7-15 ふっざけんな!!


 ほどなくして正午になった。

 あれからすぐに涙を拭うことはできたが、外は相変わらず雨模様のままだ。


 傑さんに「熱があるのだから寝ていろ」と言われたが「眠くありません」と言うとトイレに立ち上がり、戻ってきてからはまた背を向けてしまった。


 私はこのまま本当に寝てしまおうか考えた。ここで眠ってしまったら、起きた時に彼はいなくなってるだろうか?


 でも仕事を休んだって言ってた、だったら近くにいて欲しいと思うのはワガママかな?


 ……ワガママなんだろうな。


 だって傑さんにはそこまでする理由なんてない。私が好意を持っていたとしても、彼もそうであるとは限らないんだから。


 私たちの関係は、私が好意を告げたから始まった。そしてとても今更なのだけど、私たちはいま絶賛ケンカ中。


 朝の騒動があったから話が横に逸れてしまっていたけど、ひと段落着いてしまった以上、その問題と直面しなくてはいけない。


 傑さんはそんなの関係ないとばかりに、朝の件では話を聞いてくれて、挙句の果てには慰められてしまった。


 もちろん、そのことでは感謝してる。

 だけど先日の件は解決しておらず、私たちの間に溝は広がったままだ。


 私は決して転勤することに対して怒っているわけじゃない。しないで欲しいとは思っているけど、私が腹を立てたのは別にある。


『でも、もし私の自惚れじゃかったら、その……傑さんも私のこと少なからず、嫌じゃない、というか……』


『だから、もし傑さんも同じ気持ちでさえいてくれるなら。私、離れ離れになっても耐えられると思うんです』


 彼はそれに対して「……もう少し、考えさせてほしい」と口にした。


 本当はそれに対して腹を立てるのも筋違いなのだろう。だって私は彼に一方的に好意を持っているだけなのだから。


 それなのに返事をしてくれないからって、癇癪を起す女なんて何様のつもりだと思われても仕方ない。


 私に彼の転勤を止める権利もないし、事前に相談してもらえる関係にだってない。だから彼の転勤を告げるタイミングが、突然であったとしても不思議じゃない。


 それくらい私にだってわかってる、傑さんはなにも悪くない。


 だからそれを受け入れられず、我慢できない私だった以上、私たちの関係は終わったも同然だった。


 でも、なんで傑さんはここにいるんだろう。

 なんで仕事を休んでまで、私の側にいてくれるのだろう。


 変に期待させるのはやめて欲しい。

 これも意地悪の一つなんだろうか、だったら悪趣味なことこの上ない。


 風邪を引いた知り合いを放っておけないから? 落ち込んでいたから?


 いずれにせよ、仕事を休んでまですることじゃないはずだ。


 ……あれ? そもそも傑さんはどうして私の家の近くにいたんだっけ?



「エーコ、まだ起きてるか?」


「……はい」


 沈黙でやり過ごそうか考えたけど、返事をした。


「先日はすまなかった。エーコの気持ちも考えず、自分勝手な話をした」


「……」


 彼は背を向けたまま言葉を中空に放る、雨の音はもう聞こえなくなっていた。


「俺は知っての通り、自分勝手な人間だ」


 そんなの、知ってる。

 知った上で、私は恋に落ちた。


「自分の楽しいことを追い求め、その無理を利かせるため人に無茶なことだって要求する」


 そうでしょうね。

 傑さんにはいつでもペースを乱されるもの。


「俺は進学をしないで就職をした。親には反対されたが説得させた、おかげで半絶縁状態だけどな」


 ……なにそれ、初めて聞いた。でも彼らしい。


 傑さんはそこまでして強い要求を相手に飲ませた。そしてそれができるだけの人。だから最初から私なんかがお願いして、どうにかなるはずもなかった。


「でも自分が選んだ世界は素晴らしかった。毎日が楽しく、変化の日々だった、自分で勝ち取った世界に誇りもあった」


 私は目を瞑り、彼の言葉を耳にする。

 嬉しそうに話す声を聴いているだけで、私も少しばかり楽しい気持ちになる。


「そして変化は変化を呼んだ。ある日、旧知の後輩と少しずつ顔を合わせることが多くなった」


 ……?


