8-3 真夏の夕霞中学校
八月十四日の正午、僕はなぜか夕霞中へ訪れた。
「いや訪れたかったわけでもないけど」
「いいじゃない、たまには。いまなら気兼ねなく昔の思い出に浸れるわよ?」
「その通りなんだけど、僕は別に……」
「なに、なんか文句でもあんの?」
「……なんでもないです」
「に、してもこの資料室も見違えたわね、私たちがいた時は大違い」
「ということはエーコが卒業するまで、僕の知ってる資料室と変わらなかったわけだ?」
「そうね。私たちはそんなことしようとも思わなかったけど、後輩たちは必要だと思ったんじゃない?」
元生徒会長様はパイプ椅子に腰かけながら、見違えるように綺麗になった資料室を見回していた。
僕達の知っている資料室は薄暗く、部屋の隅にはクモの巣なんかが張っているお世辞にも綺麗とは言えない教室だった。けれどそれは時を重ねより汚くなるどころか、後輩たち(先生の指示かもしれない)が手を掛けて、リフォーム業者顔負けの清潔な一室へと生まれ変わっていた。
整然と並べられた長机にパイプ椅子、観葉植物なんかも置かれ、清潔な水色のカーテンが爽やかさを際立てている。
そんなエーコが身に纏っているのは東部瀬川高の制服に緑のスリッパ。対する僕は夕霞東高の制服を着ている。
OBといえど昨今の事情により、学校に入るのには事前の段取りが必要だ。
学校側に許可をもらったとしても、私服で入るのはいささか礼儀に欠ける。だから僕らの正装、つまりは高校の制服というわけだ。
「ったく、纏場が学校に事前承諾なんか入れるからこんなことに」
「当たり前だろ!? 中学の制服引っ張り出して、忍び込もうなんて言い出すほうがおかしいよ!」
「別にいいじゃない、そっちのほうが楽しそうで」
「そりゃ楽しそうかもしれないけど、僕はもう昔の制服なんて小さくて着れないよ!」
「なによそれ? 私が成長してないって言いたいの!?」
「そんなこと言ってないだろ!? 僕が持ってる夕霞中の学ランは一年の時のが最後なんだ、中三まで通ってたエーコとは違うだろ?」
エーコは中三まで夕霞中に通ってたんだ、だから成長に応じて制服を買い足したはずだ。
だからエーコの持ってる制服は三年前に着ていた物。
でも転校した僕が最後に袖を通したのは五年前だから、流石に着れるわけがない。
「だから転校先で来てたブレザーでもいいって言ったじゃない!」
「別々の制服で入ったら、忍び込んでもバレバレだろ!?」
「じゃ、いまから夕霞中の制服買いなさいよ!」
「そんなムチャクチャな……」
「まったく、妥協した私に少しは感謝して欲しいわね」
唇を尖らせながらエーコが言う。
なんで無茶を言ってる側がそんなに偉そうなんだ、オイ。
エーコは学校に事前承諾を取ったことを、だいぶ根に持っていた。
理由を決して語ろうとしないが、それはきっとエーコにとって大事なことだったのだろう。
そして僕は漠然とだけど、そのこだわりには感謝しなければ行けない気がした。
「それにしても、あっついわね」
エーコがワイシャツの裾をひらひらさせて、少しでも体の熱を逃がそうとしている。
「よりにもよって一番暑い時間を指定するからだろ? もっと涼しい時間でもよかったのに」
「別にいいじゃない、どうせ今日はなにもないんでしょ?」
「それは、そうだけどさ……」
一週間ほど前、エーコから電話をもらった。
内容は先日あった早朝での事件の謝罪。
そのことについては優佳とレイカとも話をし、和解をしているらしい。
それと僕にも迷惑をかけたことの謝られ、体を痛めてないか心配してくれた。
二人と話ができているなら僕がなにか言ったってしょうがない。
直接的に僕は関係ないのだから、二人が許せばそれでいい。
それを伝えたあと、僕らはしばらく雑談に興じた。
そして話の中でOBとして夕霞中へ遊びに行かないかと提案されたのだ。
やんわりと断ったのだが、なぜかエーコは頑として譲らず、結局お互いの予定が合う今日に決まったのだった。
エーコは椅子から立ち上がり、来客用スリッパを鳴らして窓際に立つ。クレセント錠を回し、熱の籠った資料室に風を流し込んだ。
