6-24 妹想いの、姉


 アネキは私の髪を掴んで、そのまま横に平手で殴りつける。


 殴られた衝撃で、頬の内側が切れたのが分かった。


「レイカっ!」


 アネキはもう一度腕を振りあげる。

 が、咄嗟に私の手が前に出て、アネキを薄暗い部屋の中に突き飛ばしていた。


 フローリングの床に尻から着地したアネキは、体を起こし怒りをあらわにする。


「いったい、なぁ……!」


「それは、こっちのセリフだよ!」


 アネキから距離が取れたことで、私は恐怖からの金縛りが解かれた。


「なんでレイカはウソばかりつくの!」


「ウソじゃないって言ってんだろ!」


 私はアネキに怯えていたことが無かったように、頭に血が上らせていた。


 ……アネキに殴られたのなんて初めてだ。けれど、そんなことより私の言うことを信じなかった、姉に対する苛立ちが私の怯えを無くしていた。


「レイカがサトシのことを好きなのは見ててわかるの! 別に恥ずかしいことじゃない、なんでそれを隠して都合のいい言葉ばかり並べるの!?」


「だから、違うつってんだろ!」


 私の大声にもアネキはまったく怯まない。


「なんで認めないの? ここで好きじゃないって言えば、わたしにサトシを返して丸く収まると思った? それでわたしがどう思うかなんて分からないの!?」


「本当に諭史を好いてなんていない! それに諭史だって私のことなんか好いてやいない、だから安心すればいいだろ!」


「レイカ、本当にわたしをバカにしてたのね。ううん、それよりサトシの気持ちだって、バカにしているのに気付かないの!?」


「なにもバカになんてしてねえよ。アネキこそ、なに人のこと分かったふりしてんだよ。勝手に勘違いしてるんじゃねえよ!」


 その言葉に激昂したアネキが向かってくる。

 けれどアネキの手が掴みかかる前に、手を取っ組み返して力で押し返す――が、足に鋭い痛みが走る、指を踏みつけられた。


「痛ってぇな!」


 私は再度アネキを押し返そうとするが、逆にその手を引き寄せられ、アネキが背を向ける。


 気づくと部屋が一回転していた。背中から床に引き倒され、息が止まった後――さらに横腹に衝撃が走る。


 ……アネキの爪先が入ったようだ。


 そのまま横倒しになった私の上に、アネキが馬乗りになり、髪を引っ張りながら顔に殴りかかる。


「許せない、許せない許せないっ! あなたがそう言うことで私がどう思うか分からないの!? それじゃレイカに負けたわたしがバカみたいじゃない!」


 言いながら何度も顔に拳を振り下ろす。


「アネキこそどうして信じないんだ!? 言葉通りに受け止めろよ! 私なんてどうでもいいだろう!? そして諭史と勝手に仲良くやればいいじゃないか!」


「なれるわけないでしょ! だってサトシとレイカはずっと昔からお互い好きあってるんだから! なにもしなくてもずっと相思相愛なの! わたしが恋人として過ごしてきた五年が無駄になるくらいっ!」


「…………アネキ」


 殴りかかってくるアネキの手が止まる、代わりに降ってくるのは目いっぱいに湛えた涙。


「わたしね、レイカに勝てないことは分かってた。でもサトシを好きな気持ちは絶対負けないって思ってる、だからわたしなりに頑張ったんだよ? だけど、五年かけて過ごしてきた恋人としての日々も、あなたたちの数か月で水に流れてしまうくらいだったの……」


 ぽつりぽつりと心情を吐露する、姉。


「だからね。わたし絶対に認めたくないけど、レイカがサトシを好きってことさえ認めてくれれば……あきらめられるかもって思った」


 自分が愛する人を……家族に取られる? そんなことさえ覚悟したって言うのか?


「でも、なに……? それどころかレイカも、サトシもお互い好き合ってないって言い張られちゃったら、わたし、もうどうしたらいいの……?」


 アネキは、あきらめたいのだろうか……?


