7-11 勝者のいないケンカ
「レイカさん、あなたは一人じゃなくても大丈夫なんでしょう? だったらお願いだから夕霞から出て行って、少しでも彼らの幸せを願う気持ちがあるなら」
私が、この町を出る?
「牛木さんの会社、西にも支社を立てるのでしょう? ちょうどいいわ、あなたもそこで働けばいいじゃない」
この国、この町で育った私が?
「それとも産みのお母さんの国に戻って一緒に暮らすのもいいかも。実のお母さんだもの、纏場や優佳さん以上に優しくしてくれるかもしれないわよ?」
知らない土地で過ごす……その考えはなにか空恐ろしいことのように思えた。
「すぐにが難しいなら私がお金を貸してあげたっていい。でも心配いらないわよね? あなたは一人でだって生きていけるのだから」
エーコはもうそれが決まったことであるかのように話を続ける。
「……なんで、私が出ていかなきゃいけないんだよ」
「当たり前でしょ? 私の大切な人たちに害をなすヒトだから」
エーコは表情一つ変えずにそんなことを言ってのける。
――紫色の空はいつの間にか夕方のように赤くなり、頭上には隆々とした雲がそびえ立っていた。
時折吹く風は横に強く、湿気を多分に含んでいて近くないうちに降るぞ、と伝えてくる。
「優佳さんの前から、いなくなれ」
そんな風の吹く音に混ざり、エーコは呟くように、それでいてハッキリとした意志を持つ声で言った。
「あなたがいると、優佳さんと纏場が幸せになれない」
いまだ私に胸元を抑えられているというのに、エーコの瞳からは変わらぬ強い視線が私を捉えていた。
「私のことが殴りたければ殴ればいい。でも殴って気が済んだら二人の前に現れないで」
私はこの視線に抗えるほどの強い意志を持っているだろうか?
対抗できる意志を持って、この町に住み続けたいと言えるだろうか?
それはどんな理由で?
そもそも私が一人で生きていけるなんてウソなんだ。
それともやっぱり一人では生きていけませんと言うのか? そんなの無理だ。
「さっさと答えを聞かせて、そろそろ雨が降り出しそうだわ」
エーコが呆れたような口調で答えを急かす。
本当は感情に任せて平手を張りたい衝動に駆られた。
けれどその時に響く、自分の心への痛みをまた味わいたくはなかった。
「……私は」
雨が降り出す。
日が昇っても太陽が顔を出すことはない。
雲間から零れる屈折した陽光は、赤と黒を混ぜっ返したような不気味な色で私を照らす。
その中で誰かの代わりに泣き出した雨が、なにも出来ない私と、私以外の幸せを願う誰かの頬を打ち付ける。
もう……いいか。
どうせ捨て石にしかならない人生だ。
それなら自分に絶望する日を迎えるより、他人に言われるがままにしていた方がいくらか楽だ。
姉が幸せになるために自分が一歩下がる。
これって文字面だけ見ればカッコイイじゃないか?
こうして私は自分で考えるのを止め、また他人に頼るのだろう。これまでと一緒だ。
私の希望は、私が決めることは、できないのだから。
「……勝手なことばかり、言うなっ!」
その声は頭上から降り注いだ。
いつもの彼女からは決して発しないような、糾弾の色を含んで。
「これ、どういうことなの!?」
私とエーコはその声に従って、二階のとある部屋の窓を見上げる。
「……優佳さん」
「エーコちゃん、わたしそんなこと頼んだ!?」
窓の開いた先に、欄干から身を乗り出したアネキの姿があった。
怒気を孕んだ目と声の鋭さに、エーコは射竦められていた。もうエーコの目には、私を圧していた時の力強さはない。
「なんで勝手なことをするの!? これはわたしとレイカの問題でしょ? エーコちゃんには関係ない!」
言葉を受けるたびにエーコは体を震わせて、アネキの一挙一動に怯えの様相を見せていた。
「……全部を選ぼうとするのは、ワガママなんですよ」
その時、エーコはアネキに聞こえないような声でそう呟いた。
そして息を吸い、頭上に声を返す。
「優佳さんはそこで黙って見ててください!」
「……なにをするの?」
エーコは素早く私の方に振り向き、先ほどのように詰め寄る。
そして階上のアネキにも聞こえるように声を張り上げて叫んだ。
「縁藤レイカ! あなたは一人で生きていけると言った! いつまでも周りに甘えるのはやめなさい!」
それは先ほどのやり直し。
