7-17 再会


 そうして――縁藤家のインターホンは鳴らされた。


 諭史が帰った後、思い出したように昼飯を掻きこんで、リビングのソファで昼寝をしていた時のことだった。


 時間は十七時半、雨はだいぶ前に止んだらしい。

 ベランダの縦太格子が夕焼けに照らされて、床に赤と黒のゼブラ模様を映し出している。


 朝早く起きたせいか、中途半端な昼寝だったせいか、体には気怠さが残っていた。


 その怠さもあって部屋の空気が重い。湿気も部屋の中に籠って、纏わりつくような感触が気持ちが悪い。とりあえずエアコンで除湿ボタンを押す。


 もう一度、インターホンが鳴る。

 なんとなく、だけど玄関口まで行きたくない。きっと訪問者は私に用事がある。


 漠然とそんな気がしていた。

 私は知り合いも少ないし、ましてや直接訪問してくる人なんて少ない。


 それでも根拠なんてないが、私宛ての訪問者であることは察することができた。


 だからこそ、出たくない。

 また私の周りがうんと変わってしまうことに、少しばかり疲れてきたから。


 ま、でも出ないわけにはいかないよね……またインターホンを押されたらアネキが起きてしまうかもしれないし。


 私は重い体を持ち上げて玄関に向かって行く。国営放送の集金だったらいいな、とか考えて。


「どなた様で……」


「……」


 目の前に立つ女性は口を開けたままで、硬直していた。


 栗色の髪の毛に、女性にしては高い身長、やや細めではあるがそこに鋭さはなく、目尻の柔らかさは温和な人柄を想像させる。


 その人の特徴一つ一つに目を向けるたび、少しずつ胸が早鐘を打つ。


 似てる……


 数時間前に諭史とした話を思い返していた。


 私でさえ、そう思ってしまったんだ。


 だったら目の前にいる人物の正体は……


「イェンファ……?」


「……マーマ」


 お母さん――李语嫣(リー・ゴエン)が、ゆっくりと私の体に腕を回し、優しく抱きしめる。


「イェンファ、大きくなりましたね」


「……うん」


「背の高さも、負けてしまいました」


 表情を綻ばせ、私の頬に片手を添える。つられて私の顔にも笑みが生まれる。


「お母さんも、元気そうでよかった」


「ハイ。それだけしかいいところ、ないですから」


 その薄めた目から一滴、涙が頬を伝う。私はその涙を拭おうとしたけど……やめる。


「そんなところにいないで、あがってよ」


「……ハイ、おじゃまします」


 私はドアを大きく開いて、実の母親を縁藤家に招き入れる。

 実の母親をこうして迎え入れながらも、私はどこか……他人事だった。


 もちろんお母さんが来てくれた、その事実に衝撃は受けている。


 本当に血が繋がってるんだとか、似ていると思ってしまうこともそうだし、自分から私に会いに来てくれたこともビックリだ。


 この縁藤家という場所に、お母さんが入ってきていること自体が、水と油が混ざりあわないような違和感をハッキリ感じてもいる。


 けれども私はその事実を、淡々と受け入れてしまえていた。


 アネキのおかげでいつか訪れることが分かっていた邂逅の時。無感動な私でも実際に会ったら取り乱してしまったり、泣いてしまったり、堪えていたなにかが爆発するのだろうと漠然と思っていた。けれどその時を迎えた私の心は平坦なままだった。


 もしかするとショックが大きくて、感情がショートしてしまっているのかもしれない。


 だいぶ前にテレビで生き別れの親子が再開する番組を見たことがある。その番組の中では母親と娘が泣きながら抱き合って再会を喜んでいた。


 私はあんなシーンを想像していた。長年思いを募らせた親子が出会ったら、テレビのような光景は現実に起こりえるんだろう、と。


 でも、それでも私は、実の母親との再会に、感動できなかった。


 だからこそ思ってしまう。

 私は自分が思っていたより、会いたかったわけではないのかもしれない、なんて……


---


 お母さんをダイニングチェアに掛けさせ、自分で淹れたこともない玉露なんて入れてみる。


 暇を持て余してか、収まりが悪いのか、お母さんは視線をきょろきょろとさせている。私にとっては珍しくもない光景だが、きっと本人にとってはそうではないのだろう。


 その横顔を見て、ふと思う。

 こんなに美しい人が私のお母さんなのか、って。


 当時の記憶は朧げで何年も顔を合わせていなかったし、記憶の中にいるお母さんはのっぺらぼうになっていた。その記憶が補完され、確かにこんな顔をしていたと思う反面、やはり現実感というものに欠いていた。


 似てる、とは思うけれど、仕草はお母さんの方が女性らしいし、私の粗暴な性格とは似ても似つかな……あっ湯呑から茶がこぼれた。


 その時、お母さんが私の視線に気づき、ニコっと笑って見せる。


 なんとなく気恥ずかしくなって、私は視線を落とす。……おいおい、私は初恋でもした中学生か?


