8-4(4-26) 蜃気楼
埃っぽい階段を登り、鍵を開けて、ドアノブを回す。
開け放たれたドアから降り立つと、黄みがかったコンクリートが真夏の日光を反射して、陽炎を立ち昇らせている。
緑のフェンス越しには雲一つない遠い青空が広がり、時折吹きつける土の匂いを含んだ乾いた風が、前髪を揺らす。
先ほどまで耳に入っていた音は、なに一つ聞こえなくなっていた。部活動が昼休憩に入ったのかはわからない、けどなぜか此処は無音の空間だった。
まるで砂漠にいるような錯覚。
この景色に存在する人間は僕とエーコだけ。
ここからいくら進んでも同じ光景しか無く、振り向いても屋上の鉄扉なんて存在しない。
どこまでも無限に続く、黄色のコンクリートと、透き通るような青空。それでもフェンスの檻からは出られない、そんな空間に僕たちは閉じ込められていた。
「纏場は、さ」
音のない世界でエーコは呟く。
「あの日、どうしてここに来たの?」
振り向かずに、そう訊ねる。
エーコが聞いているのは、もちろん卒業式の日。
「なんで、だろうね」
僕は、嘘偽りない理由を口にする。
「わからないよ」
「……そう」
納得できるはずのない理由に、エーコは納得する。
”だって私もそうだから”
声のない声が聞こえた気がする。
「来たかったから、じゃないかな」
「ハッキリしないのね」
「うん」
会話になっているようで、会話になっていないやり取り。
でも、僕たちはその会話で成立している。
だっていまこの瞬間、この世界には僕とエーコしかいないのだから。
「――本当は転校したくなんかなかった」
陽炎が浮かび上がる。
いや、ここは砂漠なのだからそれは陽炎じゃない、蜃気楼だ。
存在しないもの。
言葉にしてはいけないもの。
でも他に誰もいないんだったら、それはそこに存在してもいいんじゃないかって思えた。
「でもこの学校に必要とされなかったから」
僕はこの学校を去った。
止める人はいない。
エーコは僕の前に立ち、背を向け続けている。
背中で僕の言葉を浴び続けていた。
「だからこの学校を離れたのは間違いじゃなかった」
あの時と同じだ、卒業式の日と。
ここには誰もいない。
誰もいないから言えることがある。
「優佳は励ましてくれた、僕にも後悔はなかった」
いまさら言ってもどうしようもない。
それに卒業式の日に言ったって、遅すぎた。
あの日、なにも言うつもりはなかったんだから。
「だから僕は心置きなく転校してしまえたんだ」
だけど僕はその気持ちを引っ張り出されてしまった。
あの時みたいに、エーコが僕の言いたいことを遮ろうとしなかったから。
「エーコ……!」
情けなく声を震わせてしまった。
そしていまから言うことはもっと情けない。
優佳にも吐かなかった、弱音。
「なんで、僕を引き止めて、くれなかったんだ?」
優佳には僕の味方をしないように言ってあった。
生徒会長として、これからも役目を果たしていくため。
”悪い人”を庇い立てすると、変な噂が立つ。
優佳に不利になる。
だから僕は味方を作らなかった。
そして学校から逃げ出した。
……けれど、もしエーコが僕の味方をしてくれていたなら。
…………僕に転校しない未来も、あったかもしれない。
二年の教室も、三年の教室もノスタルジーに溢れていて。
五感でこの学校を、一緒に楽しむことが出来たかもしれない。
でも、そうはならなかった。
僕たちはケンカをしたままだった。
あの日エーコに隠しごとをし、それを明かさなかったことで、くだらないケンカを続けた。
だからエーコが僕に味方をすることはなかった。
お互いに友達という足場が揺らいでいる関係の中で、そうすることができなかった。
「……ごめんなさい」
エーコは振り向いて、僕の目を見た。
「くだらないケンカを続けて、ごめんなさい」
深い後悔の色が滲んでいた。
「あなたの味方になれなくて、ごめんなさい」
それはあの日の謝罪じゃない。
生徒会室でケンカ別れしたことに対する謝罪じゃない。
同じ生徒会仲間として、放課後にお茶会をした友達として。
僕の味方にならなかったことに、謝った。
……エーコを今更苦しめて、僕はなにがしたいんだ。
こんなこと言ってもどうしようもないのはわかっていた。
でも僕は言ってしまった、言わされてしまった。
誰もいないのをいいことに、あの日言いたかったことを言ってしまった。
あの日わだかまっていたことを、引き出されてしまった。
――未練がましくも卒業式に参加しに来た僕の、醜い心を。
「いや、いいんだ。いいんだよ、エーコ。それは結局、僕が……」
「よくないっ!」
エーコは静寂を破った。
「どうして、そうやってすぐに許すの!?」
謝られたら許してあげないと、いけない。
「本当は怒ってるなら許さないでよ!」
そんな心無い許しを与えたことに、エーコは怒っている。
「だから、あの時に許さないで欲しかった」
先日、エーコに謝られ、僕はそれを許した。
「でも纏場、やっぱり怒ってた」
そうだ、僕は怒っていた。怒っていたことにも気付けなかった。
「だから纏場は怒るべきだった、私に。隠しごとなんて当たり前だって、それを強要する方がおかしいって」
