6-23 張りつめていた感情


 叩きつけるように閉まるドアの音――


 仕事休みをもらっていた私、縁藤レイカはリビングで一人カップラーメンを食べていた。父さんは地元の友人と飲みに行くといって昼間から出払っている。


 だからそれ以外で戻ってくる人物は一人しかいない。

 けど私は同じ家族でありながら「おかえり」と声をかけることすら躊躇う。最近まで居座っていた、家族でないヤツには言った癖に。


 いや、そんなヤツに「おかえり」なんて言っていたから、アネキには言えないのか。自分でそう考え苦笑する。


 そんなくだらないことを考えていると、なにやらひどく小さい声が聞こえた。


 ……泣いてる?

 耳をそばだてると隠そうともせず、ひどく切羽詰まった声が聞こえた。


 アネキはこっちに帰ってきてからというものの、感情の動きが少なく父さんも少し戸惑っていた。


 そのアネキが泣いている。なにか普通でないことがあったに違いない。


 けれど、これまで沈黙を貫いてきた私が話しかけるのは……どうなんだろう。

 逆に泣いているからこそ、一人にして欲しいことだってある。


 そんなことを考えてるうちに、アネキはリビングにいる私に気付いているのか、いないのか。自室に向かってとぼとぼと歩いていく。


 そして部屋に入るなり……泣声は決壊した。私はあまりの衝撃に、箸を取り落とす。聞いたこともないほどの、姉の慟哭。


 無視を決め込むには、あまりに普通じゃない。激しい痛みに耐え兼ね、もがき苦しむような叫び。


 ――さすがに放っておくわけにもいかない。食べかけのラーメンを残してアネキの自室へ向かう。


 これからアネキと話をすると思うと、腰が引ける。けれど避け続けることもできないのは理解していた。


 アネキと一緒にリビングにいても会話がない。そんな状態をこれ以上続けるのには無理があった。私としても心休まるはずの我が家で、そんなモヤモヤを抱えていたくはない。


 だからアネキと話すきっかけが必要だった。

 アネキはいま悲しみの最中にいる。だが逆にそんな”特別なこと”が起きているから、話すハードルが低くなるんじゃないかなんて考えていたんだ。


 ほら、よくあるだろ? 敵同士が休戦状態のときに共通の敵が現れ、共闘して仲良くなるヤツ。これがきっかけになってアネキとの気まずさが少しでも緩和されるなら、これからノビてしまうラーメンを犠牲にしてもいいだろう。


 そんな少し軽い気持ちでアネキの部屋に向かう――それこそが、最悪の選択肢であったにもかかわらず。



「アネキ……?」


 アネキは自室のドアも閉めず、灯りの無い部屋に座りこんでいた。


 薄暗い部屋に、廊下の光だけが差し込む。

 その明かりに照らされたアネキは、消えてしまいそうなほど小さかった。


 私の呼び掛けには応じず、いまも部屋の中で一人叫び声をあげていた。


「明かり……付けるよ」


 そう言って私は部屋のスイッチに向けて手を伸ばそうとし――


「勝手なことしないで!」


 ――怒声によって動きを奪われる。


「部屋のものに触るんじゃない!」


「……なんだよ、どうしたって言うんだよ」


 取り繕い、落ち着かせるようにゆっくり声を出す。

 ……アネキのいまの一声で、私は取り繕わなければならないほど、動揺していた。


「レイカには、関係ないっ!」


 そう言って振り向いたアネキの顔は、見たことも無いほどに怒りに染まっていた。


 そのアネキの挙動一つ一つが、私の冷静さを欠いていく。


 ――すると急にアネキは目を見開いて、笑い出した。


「関係ない? わたし、いま関係ないって言ったの? ハハ、アハハッ!」


「な、なんだよ、どうしたんだよアネキ?」


「どうしたもこうしたもないよっ! 全部、全部台無しになっちゃった、わたしが台無しにした……そして、レイカのせいでっ!」


 私は、アネキに睨まれた。


 その瞳に込められているのは、敵意……? いや、いやいや、そんな生易しいものじゃない! 本能が言っている、私がここにいること自体が危険だと……!



