7-5 少しは大人になったから
カグラ
『あさって、トッシ~に会わせたい人がいんだけど』
その連絡をもらったのは優佳の”返事”に呆然とし、なにも考えられず呆けていた日の夜。
おそらく僕はヤケになっていたのだろう。
特になにとも誰とも聞かず、なんとなくその返事に承諾をしていた。
キーワードは、八月一日、二十一時、駅前北口
けど、少しばかり冷静になった僕は”駅前”という集合場所に軽く首を傾げる。
華暖と、駅前?
なぜ? それに会わせたい人という言葉も気になる。
まさか合コンにでも混ぜられるんじゃないだろうかと、内心冷や冷やしつつも、僕はその誘いを断ろうとは思えなかった。華暖には世話になっているというのもそうだけど、このまま家で腐っていてもなにも好転しない。それが一番怖かった。
あれから優佳とは連絡を取っていない。
もちろん、あのとき話したことは僕を大いに悩ませてはいたが、一つの可能性として優佳が拒絶することだって、考えていなかったわけではない。
それに李さんと会えた日の夜、僕は覚悟を決めていた。なにがあっても優佳には誠実であろうって。
いま優佳の信頼は失ってしまっている、けどそれはもう変えられない過去だ。だったらあとはそれを挽回するしかない。
開き直りにも見えるかもしれないが、それで構わない。一度やると決めたものがあれば、割と愚直になれると気づいたのは最近のことだ。
いまの僕にはこれからしかない。だったら過ぎてしまった過去をいつまでも悔いていても仕方ない。
僕はポケットにスマホと財布だけを入れて家を後にした。
月明かりが綺麗で、雨が降らないことだけ確信して表に出た。
---
夕霞駅前に着くと、スーツ姿の疲れた顔が駅からぞろぞろと出てきた。
彼らに夏休みなどないのだろう。Tシャツ一枚、手ぶらで自らこの場に訪れるような僕は、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
ロータリーに数本植えられている街路樹は、夏真っ盛りということもあり、街灯に照らされ一本一本が青々とした輝きを放っている。
夕霞駅前のロ-タリーはさほど広くない。
車の通りも多くなく、皆が徒歩で帰れる距離か、自転車、もしくはバスでの帰宅がほとんどだ。
そんな雑踏の中、辺りを見回したが華暖らしき人影はない。
どうせ華暖のことだ。
結構に派手な格好をしてるだろう、この夜の中でも一際目立つはずだ。
それが見当たらないということは、どこかで避暑がてらにコンビニにでもいるのか。
僕はスマホを取り出し、華暖に電話を掛ける。ワンコールで繋がった。
「華暖? いま着いたとこだけど」
「お? トッシ~来たぁ?」
「うん、いまどこ」
「駅前~♪」
「……めんどくさいから、どこにいるか教えて」
「なあによ~! ノリ悪い! 近くに屋台があるの見える?」
「屋台?」
僕は顔を上げて辺りを見回す。
するとやや離れた公園の近くに、赤い暖簾のかかった屋台があった。そこに……なるほど、ショートパンツのおしりが見える。華暖だろう。
「なんで、屋台?」
「い~から! い~から! こっち来て」
そう言うなり一方的に電話を切られる。
僕はいま一度首を傾げながら、おしりがあるほうへ向かう。
その屋台は焼き鳥屋だった。
簡単に夕食を済ませた後だったが、タレを焦がした香ばしい匂いに、否が応でも舌の上で唾液が踊る。
客は華暖だけのようだったので、暖簾を分けて隣に腰かける。
「トッシ~、きゃほ~」
胸元の大きく開いた白無地のTシャツ、ショートパンツを穿いた華暖が手を振った。
少し、髪が伸びただろうか? そのせいか華暖は珍しく後ろ纏めのポニーテールにしていた。
耳元の蒼いピアスが屋台の照明にきらりと光り、またそれでいて首筋が大きく見えて……うん、夏だ。
「はい、こんばんは。……それで会わせたいって言うのは?」
「そんなことよりぃ、まずは注文でしょ~? おっちゃん!モモと砂肝二本ずつ、シオでよろ~」
華暖が話を無視して勝手に注文する。
「あいよ! あと言っちゃおくが、オレはまだおっちゃんってトシでもねぇぞ」
対面の店員さんがやたら厳つい声を上げる。
「はっは~、気にしない気にしない! そっちの方が雰囲気出るっしょ?」
そんな声にも物怖じせず華暖はなにが楽しいか、陽気に笑う。