あの時、黙っていた僕にエーコは怒った。
「そして悪いと思ってたなら、どうしてすぐに謝ってくれなかったのかって、そう怒って欲しかった!」
「怒って、欲しかった……?」
「そうよ、そうしてしてくれて、良かったのに」
もし、そんなことが起こっていたら。
別の未来があったかもしれない――
エーコと僕はあるべき友達の姿、なんて青臭い話題でケンカをする。
けど優佳にも絆され、エーコは僕に頭を下げ、僕もあっさり頭を下げて解決。
文化祭予算の件で、僕はドロボーとして悪者になる。
エーコが僕の悪い噂をする人を注意し、エーコも悪者にされる。
それに僕は逆ギレをし、噂を立てるやつと取っ組み合いのケンカをした。
そして力の弱い僕はぼろ負けし、エーコは真実を明かそうと言い出し、僕はそれを全力で止めさせ、またケンカをした。
気づいたらいつか噂は風化し、僕とエーコは二年生になる。
三年生になった優佳と傑先輩は引退し、エーコが生徒会長になり、優佳の計らいで新設された文化祭実行委員、その実行委員長に僕は任命される。
夏休みも登校し、部の予算編成や、市のボランティア活動にも駆り出された。
去年は不運な事故があった。
けど今年は文化祭を開催することができる。
去年作った自分たちの文化祭資料を見直し、今度こそ僕たちは見事に文化祭を成功させると意気込む。
そこにいる人たちはみんな笑顔で、OBが持って来てくれた差し入れで盛大に打ち上げをやった。
そして優佳と傑先輩は学校を卒業し、僕とエーコは三年になった。その時クラスなんかが初めて一緒になったりして。
受験勉強で同じ塾に行き夏期講習も一緒だったかもしれない。優佳たちを交えて勉強も教わったりもするんだ。僕と優佳が付きっ切りになると決まってエーコは不機嫌になる。そこにエーコの人間味を感じたりなんかして。
逆にエーコと優佳の仲の良さに僕は嫉妬をしたりもした。
でも腐れ縁となった僕は分かる。
エーコは僕に嫉妬をさせるために、わざと優佳と仲良く見せる節さえあることに。
そうして、一緒に卒業式を迎える。
僕らは屋上ではなく、体育館でしっかり卒業式に参加した。
エーコは卒業式の答辞を断ることなく、涙をひとかけらも流さず、相変わらずの仏頂面で淡々と答辞を終える。
腐れ縁になった僕らは『これからもよろしく』なんて照れ臭いことは言えず、たまに会う時は優佳を交えてでないと会うことはないんだ。
だってお互いの間に特別なものはなにもないのだから。
僕は優佳という恋人がいて、そしてエーコには傑先輩を好きな気持ちが残っていて。それを尊重し合って、これまで生きてきたはずなのだから。
そして僕らは今日、受験勉強の息抜きとして夕霞中に遊びに来ていた。
水上先生とも僕は挨拶をし、エーコと全ての教室を懐かしんだ。
エーコの聞き役に徹することなく、僕は自然と口を開き、エーコも聞き役に回った。
そして生徒会室が空っぽになるまで職員室で時間を潰し、夕暮れになった頃、僕らはそこに忍び込む。
エーコが生徒会長の席に座り、ひとしきりその空間を懐かしんだ後、僕らは次の約束もせず帰路につく。
間違っても屋上に行こうなんて言い出すことはない。
だってお互いにとって、そこはなんの縁もない場所なのだから。
――そんな、蜃気楼。
そこには充実した五年間が詰まっていた。
けれど僕たちは、なにをしているのだろうか。
あれから五年も経過したのに、未だに当時のケンカを続けていた。
どうしようもないくらい、馬鹿二人。
蜃気楼の中の僕らはあんなにも、あっさりと解決したのに。
そのことを未だに引き摺って、僕らは砂漠で取り残されている。
エーコは口を噤んだままだ。
再びこの世界から音がなくなってしまっていた。
今更、エーコを怒ったって意味もない。
その時、必要な時に怒ってこそ意味があったんだから。
だからその話を蒸し返したってしょうがない。蜃気楼は現実ではないのだから。
「なあ、エーコ」
顔を斜め下に向けていたエーコが視線だけ、こちらに寄越す。
「勝負をしよう」
「――は?」
怪訝そうな顔をする、当然だろう。
「僕が賭けるのは、優佳」
「……はあ!?」
「そしてエーコに賭けてもらうのは、僕のあげた第一ボタンだ」
エーコはなにも言わない、混乱しているのか呆れているのか。
「持って来てるんだろ?」
「……よく、わかったわね」
エーコはポケットに手を突っ込み、三年前にくれてやった第一ボタンを取り出す。
「でも、私は……」
僕は手を前にかざし、エーコの言葉を静止する。
「いいから」
エーコは僕の顔を黙って注視している。
「エーコが勝ったら優佳を手に入れることができる。そして僕が勝ったのなら第一ボタンを返してもらい、あの日のやり直しをする」
僕に言われたことの意味を咀嚼し、理解するや否や、喉を鳴らして腹を据える。
「ツッコミどころは、たくさんあるけど……」
空を仰ぎ、つまらなさそうな声を放る。
「いいじゃない、付き合ってあげるわよ」
不敵に笑い、僕の挑戦を受けた。
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