8-7 ため込んだ分だけ


「ごちそうさま、美味しかった」


「お粗末様です。傑さん、細い割に結構食べるんですね?」


 私は食器を片付けながら、あの細い体のどこにそんなたくさんのご飯が入るのか考えていた。


「映子がそこまで食べないだけだろう、そこは男女の差だと思うが」


 私は彼の言葉に応えず、背中を向けて食器を流しに持っていく。


 ……二人きりの時に男女の差とか、サラっと言うなっ! 否が応でも意識しちゃうじゃない!!


 彼の視線を背中に受けながら――私は先ほどの会話を思い出していた。


 食事中は主に、高校のことを話した。

 忘れられているかもしれないが、一応、私と傑さんは同じ東部瀬川高校に通っていた。


 私は新聞部に入っていて、傑さんは生徒会。


 二年から私は部長を務めていたし、彼は生徒会長だったから、月に一度くらいは顔を合わせていた。


 その頃の私は傑さんのことを”昔一目惚れしてしまった人”として割り切っていたので、時たま目で追いかけることはあったけど、なにか行動を起こそうなんて思いもしなかった。


 傑さんは昔と違い、八方美人だったので私にもフレンドリーに接してくれた。

 それに対して好きとも嫌いとも思わない。私にとって彼は”ただのイケメン生徒会長”に成り下がっていた。


 ……そうやって私には関係ない人、だと思い込んでいた。



 私は蛇口を開いて、スポンジを握る。食器洗いを終えるまでが、私の仕事だ。


 彼のためになにかするのは楽しい、充実してるとも言えるか。願わくばこの光景が当たり前に――


「映子」


 傑さんに声を掛けられて、振り向く。


「そんなことしなくていい、いいから」


 傑さんは忙しなく目を動かし、言葉を一度呑み込んで。


「側に、来てくれ」


 水の流れる音だけが部屋に響き、心音に鼓膜が内側から圧迫される。その言葉の意味を反芻し、濡れた手を拭って、水道の音を自ら止める。


 彼は食事をした位置から動かないまま、カーペットの上であぐらをかいていた。


 体はこちらを向いているけど、視線を明後日の方角に飛ばしている。


 それに、自分から向かって行く。


 ……まるで猛獣がいる檻に、自分から入ろうとするような倒錯した行動に、目が回りそうだ。


 私はおずおずと隣に立ち、スカートがシワにならないよう、手で抑えながら隣に正座。


 横目で彼の様子を窺うけど、前の方を見たまま手を震わせている。


 ……やめてよっ、あなたが緊張してたら私はもっと緊張するじゃない。


 これから、どうなるの?


 前回、私が彼の発言を止めさせたし……私からなにか言いだしたほうがいいのかな。


 そもそもコクったのも、私が最初だし。


 でも、彼からなにか言ってくれてもいいんじゃない? そもそも、いまだって隣に来て欲しいって言ったのは彼なんだし……ああ、私ってば、なにどっちに責任があるとか考えてるのよ。いまはそんなごちゃごちゃしたこと考えたくないのに……!


 もう、なるようになれ……!


「……っ」


 彼の息を呑むような音が聞こえた。

 私は膝を動かして彼の方に近づき……肩に頭を乗せた。


 いま私の顔は真っ赤だろう、いや最初から真っ赤なんだけど。って、心のツッコミがうるさい!!


 口元がムズムズする。胃の上が痒い。


 彼はいまどんな表情をしてるだろう、見たいけど自分の顔を見られたくないので見ない。


「あっ」


 声が出てしまった。


 傑さんが、手のひらを被せてきた。


「「……」」


 胸の奥の痒みが増す。痒くないけど、それを掻きむしりたい。


 いっぱいいっぱいなのに、足りない。

 ハッキリなにが足りないかわからないけど、足りなかった。


「っはあ……」


 自然と止まっていた呼吸に、声が混じってしまう。


 どうしたらこの痒みが治まるだろう……? 逃げ出したいけど、逃げ出したくない。


 むしろずっとこのギリギリを味わっていたい……?


 それもあるけど、足りないって思ってる。でも満たすにはいったいどうしたらいい?