水色のカーテンと共にエーコの後れ毛がはためいて、視覚的にも涼しさを感じられた。耳には少し音程を外した吹奏楽器の響きと、野球部の掛け声とミットを叩く乾いた音。
校庭の真砂土は日光の照り返しで黄色く光り、校門前を走る車は影を揺らがせながら通過する。
エーコは窓を開いたときのまま動かず、校庭をずっと眺めていた。その横顔には微笑んでいるような、泣き出しそうな、そんな色が滲んでいた。
……エーコと僕は、違う人間で、違う人生を歩んできた。
僕はエーコと同じ一年二学期から生徒会に入ったが、その後に転校し、転校先では部活に入らず、それからの夏休みは塾に通っていた。
対してエーコは生徒会書記としてその後も夕霞中に在籍し、翌年には生徒会長として抜擢され、長い時をこの中学校で過ごした。
夏休み中も登校し、優佳や生徒会仲間と共にここで過ごし、エアコンのない生徒会室で汗をかきながら、こうやって校庭を幾度となく眺めたのだろう。
そしてきっと、いまそうしたように窓を開け、風を浴び、音を聞いた。それがいまエーコの胸の中に懐かしさを呼び戻したんだ。
そこに僕の入り込む余地はない。
僕は、僕の事情で転校を選び、この学校で過ごすことを止めた。エーコとは生徒会活動を続けることなく、道をそれぞれ別にした。
もし文化祭がなにごともなく開催されていたら、僕はその後もエーコと共に夏休み中も登校し、文句を飛ばし合いながら生徒会で過ごしたのだろうか。
うだるような暑さと湿気の中で、仲間と共に汗をかいていたのだろうか。
……そんなこと想像しても詮無いこと。
僕はあくまでその時、その瞬間にそう判断して、いまこうして歩んできた自分に後悔をしていない。
もちろんあの時、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うことはたくさんある。
けどその失敗があったから、知ることができたこともある。だから後悔なんてしようがないんだ。
だから僕がいま感じているのは、きっと嫉妬のような感情だった。
夏休みの学校を五感で懐かしむことができるエーコが羨ましい。その隣で一緒に懐かしく思うことができなくて悔しい。
僕とエーコは生徒会室に残って、二人で何度かお茶会ならぬコーヒー会をした。その時、きっと僕はこの学校の誰よりも先に知ったはずなんだ。
大人しそうに見えて意外とおしゃべりで。
副会長を追っかけて生徒会に入っちゃうようなミーハーで。
相手の隠し事を聞くために、自分の恥ずかしいことを差し出すくらい不器用で。
感情が爆発すると自分でも抑えられないノーコンで。
机に肩肘をつき、斜に構えているように見えるのはポーズだけで、話してみればそんな人間味がたくさんある。
だからそのエーコが僕の知らないところで、色々な思い出を積み重ね、夏休みの学校を懐かしく思うのが悔しかった。
なんの役にも立たない、行き場もない、そんな感情。
その感情にきっと名前は与えられない、言葉にすることもない。言葉にして確かめてみることもない。
僕たちはもう子供じゃない。
言葉を選ぶことができる。
そしてその言葉を投げる相手を選ぶことを理解してる。
だから必要に応じて、言葉を我慢する。
もし言葉にして、意味が生まれてしまったら、不幸になるかもしれないから――
エーコは校庭から目を離し、こちらに視線を向けた。先ほどと変わらない寂しそうな笑顔だった。
けど僕はその顔を見てなんとなく思ってしまった。いまのエーコは、僕と同じだって。
過去の時間の中で見つけた、見つけてしまった自分の想いに当てられている。
それはきっと言葉にしてはいけないものだから。もうそれに向き合うことは許されないのだから。
だからそれを飲み込み、前に進むために彼女は笑顔を作る。
そして、僕は今更ながら気づいた。
今日のエーコは、メガネを掛けている。
それは校舎のシルエットより、リノリウム張りの廊下より、メガネを掛けたエーコの方が、僕にとって一番懐かしい夕霞中の姿だった。
---
夏休み中とはいえ、僕らが見学できる教室は少ない。
部室のない運動部員は自分の教室に私物を置くのだから、もしそれがなくなったとの騒ぎになれば僕らが第一容疑者だ。さすがにこの学校で二回もドロボー呼ばわりされたくない。