「本当に一人で生きていけると言うのなら、夕霞から出て行って! あなたが周りに甘えるせいで、みんなが不幸になっているの!」
エーコの独断で、アネキには知らせずに私を追い出そうとしていた。
「さあ? どうなの!? 返事をしなさいっ!」
けれどエーコは方法を改めた。その宣言にアネキを立ち会わせるという方法に。
エーコは改めて私を見据える、そこに怯えた色はもうなかった。
……私は、その視線を受け、一つ溜息をついた。
もう心は決まっている、あとは二人の前でそれを口にするだけ。
「ふざけないでっ、レイカ! そんなの絶対聞いちゃダメっ!」
アネキが激しく喚き立てる。
「エーコちゃん、いますぐ撤回して! レイカにそんなことさせたら、絶対に許さないんだからっ!」
欄干を大きく揺らし、身を大きく乗り出す。
私は最後までそんなことを口にするアネキの姿を見る。
髪をボサボサにし、焦燥し切った青白い顔。
そんなアネキの顔を見て、なにか少し可笑しくなる。
けど安心してくれ、アネキがもう私のことで……
――なにかが外れるような音と、鉄のひしゃげるような音。
怒りに染まっていたアネキの顔が、驚きに変わる。
アネキの体があり得ない方向に、下に、アネキを乗せて、欄干が、落ちていく。
砂利を打つ雨音の中、その光景だけが切り取られたようにゆっくりと動く。
私は、駆けた。
砂利を踏みしめて階下の、着地点目指して走る。
けれど結果は当然だ。
間に合うわけが無い。
だって私はその落下するシーンを目撃してから動いている。
二階から一階に人が落ちるのなんて、五秒も必要ない。
これがもっと高いところから落ちてくるのであれば、もう少し猶予があったのに。
けれどそんなイフは存在しない。
だから当然のようにアネキは、掴んだままの欄干と一緒に、地面に叩きつけられるのだろう。
そうして私はまたこの数ヶ月同様、アネキのいなくなった生活を過ごすのだろうか。
また諭史と一緒に住む生活が始まるのだろうか。
もし始まったとして前のような楽しい生活は送れるだろうか。
無理だ。
それで迎えた生活は以前と違い過ぎる。
アネキがいない世界。決定的にアネキがいない世界。
その世界で私が……いや、諭史が、以前のような笑顔を浮かべて生活なんて出来るはずがない。
そこにあるのは深い悲しみだけだ。傷を舐めあうような生活すら始まらない、抱えきれない悲しみ。
エーコはそれこそ自分の責任で失ってしまったものに、途方に暮れるだろう。おおよそ人ひとりが抱えるには、大きすぎる責任。
そして私の前から消えてしまう一人の姉。
あまりにも大きい存在、私の近くにいつもあった存在。私がきっとこの国に、夕霞に来て一番側にいた存在。
いつでも笑顔で側にいてくれて、わたしのことを気に掛けてくれた。
それがいなくなってしまう……?
いなくなったら、どうなるのだろうか……?
アネキはそもそも諭史と一緒に暮らすということで既に家を離れていた。
それはアネキが私の国に、一人で向かう前からそうだ。
もちろんアネキは家族で近くにいて当たり前の存在だった。だからアネキがいなくなったら家はどんなに静かになるだろう、と不安にもなった。
けれどいなくなっても、普通に生活することができた。
だからそれもあって私は思ったんだ。
なんだ、私も知らない間に自立できたんだ、って。
でも、いまだったら分かる。
それは私の中でどこかにアネキがいてくれるという安心感からだった。
だってそうだろう?
私が無気力になって諭史に依存してしまった原因の一つは、アネキが行方不明という不安感から始まったものなんだ。
私が将来に希望を持てずに高校も中退し、一人でいた時もアネキはいつだって優しかった。
だから私は折れずにここまで来ることができたし、牛木社長の元でだって働こうと思うくらいには前向きだった。
もし、またアネキがいなくなってしまったら?
きっと私はまた無気力になってしまうだろうと思う。
そしてその時は諭史が側にいてくれたが、その諭史も私に相手するどころではなくなるだろう。
つまりは完全な終わりだった。
それがいま、始まろうとしている。
私がどんなに手を伸ばしても、私の手でそれを救うことは出来ない。
だからもう出来ることは一つだけだった。
「誰かッ! お願い!!」
私は世界に向かって願う。
「アネキを、助けてッ!」
世界から見放された私の願い。
いまこの瞬間だけでいいから、私に味方して……!