 キッチンで零したお茶を拭き、お盆に二人分の湯呑と、先ほどもらった茶請けを運ぶ。


「イェンファ、体しっかりしてますね。手の力もツヨそうです」


 そう言ってお母さんは私の二の腕をぷにぷにと揉んで見せた。


「や、やめてくださいよっ、恥ずかしい」


「ふふ」


 お母さんが口元に手を当てて上品に笑っている。

 これはこれで親子っぽいのかな……少し離れて見ている私がそう思う。


「イェンファのこと、たくさん聞きました」


「聞いたって、誰に……ですか?」


「イェンファ、ワタシにケイゴしなくていいです。ワタシ、立派な人ではありませんから」


「そんなこと……」


「ありますよ。だってワタシはイェンファに会いたいと思いましたが、一人ではなんにもできなかったですから」


 少し視線を落とし、そんなことを口にする。


「最初に教えてくれたのは、ゆうかさん」


「……」


 私の姉、正確には義理の姉。

 縁藤家に迎えたいと言ってくれた一番最初の人。


 縁藤優佳。


 愚かにも自分の恋人に反対されるのを避けるため、嫌われるの覚悟でなにも言わずに隣国へ行ったヒト。


「急に会いに来られてビックリしました。お父さんとイェンファのことでケンカして、飛び出して来たって」


 アネキはついにお父さんと真っ向から衝突して家出、しかも私とお母さんを会わせる、会わせないの話で。


 なんだそりゃ、って感じだ。


 なんで私の話でケンカするのか意味不明だし、アネキもそれでお母さんの国に飛び立ち、許さないならあっちの子になると言い張ったと聞いている。


「ワタシもゆうかさんに言いました。エンドウさんに迷惑をかけるわけには行かないので、イェンファに会うのはあきらめますって」


「……それで?」


「ゆうかさん全然聞いてくれませんでした。イェンファに会ってくれないほうが困るので、絶対に帰らないって」


 困ったようにお母さんは笑う。


「そしてゆうかさんは本当にこっちに住み始めました、よく遊びに来てくれてイェンファのこと、いっぱい話しました」


「……ちなみに、どんなことを言ってたの?」


「それは……秘密です」


「なにそれこわい、教えてよ!?」


 身を乗り出して焦る私を見て、なお悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「ふふ、本当にゆうかさんの言う通りの子でした」


 ……アネキめ、なにを吹き込んだんだ!?