「そしてその後輩は面白いんだ。突然、ウチで働きたいなんて言い出して、やんわり断ったら代わりに告白されてしまった」


「……なっ!?」


「旅行中に電話で進路相談されていたと思ったら、急に早く会いたいと言われた。そしてお土産を催促されて、その間は私のことを考えてて欲しいなんて言うんだ」


「ちょっと、傑さん!?」


「そうして仕事以外にも楽しいことが出来た。それは少しずつ大きくなって、俺の大切な時間になっていた」


「……」


「仕事の合間に来る連絡が嬉しかった。空いた時間で次会った時の話題を考えてた」


 信じられない。


「なにを渡したら喜んでもらえるか、考えるのも楽しいと気づけた。実際に渡した時、想像以上に喜んでもらえたのは忘れられないな」


 彼の中に、私がいる。


「それはいままで俺の人生にはなかったもので、俺はそれを失いたくないと思っている」


「ウソ」


「ウソなんか、つかない」


「だって傑さんの周りにはいつだって、誰かしら相手をしてくれる女の人がいるでしょう?」


 そう、彼はモテるんだ。


 だから私の他に頭を掠める人がいてもおかしくないし、それがわかってて彼に好意を告げた私も、彼のまわりにいる有象無象と変わらないんだ。


 もし私が離れていったとしても、きっと代わりになるような人だって……


「馬鹿か、お前は」


 傑さんはその時ようやく振り返って言った。


「俺にそんな仲のいい女性なんていない」


「ウソ!」


「だからウソなんてつかないと言っているだろう」


 彼の顔は少し呆れたような、困ったような、それでいて焦っているような必死さがあった。


「確かにそう誤解されることは多いが……恥ずかしい話、俺と特別な仲になった女性なんていない」


 彼は少し視線を落としながら、頬を掻く。


「本当に……? だって自分でも散々そう匂わせてたじゃないですか」


「そう思わせておいて、マイナスにはならないだろ? ……それに、なんだ。女性ウケがいいって思われた方が、なにかとイメージがいいし」


 私は吹き出してしまった、彼はなにを言ってるんだろう。


「わ、笑うな」


「笑ってませんよ」


「笑ってるじゃないか、年上を、馬鹿にするな」


「ふふ……すいません」


「映子、聞いてくれ」


 彼の言葉が、震えていた。


 いつものように飄々とした余裕がそこにはない。


 音が聞こえない、自分の心音がうるさい。


 顔が燃えるように熱い。


 早く、続きの話が聞きたい。


 よく見ると、彼も頬を赤らめ、汗をかいていた。


 ……傑さんも緊張してるんだ。

 

 なんで?


 私相手にそんな緊張してるの?


 ……期待を裏切られるのは嫌だ。


 だから私の勘違いなら早くそう言って欲しい。


 違う! 勘違いであって欲しくない!


 私は傑さんの方に身を乗り出した。


 彼がおもむろに私の手を握る。


 けれど握られた手なんてどうでもよかった。


 彼の顔から、目から、口から、視線が外せない。


 彼もまた私から視線を離さなかった。


 変わらず自分の心音がうるさい。


 それで彼の言葉を聞き逃したらどうするつもりだ。


 私は酸欠になりそうで大きく息を吸う、その呼吸も震えてしまった。


 彼の喉仏も、溜飲したような動きを見せる。


 そして彼は口を開いた。



 その先は私の望んでいた言葉を告げた……かもしれない。


 ”かもしれない”


 だから、そうはならなかった。


 だって、他でもない私が、その言葉を阻止したのだから。


「ありがとう、ございます」


 口を開いて、彼の発言を止めさせた。


「……映子?」


 彼は少し呆けた表情で、私の顔を覗き込んだ。


 訝しく思うのは当然だ。


 だって聞きたがっているはずの言葉を口にしようとしているのに、私がそれを止める理由なんてないはずなのだから。


 それでも口は勝手にそう動いていた、そうされてしまった。


 なんで……? 自分のしたことが自分でわからない。


 けれど、私には過去に同じような経験がある。


 考えてもいないことが口を衝いて出るなんて”電波な私”にとってはよくあること、だった……


「傑さんの言葉、とても嬉しかったです」


 私は自分の顔が心とは裏腹に笑顔になっていることが分かる。けど本当の私はいま狂おしいほどにその先を聞きたがっている。


 でも、きっと私はその電波に逆らえない。


「でも私も色々考えて、先に清算しなきゃいけないことがあったって思い出したんです」


 なに、それ……そんなの初耳よ。


「だからそれが終わるまで……少し待ってもらえませんか?」


 なに勝手に保留にしてんのよ! ふざけないで!?


「それは……すぐに終わるのか?」


 状況の変化についていけない傑さんが、自分自身にいい聞かせるように私に訊ねる。


「多分、もうすぐ全部のピースが当てはまるから」


「エーコの言いたいことはよくわからないが……わかった。俺だってお前を振り回したんだ、それくらいは待つつもりだ」


「ありがとうございます」


 そうして私はうっすらとほほ笑む。


 私の本心は納得しないまま、私の意志を置き去りにして。

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