大きく風が吹く。それは私にとっては横薙ぎの風でしかない。
けれど、それは誰かにとっての追い風――
地面に欄干が叩き付けられる轟音。
大きく跳ね返り、鉄屑となったそれは転がって、音を立てて横倒しになる。
けれど立てた音は、それだけ。
聞いてはいけない、鈍く潰れるような音は、響かない。
横薙ぎの風を受け――落下するアネキの姿を抱きとめた影。
受け止められた当の本人は、目を白黒させて現れた人影の顔を呆然と見つめる。
「痛いところは、ない?」
「……サト、シ?」
私の願いが届いたのかどうかは、わからない。
けれど間違いなく救世主は現れて、アネキを、私たちを救ってくれた。
諭史はその場に突然現れたとしか思えなかった。
そこにいた理由も、なぜ駆けつけることが出来たのかもわからない。
ただその場にいた私たちが認識できたのは”アネキが助かった”という事実だけだ。
私は駆けだしていた足を、そのままに二人の元へ駆け寄る。
エーコはその場から一歩も動けず、腰を抜かして座り込んでしまった。
「わたし、助かった……?」
「優佳に痛いところがなければね、大丈夫?」
「うん、わたし、痛くない、どこも痛くないよぉ……」
そう言って急に安心したのか、諭史の腕に顔をうずめる。
その躰を両手で受け止めた諭史は、優しい目でアネキの頭を撫でる。
「諭史。あんた、なんで……」
「訳あって、僕たちも近くに来てたんだ」
そう言って諭史は後方にかぶりを振ると、麻のワイシャツを雨に濡らしたニッカがこちらへ歩み寄っていた。
「ニッカも……?」
「ああ、優佳とエーコに用があって来てたんだ。けどついた時にはレイカとエーコがいて」
「……聞いてたのね」
「ああ、ごめん」
諭史は少しバツの悪そうな表情を見せる。
「……いいよ」
けれど、この窮地に手を差し伸べてくれた本人に、文句を言えるはずもない。
「サトシ」
泣いていたアネキは顔を上げ、ある一点を指さしていた。
そこには雨に打たれて呆然と腰を抜かしているエーコ。
そしてニッカがいま正にエーコの元へと付いたところだった。諭史はアネキを抱きかかえたまま、促されるままにエーコの元へと歩み寄っていく。
エーコは近くに寄ったニッカのことなんか見えていないように、歩み寄ってくる諭史とアネキを眺めていた。
近くに寄った諭史が歩みを止めた。
必然的に腰を抜かして座り込むエーコは、抱きかかえられたままのアネキを見上げる形になる。
「エーコちゃん」
「……」
「わたし、本当に怒ってるから」
「……はい」
オウム返しのように繰り返すエーコ。
「レイカは私の大切な家族、知ってるでしょ……?」
「……はい」
「じゃあ、なんでこんなことしたの?」
「すみ、ません」
「謝って欲しいんじゃないの……なんで、どうし……っ!」
そう言うとアネキは激しく咳き込み始めた。
まだ風邪は治まっていない、体を冷やし過ぎるのは不味いはずだ。
「傑さん……傘をお願いできますか」
まだ腰の上がらないエーコは、ニッカを促して玄関口に傘を取りに行かせた。ビニール傘は私が受け取り、両手の塞がった諭史とアネキを雨空から遮る。
諭史はアネキの背中をさすり、少しでも発作を抑えようとしていた。
「諭史、レイカ。わたし、家に帰る」
アネキは声を掠れさせながらそう言った。
「優佳さん……」
エーコが見上げながらアネキの顔を仰ぐ。
「……」
けれどアネキがその言葉に応えることは無く、子供のようにそっぽを向く。
諭史と私は、顔を見合わせて頷いた。
「いまは優佳を暖かいところで寝かせてやりたい。傑さん、後をお願いしていいですか」
「ああ……」
傑さんはしゃがみ込んだままのエーコに目配せをして頷いた。
雨は一段と激しくなり始めた。
体調を崩しているアネキにとって、この天候は辛いはずだ。
私と諭史は踵を返し、二人の元を後にする。
アネキはその後、エーコに声をかけることはなかった。
僅かに振り返るとエーコは傘も差さず、アネキの後ろ姿を呆然と眺めていた。
まるで親鳥に見捨てられた、雛。
その少女は先ほど私をこの町から出ていけと言い放った、敵と言っても過言じゃない存在だった。
けれど私はそんな敵なんかには抱くはずもない感情が去来する。
可哀想、と。
そして落ち着くに連れ、エーコが最後に発した質問を思い出す。
私はその質問を打ち返さなかった。
横槍が入ったいま、応えはもう必要とされていないかもしれない。
けれどその時に出した回答は、私の中で次第に波紋を広げ、心の中を占める全てになっていた。
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