「そしてある日ワタシに電話がかかってきました。エンドウさんからイェンファに会ってもいいって。ゆうかさん本当にエンドウさんから許しをもらってしまいました」


 それには私も驚いた。


 アネキの帰ってきた日、それを全て聞いた時は放心状態だった。まさかアネキがそんなことのために、諭史を放って出て行ったなんて信じられなかった。


 だって、諭史はアネキの彼氏だぞ? いつもアネキは諭史にベタ惚れで、付きっ切りで、身内ひいき目にも甘々すぎて吐き戻しそうなくらい。


 それなのに三ヶ月もの間、諭史に連絡一本せず、私とお母さんが会えるように、働きかけていたなんて到底信じられなかった。


 でも事実、なのだろう。


 お母さんから受け取った手紙には、拙い日本語で謝罪と一緒に、会ってくれたら嬉しいという文章が添えられていた。


 私はそれを読んでお母さんに会ってもいいと思った。

 熱望した……というほどでもないけれど、大きな興味を持った。


 なによりアネキがそこまでして会わせようとした理由が知りたかった。

 本当は問いただせば教えてくれたのかもしれないし、自分から話すつもりもあったのかもしれない。


 でも聞けなかった。

 そこには大きなイレギュラーが生じていたから。


 アネキに、見られてしまった。

 私と、諭史がいま正に新しい道を選ぼうとした瞬間を。


 そしてアネキは諭史との同棲した家に戻らず、実家に帰ってきた。当然、私たちの間に会話はない。


 いや、本当はそこでケンカが起こらなければおかしかったのだろう。

 実際にそのことで衝突したのはついこの間の話だ。一ヶ月も遅れてのケンカ。


 アネキの暴れ方に、私はショックを受けた。私に手を上げたのも初めてだったし、まるで容赦というものがなかった。


 一ヶ月もの間、衝突せずに来たのも一つの原因だろう。

 売り言葉に買い言葉、本気でない言葉も相手に怒りをぶつけるためにいくらでも言うことができた。


 私はあの瞬間”アネキがアネキでなくなること”を覚悟した。結局アネキが家を出て行き、有耶無耶になってしまったけど。


 でもエーコに街から出て行けと言われた時には怒ってくれた。

 まだ怒ってくれるということは、まだアネキでいてくれるということだろうか。


「イェンファ?」


「え?」


「どうしたの、難しい顔をしてぼうっとしていましたけど」


「……ごめん、なんでもない」


 だいぶ考えが広がり過ぎていた。

 これはアネキが目を覚ましてから、直接話し合えばいいことだ。


 私は、アネキと仲直りをしたいと思っている。諭史のことで、許してもらえるかどうかはわからない。

 けれど許してもらえなかったら、その時はその時だ。


 どちらにしろ私は……家を出ようと思う。仲直りできた上で出るか出ないか、その違いだけだ。

 私がここにいるのは、エーコの言う通り二人に取って害でしかないのだから。



「――それで、ゆうかさんが帰ってからすぐに来たのがまとばさんと、すぐるさん。イェンファの友達って聞いてうれしかった、イェンファにもちゃんと友達いることが分かったから」


「……え、ちょっと待って、誰と誰って言った?」


「さとしさんと、すぐるさんですけど?」


「すぐるさんって、二階堂傑!?」


「たしかそういう名前です、イェンファの仕事仲間と聞きました」


 こともなげに言う。


「あいつも行ってたの!? 確かに連休を取っていたのは知ってたけど……」


 まさかその期間中、諭史と一緒にお母さんに会いに行っての? なんで?


「ちなみに二人からはどんな話を……」


「ふふ~それも秘密です」


 やっぱり……お母さんは楽しそうに笑っていたが、ややあって表情に影が落ちる。


「そうして、いっぱいイェンファの話聞きました」


「……お母さん?」


「ゆうかさんからも電話あって、イェンファが私に会いたいと言ってくれたのも聞きました。でもワタシはケジメとして、ちゃんと言わなければいけない思いました」


「言わなければ、ってなにを?」


 お母さんは椅子を引き、膝に手を当てて、頭を下げた。


「イェンファ、ごめんなさい」


「え?」


「ワタシのワガママで、あなたの心を乱してごめんなさい」


「ちょっ、やめてよ!」


「イェンファはきっとエンドウの人たち優しくて楽しかった。だけどワタシのことなんて思い出させて、きっと楽しくない気持ちになった」


「そんなこと……」


「でも、ゆうかさん、ワタシにイェンファと会ったほうがいいって言ってくれて、私も会いたくなってしまいました。だからイェンファの気持ちを考えないで、早く会いたくて来てしまった」


「……」


「ワタシ、あなたのことを自分勝手な都合でエンドウさんに預けてしまった。イェンファ、それで必ず幸せになるって思った」


 声には悔恨が滲み、膝の上の拳は震わせる。


「けど自分からエンドウさんに預けたのに、ワタシが考えることはもっと最低なものでした。だってイェンファが、他の家族の元で幸せになるの……悔しかった」


「悔しい……?」


「ワタシが大事に、大事に育てたイェンファが、他の人の家族になって。他の家族の元で笑顔になってしまうのが悔しかった」


 唇を噛み、瞳を濡らして。


「ワタシが悪いのわかってます。ワタシの弱さでイェンファを振り回してしまいました。……本当はイェンファの笑顔を見るのも怖かった、でもこうしてイェンファの顔を見れたら、そんなのどうでも良くなりました」