 どうやら私と諭史が好き合っていると、本気で思いこんでいるようだった。そしてアネキの過ごした五年が無駄になるほど、それが深いものであると。


 そんなことは、ありえない。

 仮に私と諭史が好き合っていたとして、その五年に匹敵するモノなんて私たちには存在しない。


 私は、本当の意味でアネキの気持ちになることなんて出来ない。

 けれど自分が負けだと思い込んでいるのに、人に勝ちを譲られるということは、確かに屈辱でしかないということは、バカな私にも理解できそうだった。


 だが、それを理由に私がサトシと付き合うなんてことも無理に決まっている。だから私はアネキが勘違いだと認めるまで、諭史への好意を否定し続けなければならない。


「もう嫌だあ……」


 アネキが私に跨りながら、自分の頭を両手で押さえつけた。


「こんな思いをするなら……帰って来なければよかった」


 ――瞬間、私の手が伸び、目の前にある頬を張り付けていた。


 張られてたアネキは呆気にとられ、自分がなにされたのかも理解できていなかった。惚けた顔のまま視線を宙に浮かせたまま、自分の頬を抑え「いたい……」とだけ口にする。


 私は激情に任せアネキを押し倒し、逆にマウントを取った。

 抵抗はほとんどなく、仰向けになったアネキの右手を脛で抑えつけ、片膝立ちの恰好でアネキを見下ろす。


 そして私の口からは自然と言葉が滑り落ちてくる。


「いま、なんて言った!?」


 言われてそれまで怯えすら見せなかったアネキに、初めて動揺が走った。


「私がなあ……諭史がどれだけあんたのこと心配したと思ってるんだ! それを帰って来なければよかった、だって?」


 目の前にある金糸のような薄い髪を掴む。

 片目を閉じて鈍痛に顔をしかめるが、私の手は緩まないし、緩めなかった。


「あんたこそ人の気持ち考えてないだろ!? 諭史に謝りに来る前にまず私に謝りに来いよ、てめぇの男を世話してやったんだからよ!?」


 そう言われアネキの目に怒りが蘇る。


「大きなお世話よ! 自分のことすらロクに世話できないレイカが、サトシの世話なんて笑わせるわ!」


「なんだと!」


 体を捩り、引き剥がそうと暴れまわる。私は片手を押さえつけている足に体重をかけ、髪を強く掴んで有利な体勢を奪われないように対抗する。


 アネキは自由になっている左手に爪を立て、髪を掴んでいる私の腕を何度も引っ掻く。力に加減は無く、引っ掻かれた箇所がミミズ腫れになり、その上からまた爪を立て私の手は血塗れになっていた。