 わからないわからないわからない!!


「ねえ、傑さん……」


 テンパった私は彼の返答を待たずに言葉を続ける。


「お風呂、入ってもいいですか……?」


 言ってから、私は「なに言ってるんだろう、こいつ」と自問した。



---



 バカーーーッ!!

 私は顔を潜水させて、水の中で声を出す。


 あ、痛い! 痛い!! 顔の日焼けが染みるっ!

 もうあのままでも良かったじゃない! 雰囲気もばっちり出てたし、ここで仕切り直す必要もなかったでしょ?


 けれどトチ狂った私は、あの場で逃げともいえるお風呂を選択した。

 いや、逆にあの流れでお風呂を選択するということは、その後の流れが完成しすぎているとも言える……


 もう風呂をあがった暁には「不束者ですが……」って流れにしかならないじゃない!


 そんなの……いいんですけど、別にいいんですけどっ!


 でも言い訳! ハイ、言い訳タイム!!  恥ずかしくてどうしようもない気持ちを隠したいのと、今日は汗たくさんかいたし……っていろんな考え混じってたら、お風呂に入りたいなんて言葉が出てしまったのでした!!


 逃げるは恥だが、なんて世間は言うけれど、逃げたからますます恥ずかしいことになってしまった。あ~ダメ、なんか色々考えてきたのに、傑さんの隣に座ったら考えが一発で飛んでしまった。


 私、そもそもどうしたかったんだっけ……?

 なんで土壇場で傑さんに会いに行こうなんて思ったんだっけ……?


 ……


 ……あ。


 思い出した。


 時間的にも、夕飯食べ始めたのが二十二時半だったら。


 ……バッチリじゃない?


 なんだ、私やるじゃん。


 いまお風呂あがったら、多分ちょうどいい時間になる。


 結果オーライだ。


 そう考えたら、なんかひどく安心した。


 そうよ。私、お風呂に来てまでなに慌ててたのかしら。


 そもそもお風呂ってリラックスするためにあるんじゃない。


 湯船のヘリに頭を乗せて私は一息つく。


 今更だけどようやくお風呂周りの光景が目に入ってきた。


 暖色のランプに、曇らない鏡。


 そこに立てかけられているシャンプー・リンス・コンディショナー。


 そしてひときわ目に入ったのが……電気カミソリ。


 電気カミソリも私を見て、微笑んでる気がした。(完全に言わされているのだけなのだろう)



 長い一日だ……


 もう過去をすべて清算しつくした。


 いまの私に振り返るものはない。


 手元に残っているのは傑さんにもらった腕時計と、未来だけ。


 私の未来は誰にも決められない。


 私が、自分の手で、選んで決めていこう。


 そう意気込んで、私は浴槽から体を上げる。


 …………体は一応念入りに、洗おう。


 バススツールに腰かけ、シャワーを浴びる。


 ふと気づいたけど彼のシャンプーを使ったら、髪の匂い同じになるんだ。


 またそんな些細なことでドギマギしたけど、彼の愛用シャンプーはスカ〇プDだった。



---



 私はお風呂から上がり、着替えもないので同じ服に袖を通す。


 傑さんはベッドに腰かけてテレビを見ていた。

 先ほどあれだけ動揺してたのに、リラックスしてテレビを見られるわけない。


 きっと落ち着いてる風なポーズだ。……こういう風に邪推する私って結構イヤな女?


