6-18 お義父さんとの反省会
リビングに入った瞬間、最初に思ったのはリビングの中央にベッドがないということだった。
いやリビングにベッドがないなんて当然のことなんだが、つい最近まで縁藤家の家主はレイカ一人であり、レイカの、レイカによる、レイカの為の政治が営まれていた。だから僕にとっての縁藤家のイメージは、いつの間にかリビングの中心にベッドが置いてある無法地帯で上書きされていた。
「今回、私たちは半年くらい海外に行っていた。けどリビングがイェンファの寝室にまで改造されてるなんて流石にはじめてだったよ」
お義父さんはそう言いながら笑っている。
「ウチの親父たちには現地で会いましたか?」
「ああ、二回ほどね。けど大人になればなるほどダメだねぇ、以前は朝まで飲み明かしたりしたものだが、最近は私も妻も体力がなくなって日が変わるうちに解散だよ」
「ウチの親父も体力は全然ないですよ。子供の頃、急にキャッチボールをしようってグローブとボールを買ってきたんですが、親父が一日で筋肉痛になりましてね。結局治る頃には次の出張が決まって、それ以来グローブはホコリを被ったままです」
「はは、いかにも彼らしい話だ。どうかね諭史君。今度、私とそのホコリを払ってキャッチボールでもしようか」
「いいですね、けどさすがにこの歳になってキャッチボールは少し恥ずかしいですね。そうだ、レイカに弟か妹を作ってあげて、その子とキャッチボールをしてあげたらどうです?」
「おいおい勘弁してくれ。もしそんなことになったら、孫と同い年になってしまうだろう?」
「っ……、お義父さんこそ勘弁してください」
少し胸に突き刺さった。お義父さんは本気でその冗談を口にしてる。それが近い将来に当たり前にやってくることだと信じて。
僕はその当たり前を失おうとしているのだと、思い知らされた。
お義父さんは冗談を詫びながら僕の肩を叩き、ソファに座るように勧める。そのソファは先日まで腰かけていたものと同じだが、不思議と座り心地は悪くなっていた。
余談だが僕はお義父さんに”おじさん”と呼ぶのを禁止されている、呼びかたは必ず”お義父さん”だ。優佳との仲は家族公認であり、同棲も両両親が賛成した結果だ。だからこそ縁藤一家とは既に家族も同然だった。
……今後もそうで在り続けられるかは、僕の手に委ねられている。
「私は冗談のつもりは無いのだがね」
子供の――孫の話から離れない、お義父さんの中ではとっくに確定事項だ。
「僕もいつかはそうなりたいと思いますよ、けれどまだ受験がどうこう悩んでいる子供には少し荷が重いというか」
「ははは、すまない。少しばかり私の望みを押し付けすぎたようだ。気負いしないでいつも通り楽に過ごしてくれ」
「はい、ありがとうございます」
「本当はね、娘はやらん! ってやりとりをしてみたいとは思っていたのだが、諭史君だったら突っぱねる理由がなくて少しばかり残念だよ」
「ははは……優佳さんと幼馴染でよかったです、本当に」
背もたれから拳一つ分開けてソファに座る。
カーテンの合間から差し込む直射日光が強く、灯りがなくとも十分に明るい。部屋の光源はエアコンのランプくらいで、長時間点けているせいかお義父さんは長袖を着ていた。
氷入りの麦茶を頂き、腰を少し上げて受け取る、それからはしばらくお義父さんの出張の話を聞いた。
僕の両親と縁藤一家は海外で教育を進める仕事についている。その背中を見て育ってきた僕や優佳は、当然のように同じ仕事をするものだと思い育ってきた。そしてその思いは途絶えることなく、いまとなっては地に足をつけた考えになっている。
……先日までは一時の迷いがあったけど。
お義父さんの話は僕にとって宝の山だ。学校では教えてくれないような現地のこと、問題点など具体的に聞くことができる。またお義父さんにとっても仕事が生活の一部と化しているので、趣味の話をする感覚で話を進めるので、だいぶ突っ込んだ内容にまで話は及ぶ。
別にお義父さんの機嫌伺いをしているわけではないが、それを僕が興味を持って聞くことができるのであれば、僕とお義父さんの関係は概ね理想的と言ってしまっていいのだろう。
久しぶりに話をするので身構えていたけど、十分も経つ頃には僕の背中は自然とソファにくっついていた。そして太陽が南中に差し掛かる頃に仕事の話はひと段落となり、二杯目の麦茶飲み終わると話は”本題”に入った。
「……優佳が面倒を掛けたらしいね、すまなかった」
「いえ、僕も優佳さんの意見に賛成できませんでしたから」
「そうか」
お義父さんは暗い天井を見上げ、うわごとのように呟く。
「……やはり、子供の成長とは早いものだ」
お義父さんはしみじみとそう言った。僕はお義父さんと同じ視点に立てないが、言いたいことはわかる気がした。