 さすがにその痛みを我慢するにはあまりに辛く、耐えられないためマウントを崩してお互いに距離を取った。


「痛い、痛いよ、レイカ!」


「そっちこそ、こんな腕にしやがって! シャツだって着れないじゃないか!」


 私は付けられた引っ掻き傷を見せてやった。血が幾筋も滲んでいるのを見てか、僅かにアネキが息を呑んだのがわかった。


 向き合うアネキは涙と汗で頬に髪の毛を張り付かせ、その穏やかな相貌に似合わない鋭利な視線を向けてくる。


 向日葵柄のスカートも皺まみれになり、薄暗い部屋に追いやられたアネキに、得も言われぬ凄絶な空気が漂っていた。


「……いいよ、そこまで言うんなら、そうしてやるよ」


 口を開いた私に、アネキが怪訝そうな顔をする。


「帰って来なければよかった、なんて言うんだったら、そういう風に扱う」


「なに、言ってるの」


「アネキが帰って来なかった頃の生活に戻すって言ってるの。私、本当の母さんに会うの止めた」


 分かりやすいくらい、動揺した。


「そして私、諭史に会いに行く。一緒に住む。アネキ、諭史のこと振ってきたんだろ? だったらいいよ、私がもらってやる」


 アネキはなにも言わず、棒立ちのままだ。


「過去のことなんかより今の方が大事だ。サトシ、絶対に傷ついている。ずっと会いたかった人に拒絶されたんだ。私はそれを放っておけない」


 私は肩から力を抜く、もうケンカは終わった。する必要すらない。


「だからアネキは好きなようにしな。私は諭史と一緒に暮らすことにした。さっきはあんなこと言ったけど、好きになることはきっと出来る」


 それは自分で口にしながら、確かにそうなるだろうと腑に落ちる言葉だった。

 ”諭史を好きか”と問われれば、そうではないと答えたとしても”好きになりなさい”と言われれば、素直に頭を下げることが出来る、そんな気持ち。


「じゃ、アネキ。あとは父さんに説明しといてくれ」


 私はそう言ってアネキに背を向け、廊下に出る。


「待って!」


 すぐに背中に小さい手が掴みかかり、私の行く手を阻む。


「……離せよ、もう諭史いらないんだろ? だったらあんたが私を止める理由はないだろうが!?」


「ダメ! サトシに会いに行くなんて絶対に、許さない! そんなことしたら本当にサトシが取られちゃう!」


「なにが許さないんだ、アネキが捨てたんだろ? だったらアネキに許可なんて必要ないじゃないか!」


「それでも絶対にダメ、サトシはわたしの、だ!」


「サトシの気持ちを考えられないアネキなんかに、まかせられねえよっ!」


 私はしがみつくアネキを渾身の力で引き剥がした。


 その勢いで廊下に薙ぎ倒され、アネキは激しく咳込む。


「そうやってなあ! 諭史のことを自分のものとか言うんだったら、最初から……って、アネキ?」


 咳込み方が、普通じゃない。


 咳をする合間の呼吸から、笛を鳴らしたような”きゅうきゅう”した音が聞こえ、胸を抑え激しく苦しんでいた。


「お、おいアネキ、大丈夫か?」


「こっちに……来ないで……」


 私はそんなこと聞けるはずもなく、座り混んだアネキに近寄る。


 その時、私は見てしまった。

 アネキの口を押さえる手に、血が付いているところを。


「おい……血を吐いてるじゃないか!」


「げほっ、騒がないで……これに、レイカは関係ない」


「関係ないって、そういう問題じゃないだろ!」


「そういう問題なの。大丈夫、死んだりしないから」


「死……って」


「ふふ、そっか、別に死んじゃってもいいのか。そしたらレイカとサトシは自然にくっついて、わたしは家出をしたまま……」


「不謹慎なこと言うなよ!」


「あれ? レイカは私を放っといてサトシと暮らすんじゃなかったの?」


「っ……!」


 アネキは人差し指で唇に付いた血を舐め、血色のない顔で怪しげに嗤う。


 私はどうしていいか分からなかった。

 なぜアネキが血を吐いたのか、なぜ血を吐いても動揺しないのか。


 介抱しようと近寄った私は、なにも出来なかった。

 それに見兼ねてかアネキは自分から立ち上がり、玄関に向かって歩いて行った。


「どこ、行くんだよ」


「ちょっと家出の続きでも。……それに、お互い頭の熱を覚ましたほうがいいと思うから」


「待って。そんな体で、どこに行くって言うんだよ」


「それを言ったら……家出にならないでしょ?」


 アネキは血色の薄い顔で、体をふらつかせて家を後にする。


 ばたん、と玄関が閉まった音が耳に反響し、いつまでも頭の中から離れなかった。


 腰が抜けた私は立ち上がれず、廊下に大の字に転がる。


 薄暗い廊下を照らす暖色の電球、それを黙って視界に入れ続ける。


「いったい……なにが起こってるんだよ」


 頭の中は、ぐちゃぐちゃだ。


 しばらく経った後に私は諭史を慰めに行くと口走ったことを思い出した。けれどいまの私にはそんな気力も体力も残されていなかった。


 後に残ったのは血に塗れた、片腕のひっかき傷だけだった。

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