いまどこに……えっ、なんで急に!?」


 優佳は僕の顔をチラチラ見ながら、慌てた顔で李さんから”事情”を聴いている。


 本気で怒らなければいいな……なんて考えながら優佳の電話が終わるのを待つ。



 事の発端はレイカからの電話。


 とある指定日に李さんが優佳を都内に連れ出す。

 だけど途中で李さんは抜け出すから、代わりに諭史がそこで合流しろとのことだった。


 要は僕達が二人で会えるようにセッティングしてくれたというわけだ。


 レイカと李さんは僕たちの間にある確執を知っている。だから僕と会おうとしてくれない優佳を連れ出し、強引に合わせる算段を立ててくれた。


 僕は最初、これに反対した。

 優佳を騙すことになるし、余計に関係が悪くなることも考えられたから。


 でも最終的に僕はその案に乗ることにした。だって、いまの状態がずっと続くほうが、イヤだったから。


 だから二人の協力でいま抱えている鬱屈した状態を打破できるのなら、それに乗るべきだと思えた。


 利用できるものはなんでも利用する――それが本当に欲しいものだと、取り返したいものだから。



「はあ~~~」


 李さんとの電話を切り、優佳が盛大な溜息を巻き散らかす。


「……ま、そういうことだから」


「なにが”そういうこと”よ! じゃあ昨日電話した時にはサトシは全部知ってたってこと!?」


「おそれながら……」


「もうっ、信じらんない! みんなでわたしを仲間はずれにして、グルになって!」


 優佳は頬を膨らまして、少し涙目になっている。まずい、本気で怒ってる。


「ごめんっ! 僕がどうしても、優佳に会いたかったから」


「……じゃあ、今回のってサトシが考えたことなの?」


 コンマ一秒の躊躇を挟んで、いけしゃあしゃあと決まった答えを口にする。


「うん。だから優佳には悪いけど、李さんに協力してもらって、セッティングさせててもらった」


 レイカと李さんの企画したことだなんて、絶対に言えない。


 せっかく二人が気を遣って僕にチャンスをくれたんだ。その責任を二人に投げるなんてできるわけがない。だからそれで優佳の怒りが収まらないなら、その怒りの方角は僕に向くべきだ。


 優佳は腕を組み、僕の顔を見据えながら考えている。


 ……やっぱり、このまま帰るかな。


 そりゃ、そうだよな。

 こんな騙し討ちみたいなマネをして、楽しくお出かけ。なんてできるわけない。


 もう謝ってしまおう、優佳が口を開く前に。今回は、やり過ぎた。


「あのさ、優佳……」


 けど言い終わる前に、優佳の言葉によって塗りつぶされた。


「ほんっとに!! ゴエンさんって人がいいのね……」


 優佳は組んだ腕をぶらっと離し、困ったような顔で笑った。


「ゴエンさんもね、電話で同じようなこと言ってた」


 優佳が李さんの声真似をしながら『サトシさん悪くない、ワタシがお節介しました。二人ケンカ中なのは良くないからお出かけしてください』と言う。


「李さん……」


 僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「そんなの断れるわけないじゃない。サトシもゴエンさんもお互いのこと悪くないって言っちゃってさ、これで帰ったらわたしが一番のケーワイじゃない?」


「優佳、ケーワイってもう死語……」


「うるさいわねっ」


 優佳は腰に手を当てて、僕に向きなおる。


「だから、今日はしょうがないから、サトシに付き合う。ゴエンさんの顔を立てる意味でもね?」


「ほんとに!? ありがとう、優佳!」


 胸が躍り出しそうなくらい嬉しくなり、無意識に優佳の手を握ってしまった。


「……そんなに、嬉しいんだ」


 優佳が目を背け、口元を緩めながら伺ってくる。


「そりゃそうだよ、だって僕は……」


 続けようか考えて、やめる。

 だってその言葉は相手が求めているわけではなく、僕が口にしたいだけなんだから。


 今日は僕が誘った側、いわばホストだ。


 そのホストが自分の欲を優先するような真似はしたくない。あくまで僕がリードして、優佳を楽しませるのが目的なんだから。


 気付くと優佳は横目に僕の顔を眺めていた。続きの言葉が気になると言わんばかりに。


「……なんでもない」


「なにそれ」


「じゃ、せっかくだから予定通り買い物にでも行こうか?」


「今日はゴエンさんの買い物に付き合うだけで、わたしは別に欲しいものがあったわけじゃ……」


「そっか……でも、最近エアコンがあまり冷えなくってさ。修理するより買い換えたほうが安いかもしれないし、付き合ってよ」


「なにそれっ、サトシの用事じゃない」


「でも別にいいじゃないか。だって……後々、優佳も戻ってくる、家なんだし」


「………………わかったわよぉ」


 よし、否定されなかった!! 僕は心の中でガッツポーズを取る。


 そしてそのまま優佳の手を握り、少し強めに手を引きながら先頭を切って歩き出す。


 優佳は手を払ったりすることなく、小さな手を僕に握らせたままでいる。


 ……少しそこに汗をかいているのは、暑さのせいだけじゃないと思いたい。


「なんか今日のサトシ、いつもと違うぅ……」


「だろうね、久しぶりのデートで浮かれてるから」


「そうゆうこと平気で言うのが、違うってゆってんのぉ……」


 優佳が弱々しい声でのどを鳴らす。


 今日は僕がホストだ。


 欲は優先しない。


 けど遠慮もしない。


 それがホストの役目でもあるのだから。


 ここまで二人にサポートはしてもらった。


 後は僕が自分で切り開いていくしかない。


 このチャンスをしっかり生かすと決めたのだから。


 僕は少しだけ首を後ろに回し、優佳の顔を覗き込む。


 手を引かれる優佳は困ったような顔で頬を紅潮させ、片方の手に拳を作って胸に当てている。


 ……やばい、かわいい。


 自然と胸が早打つ。


 顔がだんだん熱くなる。


 繋いだ手からは二人の汗が溶け合って、いまにも雫を落としそうな勢いだ。


 でも手を離すわけには行かない!!


 僕たちの体温はもう暴走寸前だ。


 鼓動の早さを隠しつつ、涼む目的も兼ねて一番手近にあった電気店に入った。

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