「って、華暖それ……」
僕は華暖の前に置かれたモノを指さす。そこにあるのは、皿、二本の串、そして空になったジョッキ……
「はは~♪」
「はは~、じゃないだろ! まったく、待ち合わせより早く来てると思ったら……!」
「堅いこと言わない~、それにトッシ~もアタシに会えて嬉しいでしょ?」
華暖がそう言っておしりをずらし、僕の隣にべったりと密着する。
「トッシ~さ、来て早々、アタシのこと舐めまわすよ~に見てたよね?」
「な、なんのことでしょう?」
「誤魔化してもムダ~、女の子は男の視線にビンカンなんだから」
そう言って下から覗き込むように顔を近づけてくる。
夏の暑さのせいなのか、それともジョッキから摂取した成分のせいか、華暖の顔色はいつもより紅潮していた。
薄く開いた甘えるような瞳が、構図的にどうあっても上目遣いになり、対し見下ろす僕の視線は、どうしても豊かに実った果実に落ちていく。
「ふふ、カタくなっちゃってカワイ~」
「こ、こら……店員さんも見てるから」
「きゃっ、それって店員が見てなかったらいいってコト~?」
華暖がそう言って笑いながら正面に向き直る。
「まったくトッシ~ってほんと、チョロ~♪ でも落ちないとかホント、ムカつく~♪」
「……返しにすごく困るんですけど、そしてその節は本当に申し訳ありません」
「イイってコトよ~」
華暖が大げさにそう答えると、正面から筋肉質な腕と共に、焼き上がった串が差し出された。
「オイオイ、久しぶりに顔見たと思ったら、なにオンナの尻に敷かれてんだぁ?」
その言葉は僕に向けられていた。
「え、はい、すみません……って!」
その店員さんの顔、どこかで聞いたような厳つい声、そして僕の頭を掴んだこともある、筋肉質の腕……
「久しぶりだな坊主。相変わらず冴えないツラしてんなぁ?」
「巌……さん?」
「よく覚えてるじゃねぇか」
そう言って数年ぶりに見る岩石のようなゴツい顔に、不格好な笑いが滲んでいた。巌さんは甚兵衛にねじり鉢巻きなんかつけて、それこそ本場の焼鳥職人に見えた。
牛木巌。一岳のお兄さんで、傑先輩とレイカのとこの社長だ。
「はっは~、なに言ってんの! いわおに~のゴツい顔面見て忘れるヤツなんかいないっしょ?」
「ちょ、ちょっと、華暖!?」
あまりに失礼な物言いに外野の僕が背筋を凍らせる。
「黙れや華暖、学校にジョッキとのツーショット写メでも送ってやろうか?」
「そんなことしたら、提供したこの店もバレて終わりじゃ~ん」
「ちっ、黙って食え」
粗暴なやり取りだったが、ある程度見知った者同士の、根っこがあるコミュニケーションだった。
「えっと、お兄さんと華暖って知り合いなんですか?」
「そ~よ? 言ってなかったっけ? ってわざわざ明かすようなタイミングも無かったと思うけど?」
「ああ、親父たちが知り合い、家族ぐるみってヤツだな」
そう言って淡々と金網を交換するお兄さん。
なんていうか、意外も意外……でも当人同士はきっと当たり前なんだろう。
だってそうじゃないか、それこそ僕と縁藤家の関係とまったくの同じだ。
「というかお兄さん、派遣会社の社長って聞いたんですけれど?」
「ああ、そっちがもちろん本業よ。こっちはいわば趣味、だな」
「いわおに~はね? このナリで結構料理が上手いんだわ」
「このナリ言うな」
華暖にツッコミを入れつつ、串に鶏肉を詰めていく。肉の刺し方にもコツがあるんだろう、細切れにされた鶏肉の位置を何度も変えて、一つ一つ丁寧に串に通していく。
あの大きな手でそれだけ繊細な作業が出来るのだから、相当に熟練されているのだろう。
「おい坊主もチンタラ食ってねぇで、次を頼めよ?」
「は、はい! ねぎま二本!」
「はいよ!」
そうして作業に戻るお兄さん。僕はその手さばきを見ながら、今日の目的を思い出していた。
「それで華暖、ひょっとして会わせたい人ってのは……?」
「バ~カ、違うわよ。ここでいわおに~が出てきたんなら、あとは分かるっしょ?」
「……まさか、とは思うけど」
その時、後ろに掛かってる暖簾が大きく開けた。
「オ~イィ!! 着いたぜぇ!! あとなんかシケったのがいたから釣って来たぞォ?」
「遅いわよ~カズ!」
「……大声を出すな、俺はいまそんな気分じゃない」
そこに現れたのは、懐かしい顔と、つい最近見た顔。