僕が一番この学校に居場所を感じるとしたら生徒会室だ。けれどエーコもそうしていたように、いまは現在の生徒会役員が絶賛活動中だ、それを邪魔して入るわけには行かない。
だから僕は半ばエーコに付き添う形で、エーコの見たいものに付き合っていた。
美術室、理科室、二年、三年の廊下と割と郷愁とは縁遠い教室……あ、渡り廊下は懐かしく感じられた。
エーコはその風景を眺め「ここのトイレ新しくなった」とか「こんなヒビあったっけ? 地震の影響?」とか僕には返しようのない言葉をたくさんかけてきた。
僕らの間には共通の思い出は少なく、一年生の時に同じクラスメートでもなかった。
けれど一年の廊下に立った時、僕にも少し込み上げる思いがあった。
『おい、諭史? 帰りにゲーセン行こうや?』
『纏場、君は本当に頭が悪いな』
『……いい加減そこでイチャつくのはやめてもらえる?』
『おっそ~い、サトシ! エーコちゃんとなにしてたの~!?』
『これは貸し、イチだかんね』
耳にそんな言葉たちが流れ込み、開け放たれた窓から吹き抜ける風と一緒に、知らないところへ流されていく。
僕はここにいて、楽しかったんだな。
ふと、そう思った。
結果だけ見れば、僕はこの学校を逃げ出すような形で出て行った。でも僕は人間だから、そういった嫌な記憶は都合よく忘れてしまう。
当時の僕からしてみれば、ずっと楽しい時間が続いていたわけじゃない。
けど脳という便利な装置はマイナスな感情を濾過してくれて、光り輝く日々だけを残してくれていた。
「なあ、エーコ」
「なに?」
仏頂面から出る声音に、少し期待のようなものが混じっていた。
ずっと聞き役に回っていた僕が、一年の教室に来た瞬間、口を開いたのでなにを言い出すか気になるのだろう。
「エーコって、水場で水を飲んだりしてた?」
僕はトイレ前にある上向きに回る、蛇口を指さして聞いてみた。
「なにを聞くかと思えば……そりゃ、喉乾いたら飲むでしょ」
「そうだよね」
でも、そうでもない。
高校に入ったら校内に自販機もあるし、昔みたいに体育が終わった後に水をがぶ飲みすることなんて少なくなった。
あの時飲んだ水道水が異様においしく感じたのは何故だろう。
「喉乾いたよね」
「……確かにいまはそんなことしなくなったわね」
「だろ? お金も勿体ないし」
エーコは肩をすくめて呆れて見せたけど、満更じゃない。
僕らは肩を並べて水場の水をがぶ飲みした。下げた頭から額を通して汗が流れ落ちる。
隣を見るとエーコが髪をかきあげながら、目を瞑って喉を鳴らしていた。
……なんか、こう、グッとくる仕草だ。
そして目が合う。
いぶかしそうな目付きに変わっていき、少し頬を染めた後「なに、見てんのよっ」と言い蛇口に親指を押し当てた。
「ぶはっ!!」
親指で潰された蛇口から、僕の顔に勢いよく水が吹き当てられる。
「こうやって少し頭も冷やしたほうがいいんじゃないの!?」
「やめて、悪かったから!」
ワイシャツが結構濡れてしまった、誰かに聞かれたら汗という事にしておこう……
それから僕たちは職員室に顔を出した。
「あら林さん、もう校内見学はいいのかしら?」
「はい、おかげ様で受験勉強の息抜きになりました」
「そう、それは良かった」
エーコが話しているのは現教頭先生の水上先生。
今回のOB訪問の許可をしてくれた先生で、エーコが中三の時に学年主任を務めていたらしい。
僕の知っている教頭先生は転校した翌年に別の公立中学に異動になった。雨の降る校庭を眺めながら、僕に人生訓をくれたあの先生だ。
先生に挨拶できると思っていただけに、それが唯一心残りだった。あの人は僕が本気で教師になろうと思った切っ掛けなのだから。
僕のことを知っている先生はだれ一人残っていない。
……深読みかもしれないけれど、エーコはそのことを知っているから今回の訪問を提案したのかもしれない。
「それで、もうひとつお借りしたい鍵があるんですけど……」
「あら、遠慮しないで言って?」
「じゃ、屋上の鍵をお借りします」
エーコはいつものような仏頂面で、そう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます