7-2 私、優佳さんの番人になります
優佳さんは昨日あったことを話してくれた。
勇気を出して纏場に会いに行ったこと、纏場とお互いの非を認め合ったこと。けれど……纏場のことを信用できず、レイカさんとのことを責め立ててしまったこと。
家に戻ってからも優佳さんは自分を抑えることができなかった。
レイカさんに纏場とのことで詰め寄って、手を上げたこと。自分の嫉妬心をぶつけ、家に帰って来なければ良かった、とさえ言ってしまったこと。
それを口にした優佳さんの顔はひたすら無表情で……いや、それは必死に感情を抑えようとしたためだ。
昨日あれだけ感情的になってしまったんだ。一日足らずで冷静になれるはずがない。
それを私に話すにあたって、必死に心を抑えてくれたのだ。自分のことなのに、優佳さんはどこまでも大人であろうとしていた。
私はそれを聞きながら、ずっと優佳さんの手を握っていた。少しばかりの震えには気づかないふりをしながら。
……私は早速一つの後悔をしていた。
優佳さんと会ったのは一昨日、そのときに私はなんて言っただろうか?
『早く纏場と仲直りしてください』
なんて無責任なんだろうか、優佳さんだって少なからずそうしたいと思ってたに違いない。
そして行動して、大きく足を踏み外してしまった。現に優佳さんは言っていたじゃないか。
『会って、どうしたらいいか分からないの。いまは少し落ち着いて考えたいの、一人で』
それを急かしてしまった、私の下手な催促のせいで。
「ごめんなさい……」
私の口からは自然と謝罪の言葉が零れ落ちた。
「どうしてエーコちゃんがあやまるの?」
「だって優佳さんも必死に考えていたのに、私が焦らせてしまったから」
「ううん、違う。わたしもああ言ってもらえて良かった。だって確かにこのままだったら、ずうっと考えたまま時が過ぎてしまったかもしれない」
そう言って優佳さんは握り合っている手に、もう片方の手を添える。
「だから私は感謝してるの。少なくともわたし一人だったら行動を起こせなかった。サトシと非を認め合うことさえできなかった」
そう言って優佳さんが笑う。
いけない……優佳さんにまた気を遣わせてしまっている。このままだと、いつもの私と同じだ。
私が、優佳さんを支えられる存在にならないと。
「優佳さん。念のため確認しますけれど、纏場と別れたいわけじゃないですよね?」
私は優佳さんの目をしっかり捉え、そう問いただす。
優佳さんはやや顔を俯かせ、少しばかり考え込んでいる様子だった。
……頼むから、別れたいなんて言わないで欲しい。
私が前向きに恋愛なんてものをしてみようと思ったのは、優佳さんと纏場の二人を見ていたからだ。
それはあくまで恋に恋するような感覚なのかもしれないけれど、傑さんとの関係にここまで踏み出せたのは、やはり二人の関係に対する憧れがあったからだ。
だからこそ二人には別れないで欲しいというのが、私のワガママであり本音だ。
でも優佳さんがノーと言うのであれば、私はやはりそれを認めてあげるしかない。
私はあくまで優佳さんの味方。
纏場はいい人だと思う、こんな私ともまだ友達でいてくれている。
けれど、それでもやはり優佳さんと比べてしまうと、私は優佳さんの味方をせざるを得ない。
これはどちらの方が大切かとか、そういう次元の問題ではない。
だから纏場が優佳さんとの復縁を望んでいて、優佳さんが望まないのであれば、私は優佳さんを支持するだろう。
復縁できたとしても、きっと大変だろう。これまでになかった辛いことがたくさん待っているに違いない。
でも優佳さんと纏場がそれを望んでいて、両方同時に応援してあげられるほうが、いいに決まっている。
優佳さんは俯いたままでいる。私はそれを根気よく待つ。
そして――優佳さんは、口を開いた。
「…………うん、わたし、まだサトシのことが好き」
優佳さんは瞳を潤ませ、頬を赤らめながら言った。
「お別れなんて、ぜったい、したくないよ……」
「優佳さんっ」
私の目にまで涙が浮かんでしまう。
よかった……胸中はその想いでいっぱいになる。
「ふふっ。エーコちゃん、泣いてる。おかしいの」
私はティッシュ箱を手繰り寄せ鼻をかんだ。優佳さんにも箱を手渡し、同じように鼻をかむ。
「そうだ、忘れる前に飲んでおかないと」
そう言って優佳さんは、自分のバッグから薬を取り出した。
「それが、さっき言ってた……」
「うん。ちょっと呼吸器を痛めてるから。いまの熱も昨日にたくさん咳をしてしまったのが原因だと思う」
そう言って、たくさんの錠剤を飲み干していく。
これも家出をした時の”遺産”だった。
隣の国で社会問題にもなっている大気汚染。
そこに優佳さんは一人で滞在し、ついにはレイカさんの母親と、自分の父親を和解させたという。
中学の時から思っていたが、優佳さんの行動力は普通じゃない。なにか問題があってもすぐに解決できてしまうんではないかとさえ思う。
けれどそんな優佳さんも、いまは立ち止まってしまっている。ひどく個人的で、そしてどこにでもありそうな話。
でも、だからなのかもしれない。人のために動ける優佳さんだからこそ、自分のことに無頓着なってしまうのかも。
私にできることは決して多くない。でも、それを支えられる立場にいるのはきっと私しかいない。
いまこそ優佳さんに受けてきた恩を返すチャンスなんだ。
「それで、優佳さんっ!」
「は、はい!」
背筋をシャキッと伸ばした優佳さんが、慌てた顔で私の方を見る。
「纏場を、ここに呼び出しちゃいましょう!」
「え!?」
「話はとてもシンプルです! 優佳さんも纏場も以前の関係を望むのであれば、お互いそれをしっかり口にしましょう」
「ちょ、ちょっとまって、エーコちゃん!?」
「きっと纏場も優佳さんと気持ちは同じはず。でしたら迷うことはありません、すぐにでも呼び出して迎えに来てもらいましょう!」
「ストップ、ストーップ!」
優佳さんがかすれた声で私の進言を静止させる。
「なんですか、優佳さん。質問は最後にしてください?」
「あ、あのね? ちょっと話の展開についていけないんだけど」
「展開もなにも、解決に向かって一番手っ取り早い方法とるのは、定石かと思いますけど」
そう、この手が一番解決に向かう早い方法なんだ。
だって私は知っている。
先日、纏場からもらった電話で、彼はレイカさんではなく優佳さんを選ぶと言った。
だからお互いからすると相手の気持ちがわからず、不安が生じてしまっているかもしれない。でも私の位置からは元に戻りたがっていることが見えている。
「……本当はこういうこと言ってはいけないんだと思います」
「エーコちゃん?」
「でも、私には一刻も早くあなた達に元に戻って欲しい。だから私はあえて言わせてもらいます」
「……」
「纏場はレイカさんを選ぶことはないと言いました、そして優佳さん、あなたとこれからも暮らしていきたいと」
「…………」
言ってしまった。
きっとそれは当人同士にしか許されない種明かし。
外野の私が口にしてはいけない話だ。
けれど、構わないじゃないか。
だってそんなの、既に見えた結果じゃないか。
優佳さんが纏場に会いに行った、そしてお互いの非を認め合った。
けれど会話の流れでケンカをしてしまった。
まずかったのはそれくらいなんだ。
だから次はお互い気を付ければ大丈夫。
そして優佳さんたちは……
「ごめん、その方法だと、上手く行かないと思うんだ」
「え?」
優佳さんは少し困ったように笑う。
「わたしね、エーコちゃんが思ってるより大人じゃないの」
「それは、どういう……」
「わたし、レイカとキスしそうだったことが……許せないみたいなの。いままでは真っ直ぐサトシのこと好きだったけれど、それを見て少しばかりひねくれてしまったみたい」
優佳さんが、許せない?
「レイカとサトシってね、小さい頃からお互いのことしか見てないの。だからわたしが入ったところで、お互いの視線は外せない」
優佳さんは天井を仰ぎながら、笑顔を浮かべながら他人事のようにそれを語る。
「それはもう引力みたいに当然なもの。それが分かってたから負けたくなくて、わたしは先にサトシへ想いを告げた」
その話は意外というより、信じられない話だった。
サトシは優佳さんより、レイカさんに惹かれていた……?
「受け入れてくれたサトシと過ごした日々は楽しかった。けれど、わたしがいなかった期間……そう、三ヶ月もあればお互いを引き合わせるには十分だった」
優佳さんとの絆が、三ヶ月でひっくり返る?
「わたしはこの五年間ずっと不安だった。サトシとレイカがいつか惹きあってしまうんじゃないかって」
あの楽しそうにしていた優佳さんは、裏でそんな心配をいつもしていたって言うの……?
「そもそもサトシが本当のお母さん、李さんを許さなかったのだって、レイカを守る! って過剰な意識からだもの。そう考えたら分かりやすいよね」
レイカさんにこだわり続ける纏場。
そしてそれを側で見ていることしか出来ない優佳さん。
「そしてわたしはサトシを説得させることはできなかった。わたしはね、レイカに正面から勝つことはできないの」
そんなことを、言わないで欲しい。
いつでも自信に満ち溢れていた優佳さんで、いて欲しい。
「だからサトシは口ではしっかりわたしのことを話してくれる、態度でも示してくれる。……でもね、そうじゃないの。わたしは、きっと、サトシの”本能”を信じてあげられないんだ」
私は、いまはじめて問題の大きさを知る。
優佳さんは、心が折れてしまっていた。
纏場を一番信じてあげたくて、それに応えられている纏場もいるのに。
近くでいた優佳さんでしか気づけないものに、絶望してしまっている。
纏場とレイカさんの、引力みたいなもの。
惹きあってしまう巡りあわせのようなもの。
まるで世界が纏場とレイカさんを引き合わせようとする、意志のようなもの。
そんなものに優佳さんの心は折られていた。
「だからね、きっといまサトシに会っても同じだと思う。わたし、サトシにまたひどいことを言ってしまう、目も合わせられないかもしれない」
「そんな……」
「こんなこと言って、もうサトシのこと嫌いみたいだよね? でもね、そうじゃないの。そんなことできっこないの。だってわたしの半分はサトシでできてるようなものだから」
優佳さんの人生の半分以上は纏場と共にある。そしてそこまで想っている相手を、嫌いになるなんてありえない。
「わたし、エーコちゃんが思っているより大人じゃない」
優佳さんは肩を落としながら、悲しい笑いを浮かべる。
「わかっていても、できないことってあるんだね。わたしも初めて知ったよ……」
「それじゃ……」
「うん、サトシにはしばらく会えない。いつまでかは分からない。わたしが会えるって思うことができる、その日まで」
ああ、まただ。
私の手からなにかがするする抜けていく。
この、どうしようもない、と思ってしまう気持ち。
私は無力で、結局流されるまま、なにも決めることがでない。
優佳さんは窓越しに灰色の世界に目を向ける。
「穏やかな、雨……」
優佳さんはなにを思ってそう言ったのか。
私の目には穏やかに見えない、土砂降りの雨に。
先ほどの子供たちは窓からは見えなくなっていた。
いつか本当に降り止むのだろうか、この雨は。
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しばらくしてお腹をいっぱいにさせた優佳さんはまた眠りについた。
人の寝ている部屋で勉強するのは忍びなかったので、私はリビングに勉強道具を移動し、大学の赤本を開いていた。
頭には決して集中力が訪れず、一つの言葉だけがそれを邪魔をし続けていた。
それは優佳さんが口にした「この五年間ずっと不安だった」という言葉だ。
纏場のことを語る優佳さんはいつでも楽しそうで、人のことを好きになるとはそんなにも人を綺麗にするんだ、と常日頃思っていた。
けれど優佳さんはその間もずっと不安だと口にしていた。
そして、思ってしまう。私はどうなんだろうって。
私はいま傑さんに恋をしていて、そしてその恋は自惚れじゃなく、いい方に向かっているんじゃないかと思っている。
けれどあの優佳さんですら、その相手に不安を持ってしまっているのだ。
容姿も良くて、仕事もできて、それで社交的な彼。
過去には女性の影も見え隠れしているし、そんな彼に私が全面の信頼を寄せられるのだろうか?