 時計を横目に、私は傑さんに「お風呂頂きました」と声をかける。彼は「ああ」と言い、電源を落とす。


 ここからはさっきと違う。


 今度は私が主導権を握るんだ。


「傑さん、実はデザートを買ってきてるんです」


「……デザート?」


 場違いな単語が飛び出し、首を傾けながらオウム返しをする傑さん。


「はい。一年に一回だけの、ね」


 そうして私は冷蔵庫から”デザート”を取り出した。


「本当はホールの方がいいんでしょうけど、二人じゃ食べ切れないですからね」


「そっか……だから今日、か」


 自分で言って傑さんは笑い出す。時計の両針はぴったり頂点を向けていた。


 私が取り出したデザート。それはスーパーで買った、カット済みのショートケーキだった。


 前もって考えていたわけじゃない。あくまで考えてたのは手料理をご馳走する、ところまでだ。


 けど買い物を終えた後、私はトイレと言って売り場に戻り、閉店作業中のおばちゃんに無理を言って、レジを開けてもらった。


 だからこれだけは彼の勘定じゃない。私が用意した……バースデーケーキだった。


 私は食器とフォークを取り出し、テーブルに置いて再び彼の隣に座る。自然と先ほどみたいなヘタクソな緊張はしなかった。


「ローソクだってあるんですよ?」


「十九本?」


「……は、さすがに無理なので」


 少し太めのローソクを二本取り出す。


「これで代用にします」


 同じ太さのローソク二本。一本が十歳分だとすると……


「俺、一気に二つ歳をとるのか」


「揚げ足取らないでください。気持ちですよ、気持ち」


 私は取り合わずバッグからマッチを取り出して、部屋の明かりを消す。


 真っ暗な部屋のショートケーキに灯が二つ、浮かび上がる。


「「……」」


 お互いに言葉を発せず、それを見つめていた。


 時計の針の音。


 遠くに走る車の排気音。


 ふと無表情になってしまった私と彼。


 お互いの瞬きと、火の揺らめきだけの世界。


 不思議だ。


 この火は消すために、点けられたのに。


 いまは消したくない、なんて思ってしまう。


「……俺さ、見かけだけなんだ」


 枯らしたような声で、彼が呟いた。


「中身は大したものなんて詰まってない。俺の代わりになる人は世の中にいっぱいいるって思ってる」


 そんなネガティブを窺わせる言葉に、口を挟もうとしたが――やめる。


 傑さんは視線は前に向けたまま、火の揺らぎを見つめていた。


「別に綺麗な人間でもないし、上に立つような人でもない。親の期待にも応えなかったし、所詮は社会の歯車なんだ」


 ひどく無感情な淡々とした声。悲しいわけでも絶望しているわけでもない、ただの現状把握。


「だから強がってはいるけど、別にその自信の裏付けになる物を持っているわけじゃない。そうやってカッコつけてみせて、周りを騙している。それだけだ」


 私はそれを黙って聞いている。


 昔の私が聞いたら話半分だったかもしれない。


 けどいまの私は、その話が彼の本心なんだと理解できる。


「周りのヤツらが見るのは、そうやって着飾った俺の姿なんだ。そっちが皆の求める俺の姿で、役に立つ社会の歯車だから」


 そんな自信のない彼も、間違いなく彼の一部だと。


「映子、お前の求める俺も、そんな見てくれがいい男じゃないのか?」


 彼はそう言って、私と視線を絡める。窺うようなその視線に、私は苛立ちを込めて返す。


「もし傑さんが、本気でそう思って私に聞いているなら、あなたぶん殴って怒り狂います」


「……」


 彼は肯定も否定もしなかった。


「……まあ、最初はそうでしたけど」


 彼は表情を変えない。意外には思わなかったということだ。


「けど、あなたに近づいて、私は本気になっていきました」


「……その前は本気じゃなかったのか?」


「本気でしたけど、どんどん本気になったんです」


 私の説明下手に、彼は少し笑った。

 

「だって傑さん。私のことあしらうみたいに扱うのに、電話くれたり、食事しようって言ってくれたり、プレゼントまでくれるじゃないですか」


 傑さんは笑みを浮かべたまま、黙っていた。


「そうやって気に掛けてくれて、優しいって思ったんです。そして私、浮かれちゃって、わたしのこと受け入れてくれる傑さんに、ハマっちゃったんです」


 彼は優しかった。


 私みたいな、女よりいい女の人たくさんいるのに。なぜか私に気を遣ってくれてるってわかった。


 それが、とても嬉しかった。

 最初に惚れた弱みもあって、どんどん私自身が勝手に”漬け込まれて”いった。


「だから、どんどん本気になったんです」


「そっか……」


 彼はまた揺らぎを見つめた。


「……火、消えちゃいそうですね」


「ああ」


 私も同じように灯に目を向けた。


 蝋が少しばかりケーキに落ちてしまっている。


 食べるのには苦労しそうだ。


「……あっ」


 片方の火が消えた。


 もう一つが消えてしまえば、この部屋は真っ暗だ。


「俺はな、映子」


 傑さんの横顔をみた、私は驚きでそこから目が離せなくなってしまう。だって彼の目には一筋涙が伝っていたのだから。


「お前が好きって言ってくれた時から、お前に惚れてた。そんな真正面から好きなんて言われたことなくて、それだけで俺は舞い上がっていた」


 え……?