 改まって、こちらに視線を寄せて。


「お別れしたのに、いまさら会いに来てしまってごめんなさい。そして大きくなってくれて、ありがとう」


「……そんなこと」


「ワタシは、あなたにどんなに謝っても許されないです。だって愛する娘を他の人に任せるなんて、本当に好きだったらできないはずだから」


 そんなことない。私だって知ってる、その国の決まりだって。


「でも、イェンファ言ってくれました。ワタシのこと、マーマって言ってくれました」


「……うん」


「あの時、ワタシはやっぱりイェンファ手放すべきじゃなかったと思います。でも全部遅いです、そんなこと言ってもあなたはエンドウのイェンファ。ワタシはあなたを産んだだけで、あなたのお母さんと違います」


 一息にそう言い、自ら傷口を開いて見せるかのように、自分の罪を確かめる。


「だからワタシのことはお母さん言ってはいけません。本当のお父さん、お母さんに失礼ですから」


 これだけ後悔してると言いながら、縁藤家の両親を怒らせてはいけないと言う。


 自分の気持ちと、相手への感謝をしっかり分けて考えていなければ出来ないこと。


 感情的になりつつも、自分の気持ちを優先しない大人な考え方。


 いまだに感情に振り回され、その場しのぎで物を考えてしまうわたしにはできないこと。


 ――こんな人が私のお母さん。



 ……優しい人。


 そう思えた。


 同時に疑いようもなく私を捨てた人でもある。


 けれど、その背景は理解しているし、お母さんが嘘偽りなく私の存在を惜しんでくれているのは明らかだった。


 そのお母さんが目の前で、私に自分の罪を告白した。


 私は……それを聞き、どう思っているのだろうか。


 お母さんを許せない?


 そんなことはない、幼い頃の私はなにもわからなかっんだから。


 ただアネキに手を引かれて、気が付けば生活環境が変わっていた。


 そこに怒りも、悲しみも、嬉しさも、喜びも感じていなかった。


 お母さんと離れ離れになったとしても、そういうものだとしか思えなかった。


 極端に言ってしまえば、こうして当事者でありながら冷めた気持ちでいる私は”いまもわかっていない”のかもしれない。


 じゃあお母さんを許すのか? 怒っても憎んでもいないんだ、許せるに決まっているだろう?


 ……ちょっと待てよ、なんだそれ?


 なんで私は、自分自身のことにそんなに無関心なんだ? こうして実の母が目の前にいて、私に会いたかったと声を震わせているのに。


 私はお母さんを許せるか許せないか、組み立てて考えている。現実感が伴わないから? そんなのが理由で?


 ああ、私はなにを考えているんだろう? 別に怒ってないのだったら許す、それは当然のことじゃないか。


 それこそ笑いながら「気にしすぎ」って許してあげればいいじゃないか。……私はなにが気に食わなくて、こんなヒネた考え方をしているんだ?



「私も、お母さんに会えて、嬉しいよ」


 反射的に口からはそんな言葉が飛び出す。


「私も、アネキから会いたいか聞かれて真っ先に思った。お母さんに会いたい、って」


 ……本当に? 本当にそう思って口にしてるの?


「だって私を生んでくれた人だもん、会いたいと思うのは当然だよ」


 この場を綺麗にまとめるために、大人らしい対応をしようとしているだけじゃないか?


「でもお母さんの言う通り、私はこの縁藤家で生きてきた。それはお母さんと過ごした以上の長い時間」


 お母さんに会いたいと思っていたのは事実だ。


「私にとってのお母さんは縁藤のお母さん、それは変えられない。……でも、あなただってお母さんには違いないし、私をこの世に生んでくれた人なんだ」


 そうか。じゃあ、お前。

 なんでそんなに、冷めているんだ?


「だからお母さんと呼ばないで、って言われてもそれは聞けないよ。お母さんはお母さん。だから私はあなたのことを、ちゃんと”お母さん”と呼びたい」


 私はそうしてお約束とも言える、返事をした。


「イェンファ……ありがとう」


 お母さんはそれを聞いて、また一滴、涙を流す。


 そしてそれを離れたところから見つめる、第三の私。


 私はお母さんのこれまでを許した。


 でも私はそれに対して、とても冷めた気持ちでしかいられない。


 お母さんが涙を流すたび、私の心が冷えていくような気さえしてしまう。


 もちろん無理に感情的になる必要だってないはずだ。


 でも私が自分のことを冷めた人間だと思うたび、どんどんと後ろめたい気持ちになっていった。

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