……自信が持てなかった。
むしろ、なぜ彼が私の告白に付き合ってくれているのか疑問なくらいだ。
私はスマホを取り出して、傑さんと一緒に頭から”発芽”している写メを開く。
情けない、私はこれを開くだけで心がむずがゆくなってしまう。
傑さんとは先日に腕時計をもらって以来、一度も会えていなかった。
思えば随分と会っていない気もしたけれど、日数にしてみればまだ一週間も経っていない。
そういえば……私は前回の別れ際に、今度は自分から誘うなんて口にしておいて、行く場所とかプランもなにも考えていなかった。
そもそも忙しい彼をどこか……それこそ海沿いの大きい遊園地なんかに誘っても、時間が取れるのかどうかも分からない。
むしろそんなこと気にしないで、空気を読まず思い切って誘ってしまえばいいのだろうか?
変なことでどうしてもウニウニ悩んでしまう。でもその時間もどうやら私は楽しんでいるようだった。
優佳さんの言だと、恋人ができるということは表裏一体で不安な時間も共にあるのだと言う。
私と傑さんは、まだそんなことに心配する段階にはない。そもそもスタート地点にも経てていないのだから。
そんな気持ちが少しはやり過ぎたのかもしれない、気付けば私はそのままの気持ちで先輩にLINEしていた。
え~こ
「あした、夕食なんてどうですか?」
送ってから私は先日、傑さんにお代を出してもらったのを思い出した。
え~こ
「先日、ごちそうしてもらったので、今回は私に出させてください」
まるで今回もせびるような物言いがイヤで、付け足しみたいになってしまったが追加でそう送った。実際に付け足し以外の何物でもないのだけれど。
そして送り終わったあと、もう一人LINEを送らなければいけない人物がいたのを思い出した。
縁藤
『急にごめんなさい、優佳の妹のレイカです。うちの姉、もしかしたらそっちに泊まってたりしませんか?』
え~こ
「どうも。昨日は私の家に泊まりました。熱も少しあったので、少し休ませてます」
縁藤
『本当!? ごめんなさい迷惑かけて。すぐに迎えに行きます、住所教えてもらっていい?』
今朝のやりとりだった。
カグラには預かって欲しいと聞いたことにしているけど、実際は違う。ケンカとは言え、優佳さんに暴力を加えたレイカさんを、私が会わせたくないだけだ。
それに追加でもう一言メッセージが入っていた。
縁藤
『もし見たら返信ください』
私はレイカさんとなにかあったのだろうと思い、迎えに来てもらうとしても優佳さんの判断を仰いでからにしようと返事を保留した。
そして話を聞く限り、どうも私からは連絡するのは得策じゃなさそうだった。
きっと優佳さんにはそれ以上にたくさんの連絡が来ているだろう。
優佳さんからなにも言い出さなかった以上、きっとレイカさんの迎えには応じないつもりだ。
だったら私が勝手にレイカさんを呼んではいけない。
優佳さんはいつでも私を受け入れてくれる優しい存在だった、だから私も優佳さんが辛い時くらい、優佳さんにとって安らげる存在でありたかった。
……それに私はレイカさんに少し腹を立てていた。一方的に連絡を送ってきて、住所を聞いてきて、催促をして。そして優佳さんとケンカをしたことを私に黙って。
これまでの数年間、優佳さんがレイカさんの話をする時はいつも楽しそうだった。
たとえ纏場とレイカさんが惹きあってしまう不安があったとしても、妹を好きだという気持ちとはしっかり分けられていた。
けれどレイカさんのメッセージは……なにか冷たい。
別にレイカさんに「わぁ、よかった! ありがとうございます」なんて言われたいわけじゃないけど、どうもいい印象を持つことができなかった。
優佳さんの味方である私にとって、そのメッセージは敵が探りに来ている、くらいの異物に感じられた。
雨は未だに降り止まないまま。
でも、私に出来るのは、その雨を止めようとする努力だった。
え~こ
「ごめんなさい、私の口からは言えません。優佳さんから許可をもらえたら、お教えすることにします」
それから、スマホをおやすみモードに設定しておいた。
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