「オウ! 諭史、久しぶりィ~!」
「かず、たけ……?」
片手を上げ必要以上に大声を上げる猿顔の男。いつでも騒がしく、あるときから全く関わらなくなってしまった元、友人。
短髪は度が過ぎてそのままスキンヘッドになっており、顔についた傷がヤツの人生を物語っている。
牛木一岳、夕霞中に在校していた時の男友達。僕が転校する原因でもあり、数々のトラブルの元になった男だった。
そんな一岳が、昔のように声をかけてきた理由が分からない。
それは嫌悪感とか、敵意とかそう言ったものでは無く、純粋に不思議だった。
「ヘッヘ、来て早々悪ぃな、華暖。ちょっと諭史借りるわ」
「はいよ~すぐ返してね」
「……僕は華暖のモノのつもりはないんだけど」
そんな僕の発言は華麗にスルー。
「ああ、かわりにその間コレで遊んでてくれ」
と一岳は無気力なワイシャツメガネの男を、華暖の隣に座らせる。
「なになに~なんでスグルさん、そんなにテンション低いわけ~」
「そうだよ! なんで傑先輩が一岳と一緒に来たんです!?」
既に色々な驚きが舞い降りてきているが、その中でもそれが今日一番の驚きであった。
「うるさいぞ、諭史。俺が巌さんのとこで働いているのであれば、一岳と交流があっても不思議じゃあるまい」
「……まあ、確かにそうですけど」
「オイ、いいから諭史ちょっとツラ貸せや」
そう言って親指を暖簾の外に向ける一岳は、口ぶりの割にやや神妙な面持ちだった。だから僕も余計なことは考えずに一岳の誘いに乗ることができた。
---
近くの公園に向けてお互い歩を進めていった。
その間に一岳は口を開かなかったし、僕も口を開けなかった。
両手を後頭部に組み、黙って歩く一岳の後ろに従いながら、彼の頭上に広がる星空を眺めていた。
夏の大三角が見える。
前に空を眺めたときは、そこに天の川が差し掛かっていたころだ。
あの頃に胸にあった気持ちはどこへ行ったのだろうか。いま思い出そうとしてもあの頃の光景は、まるで夢だったんじゃないかと思える。
いま僕は同じ空を眺めているのに、心の中にあるものは全く違う。状況もなにもかもすべてが変わってしまった。
こうして一岳と一緒にいるのだってそうだ。なにがどうして、一岳とまた話す機会が訪れるなんて思っただろうか。
夜の公園に当然人影はなく、時間を弁えない蝉が一、二匹鳴いている。後ろでは華暖の笑い声が僅かに聞こえた。
華暖は信頼できる女の子だ。
それだけで僕が一岳についてくる理由は十分だった。
いや、それが無かったとしても僕は。
「……悪かったな」
一岳は足を止め、空を見上げながらそう呟いた。
「いろいろ言わなきゃいけねぇ、って考えてたんだけどよ。なんかどれも言い訳クサくなっちまってダメだな」
「なんで、いまになって?」
「ホントだよな、オレっちも不思議だ。でもなんだかな、そんな昔のことでも。思い出しちまうことが多くてな」
一岳はサンダルで足を刷らせ、足元の砂利を鳴らす。
「それがスッキリしなかった……そんだけが理由よ」
それを聞いた、僕が思うことは一つだけだった。
「…………お前、この歳になっても、まだ”オレっち”とか言ってんのな」
「うっせぇよ」
一岳はバツの悪そうな顔をする。
そしてまだ話の途中だったのを思い出したのか、続けて口を開く。
「まぁ……だからそのなんだ。いまさらだけど全部ひっくるめて悪かった」
その言葉を口にしながらも一岳は目を合わせようとしない。
「ケツ拭いなんかもさせちまった、いま思うとあの頃のオレっちは、自分でデカいことをしてみたかったんだよ」
言い訳しないと言いつつ、言い訳みたいな言葉が結局漏れ出てくる。相変わらずどうしようもなくて、不器用な奴だとため息さえ出そうだ。
「だからよ、こうして頭下げっからさ。できればお前も……」
続く言葉は聞く必要がないと思った。
だって一言それを口にしたら、もう終わりだ。それが一番であることを、僕は知ったから。
「なあ、一岳」
一岳は手を後ろに組んだまま、双眸を向けた。僅かに彼の顔に緊張が走っているのが見える。
僕はそれがおかしくて、笑ってしまった。
「なに……笑ってやがる」
だって僕たちは男同士だ。いまさら恥ずかしい言葉なんて交わしたくない。
「じゃあ、今日はお前の奢りでいいんだな?」
一岳の顔から似合わない、真面目な顔が消えた。
「全部なかったことにしよう、その代わり覚悟しておけよ?」
「……ああ、もちろんだ。好きなだけ食ってけよ!」
そう言って一岳は、昔となんら変わらない暑苦しい笑顔を見せた。
僕はそれに釣られて笑う。
――これでいいんだ。
一岳はさっきの遠慮がなかったかのように、僕の肩を強引に組んで屋台の方へ向かって行く。
「一岳、お前汗くさいな、風呂入ってんのかよ」
「入ってるに決まってっだろ! 昨日は諸事情でサボっちまったけど」
「ふざけんなっ、この時期に毎日入らないとか頭おかしいだろ」
「相変わらず小せぇヤツだな~、んなだからいつまでも童貞なんだよ」
「どどどど、童貞ちゃうわ!」
「お、そうなん? そのあたり詳しく聞かせろよ~」
僕はウザ絡みにため息を付きながらも、悪くない気持ちだった。そうして屋台の方を眺めると、傑先輩のしょぼくれた背中が見える。
心の中でその背中に向けて、小さくお礼を言う。あのとき先輩がああ言ってくれなければ、いまの僕はこうしていないだろうから。
---
屋台に戻った僕は開口一番こう叫んだ。
「ちゅうも~く! 今日はなんと一岳の奢りで~す!」
「オイ諭史、ふざけんなっ、オレっちが言ったのはお前の分……」
「……みんな、奢りだよな?」
僕は出来る限り、目ヂカラを込めて一岳に視線を向ける。
「あぁ~もう分かったよ! 好きにしやがれっ!!」
「よっ、男前!」
僕がそう持ち上げると、それに呼応するのは華暖の黄色い声。
「キャ~マジ? 今日カズの奢りなん? どうしたの、いっつもケチくさいアンタがオゴりなんて?」
「うるせぇ、お前にも奢ってやっから一発ヤらせろ!」
「え~無理っしょ、アンタ半端なく汗くさいし。つ~かなに隣に座ろうとしてんの、アタシの隣はトッシ~なんだから」
「こんのクソアマァ……」
そう言いながらも席を移動する一岳。
……誰も言わないが、この場では間違いなくヒエラルキー最下層だった。
こうして席順は左から順に、華暖・僕・先輩・一岳と並ぶことになった。
「おう一岳、勘定は全部お前につけりゃいいのか?」
お兄さんが顔を覗かせて弟に聞く。
「あぁ、そうしてくれ、癪だがよ。金足ん無くなるかもしんないから、そん時はオレっちになんか仕事流してくれ」
そのとき伏せっていた傑先輩が、ガバッと顔を上げて一岳の方を向く。
「それならお前にぴったりの仕事がある。都心沿線でのマグロ漁だ、一匹当たり××万円になる」
「お、おう……さすがにそれは、後ろ向きに考えさせてくれ」
「それって都市伝説ですよね!? お願いだからそうだと言って!?」
牛木興業がクリーンな会社だと思っていた僕は、流石にそうツッコまざるを得ない。
「ね~、いわおに~ジョッキおかわり!」
「オレっちも、一杯くれ」
「お、おい、二人とも!?」
「俺にも頼む」
「傑先輩まで!?」
僕以外の全員が、ジョッキ……中身の詳細は諸事情により言えないが、金色の稲穂から絞られた彩りが、グラスを通して屋台の一区画に立ち並ぶ。
「おい、諭史……まさか飲まないのか」
傑先輩が一際驚いた顔で僕の顔を覗き込む。なんでそんな不思議そうな顔をするんだ?
「いや、まあだって僕はね? 一応これまで通しで真面目な人間で通ってるワケで……」
「女姉妹を両手に侍らせといて、今更なにを言っている」
「はいは~い! アタシも唆されました~!」
「なにぃっ、けしからんぞ諭史ィ!」
華暖が僕の腕に抱きつき、先輩が拳でテーブルを叩いて怒り出す。現地はもはや混沌の様相を見せ始めています……
「先輩、もう酔ってるんですか!?」
「ごちゃごちゃ抜かしてないでさっさと飲もうぜ」
しびれを切らせた一岳が巌さんに追加のジョッキを注文する。
「おう。ほら坊主、お前の分だ」
そうして目の前に表面張力の説明にピッタリな液体が用意される。
「あ~わかったよ! どうせ奢りなんだ今日は飲み食い散らかしてやる!」
「ヘッヘ、そうこなくちゃな。それじゃぁ~! 色々あったけど今日も一日お疲れッ!」
「「「「乾杯っ!」」」」
冷たい金の稲穂汁でのどを潤す四人組。
それをカウンター越しに眺める巌の見せる穏やかな顔は、後にも先にも彼らが知ることは無いだろう。
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