 ――いつだってアネキは私に優しくしてくれた。


 子供の頃は遅れて着いてくる私に、手を伸ばして引っ張ってくれた。


 学校が終わったら早く帰れだの、勉強しろだの、もっと話をして欲しいだの色々なことを。


 私が中学に入り、諭史やアネキと話さなくなってからはよく小言を言われた。


 そしてアネキと諭史が付き合いだした時、勝手に謝ってきた。


 それに私は雑な返事をした、けれどアネキは「ありがとう」とだけ言った。


 高校を中退したことをアネキは責めず、夜間学校や就職の話を勧めた。


 私はそれを話半分に聞き、意味もない時間を過ごした。


 けれどもアネキは諦めずに話を続け、私が勝手に牛木さんとこで働くのを決めた時も祝ってくれた。


 そうして私はいままで生きてきた。



 そんなアネキが、いま私を、睨みつけている。


 中学時代にケンカも何度かした、けれど私が怯んだことはなかった。


 相手が挑発的な言葉を口にするたびに、私もやってやろうって気にさえなった。


 でも、駄目だ。


 それでもこんな気持ちになったことは無かった。


 アネキの私に向ける視線は、いままで向けられたどんなものより恐ろしかった。



「わたし、サトシに会ってきたの」


 アネキの声で、私は我に返る。


「勝手に家を出たことを謝ってきた、サトシはそれを許してくれた」


 それを聞いても私は声が出せない。


「そしてサトシはわたしに協力してこなかったことを謝った、わたしはそれを許した」


 なにを言ってるかもよくわからない。


「だからサトシとはね、仲直りをしてきたの」


 だってそれはアネキが泣いて帰ってきたことと繋がらないから。


「でもね、仲直りをしてもわたしとサトシは元通りになることは出来ないんだ」


 私は固唾を飲んで、次に継がれる言葉を待つ。


「だって……わたしは! レイカに! サトシをとられちゃったんだから!」


 気付けばアネキは立ち上がり、乱暴に私の服を両手で掴む。繊維の千切れる音がし、気づくと眼前にアネキの顔があった。


「ズルイ、ズルイよレイカ! わたしがいない時にサトシと抜け駆けしようなんて、信じられないっ!」


「ア、アネキ……? 違う、違うよ」


「なにが違うの!? キスするとこだって、わたしはハッキリ見てたんだ!」


「してなかった……だろ? 見てた、じゃないか」


「あれでキスしてないなんて、言い訳でしかないっ!」


 声を荒げ、体を揺さぶられる。体格差なんてもう関係なかった、いまのアネキにはなにも通用せず、私は振り回されるしかなかった。そして責める言葉はどんな暴力よりも心に突き刺さった。


「キス、するつもりだったんでしょ?」


「……確かに、しそうだったのは、認める」


「ほら、認めた! あの状態まで心が動いたなら、おんなじことだよ!」


「でも、諭史は私のことを、好いてなんかいない」


 言ってて自分で空しくなる……


 私の事情に諭史を巻き込んだのは、意図していなかったわけでない。諭史はアネキ同様、私のことを気に掛けてくれていた、と思う。


 諭史は私に寄り添おうとしてくれた、それがどういうことかは分かっている。私たちはもう大人で、相手を心の拠り所にして、一緒に暮らしていく。それは男女の仲になるということだ。


 昔のように幼馴染が家に遊びに来て、同じ布団で寝るのとはわけが違う。


 諭史は私を憐れんだだけだ。子供の頃に私の手を引いてくれた延長で、慰めようとしてくれただけ。だから私は勘違いしていない。一緒になるからと言って諭史が私を好きになってくれたなんて、そんな愚かな勘違いはしてしない。


「アネキがいなかった間に、諭史に近づいたことは……謝る」


 私を掴んでいるアネキの手首に手を添え、真面目な声を絞り出す。


「私は寂しさを紛らわすために諭史を家に引き込んだけど、間違いなんか起こしていないし、決して好きにもならなかった。それは信じて欲しい」


 結局、私は諭史を好きかどうかなんて答えは出なかった。


 この場はこう答える他ない。

 それにアネキと諭史のほどの仲になれるなんて思っていなかった。最初から負け試合だったんだ。


 私は寂しさを紛らわすために、諭史を道連れにしただけ――

 幼馴染の時の好意の延長があっただけで、男女の中とは程遠い。


 そして諭史の元にはアネキが帰ってきて、仲直りをした。

 片方の傷が癒えた以上、傷の舐めあいをするような同居生活は終わったんだ。


「だからアネキ、安心してくれ。私と諭史の未来なんか、存在しないんだ」


 そうして私はぎこちないであろう、作り笑いをアネキに向かって見せる。

 ……どうせ私の笑顔なんかで安心なんかさせられない、でも失笑くらいさせられれば万々歳だ。


 その間、アネキは私の服を掴んだまま黙って話を聞いていた。


「……レイカ」


 そしてアネキの口から出てきた言葉は――


「わたしを、バカにしてるの!?」


 ――瞬間、意識が途絶えそうになり嘔吐感がこみあげる。


 気づいたらアネキを見上げる格好になっていた。


 ……腹にアネキの拳が入り、私はうずくまっていた。

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