「けれど、どうせ本当の俺のことなんて見てないとも思った。だから必要以上に映子のことをからかってしまった、けどお前はそれにも付き合ってくれた」


 頭に芽を生やして写真を取ったり、私をドキッとさせるようなことを言ってからかった。


「その時計も肌身離さず身に着けてくれるし、もしかして本当に俺のことが好きなんじゃないかなんて思ってしまった」


 なにを言ってるんだこの人は、最初からずっとそう言ってるじゃない。


「お前は素敵な女性だ、映子。だから俺は自分みたいな男じゃ釣り合わないって思った」


「え?」


「お前の友達にひどいことをしたこともある。それに俺は元より仕事を優先してしまう人間だ。いつかお前を傷つけるかもしれない」


 彼の顔にふざけた様子はない、本気で言っているんだ。


「そんな俺がお前の側にいたら、きっとお前を不幸にさせてしまう。だから転勤の話は早めにしなくてはいけないと思った」


「ごめんなさい、あの時は……」


「いいんだ、怒るのも無理ない」


 そう言って彼はまた黙った。


 あの時はここで会話が終わってしまった。


 彼が言葉を続けてくれなかったから。そして私が彼に先を言わせなかったから。


「でも」


 続きがあった。


「もし映子が、いいと言うなら」


 彼は意を決したように、一息で言う。


「俺と、付き合って欲しい――」


 その瞬間、ロウソクの明かりが消えた。同時、床に激しく倒れる音が響く。


 私が、傑さんを押し倒した音だ。


「んっ」


 暗闇の中、彼の顔に自分の顔を寄せる。

 彼は少し驚いたようだが、縋るようにきつく私の体に手を回す。


 けれど、それに構ってなどいられない。私は自分に足りないものを補うため、彼の唇を貪らなければならないのだから。


 傑さんは私になすがままにされていた。


 彼は唇で応えるより、私がここにいることを確かめることのほうが大事なのか、髪と体をきつく締めあげ続けていた。


 きっと、彼は寂しいんだ。


 人間と人間は一定の距離感を保っていて、偽りの自分を被っている彼は、人よりそれを遠くに感じていたのかもしれない。


 だから距離を測るのが下手だった。

 もう詰まり切ってるはずの距離にも不安を感じ、必要以上に確認をした。


 それが気に食わなかった。

 けどもう、それももう全部どうでもいい。


 私がいま欲しいのは彼の唾液で、それを口内から吸い出させてくれればそれでいい。だから代わりに彼が私を必要とし、距離をゼロにしたいというなら全部を差し出す。


 追いかけるばかりの好意は嫌だ。だから今日は彼に壊れるくらい必要とされたい。


 外側だけでは、物足りない。


「……っ、ねえ、傑さん?」


 彼は言葉を返さない。


「私、傑さんにめちゃくちゃにされたいです」


 ほとんどゼロの距離で、瞳を交わす。


「きっと、そうすると楽しいですよ?」


「……まるで、悪い女みたいだな」


「傑さんが言ったんですよ、楽しめるうちに楽しんでおけって」


 彼の唇をそっと舐める。


「そんな悪いこと、あなたが教えたんです。――だから私にもっと悪いこと、教えてくれませんか?」


 彼は苛立ったような目付きを見せた後、私の自由を奪った。


 散々遠回りした想いを熱源とし、攻撃的な愛情表現で昇華する。


 そんな世俗的なやり取り。


 私の腕に手を這わせ、腕時計を見つけると、ベルトを引き抜いて枕元に置いた。

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