「僕、実は李さんに会いに行ったんです」
「本当か?」
お義父さんが目を見開いて驚く。
無理もない、お義父さんは僕が李さんを嫌っていたことを知っている。
「いつだ?」
「一週間ほど前です」
「なぜ、会おうと思ったんだい?」
「優佳さんが信じた人を、自分の目で見ておきたかったからです」
「李は……なにか言っていたか?」
「イェンファさんの現状をしきりに聞きたがりました。仕事をして自分でお金を稼げていると言ったら、目を輝かせて喜んでいました」
「ふふ、そうか」
記憶に残っている李さんを思い出したのか、お義父さんは目を閉じ低い声で笑った。
「僕は会ったこともない李さんをずっと悪い人だと思い込んできました。けど会ってみたらそんなことなかった、子供思いのいい人でした」
「李の子供にも……会ったか?」
「はい、中学生の男の子がいました。年相応に悪ぶっていて、李さんのことをクソババアと言うくらいにはいい子でした」
「ふふ、しっかりと親に愛された第二次反抗期の姿だな」
「はい、僕に躊躇なく殴りかかるくらいの度胸もありました」
僕達はお互い笑いあって、ふたりで天井を眺めた。
静かな時間だった。
外からは遠くにセミの鳴き声が響き、エアコンからは風の流れる事務的な音が断続的に聞こえた。
「私は……間違ったことはしていないつもりだ」
お義父さんが天井を仰いだまま、絞り出すような声で言った。
「けれど、間違ったことをしていないと胸を張りすぎると、どこかで間違いはするものだな」
僕はそれに対してなにも言えなかった。本当はその言葉を聞くことさえなかったはずだ。
「優佳のしたことは正しい、そして君のしたことも。そして誤ったことを教えた私が悪い」
「……そんなことは」
「いや、いいんだ。ありがとう」
僕に向き直ってお義父さんはそう言った。
「だけど同時に嬉しくも感じている。私の間違いを正してくれる子に育ってくれたのだからな」
「僕も、優佳さんには感謝しています」
「君はもうちょっと優佳に文句を言うくらいでいい。三ヶ月も放ったらかしにされたのだからね」
「はは……」
僕は曖昧にそれを笑うことしかできない。
「優佳とは、難しそうかね?」
「……少し、難しい状態になってはいます」
馬鹿正直に答える。さすがにお義父さんもその雰囲気くらいは察知しているだろう。先日も朝っぱらから、縁藤家の玄関越しにケンカまでしていたのだ。わからないはずがない。
「それも元はと言えば、李のことを君に悪く吹き込んだ私のせいだ」
「いえ、違います。優佳さんを信じて来れなかった僕の責任です」
「無理に気負う必要はない、子供の頃の君はそれを考えて選ぶことはできなかった」
「それでも自分はその考えを聞いて、これまで改めてこなかった。優佳さんの声に耳を傾けず、そう信じ続けたのは僕の間違いです」
「そうか……君がそこまで言うなら、私はなにも言わない」
お義父さんは満足そうに笑みを浮かべた。
「本当に、子供の成長は早いものだな」
そう言ってお義父さんは部屋の灯りを点ける。
「私はね、諭史君」
お義父さんはテーブルのグラスを片付け、キッチンへと向かう。
「君と優佳には結婚して欲しい。が、もし関係が上手く行かなかったとしても、仕方がないとも思っている」
「……お義父さん?」
「そのことで君を咎めようと思わないし、君の親御さんにもそんなことはさせない」
お義父さんはいったいなにを言っているのだろうか?
「優佳は頭こそ悪くはないが、誰に似たのか愚直で、頑固だ。それが理由で招いたことを人のせいにはしないが、黙って一人で貯め込むところがある」
「……そういうところは、確かにありますね」
「そうだろう? だからこそ君やイェンファが、近くにいることでそれをうまく逃がして来れた」
「はい」
「けれど、今回は私のせいでだいぶ話がねじれてしまった」
「……いえ」
「いや、言わせてほしい。だから、もしそうなってしまっても、君はなにも気に掛ける必要はない」
「お義父さん……」
「これは縁藤の家の問題だ、いつか爆発するはずの爆弾だった。その問題をいままで先延ばしにし、君を巻き込んでしまった」
お義父さんは背中を見せたまま、流しでグラスを水洗いしながら言葉だけをこちらに向ける。
「だから私が君に頭を下げることはあっても、決して君を責めるようなことはない。だから安心したまえ」
お義父さんと言わんとすることが分かった、僕に責任を被せまいとしているのだ。優佳が家出した原因は、お義父さんが李さんとレイカを絶縁させ続けたことだった。
それが元で僕と優佳は三ヶ月もの間、音信不通になってしまったし、僕が李さんを憎み続けたのも自身の責任だと思っている。
無論、それは疑問を持ってこなかった僕の責任。お義父さんのせいにするつもりは毛頭ない。
けれど今回のことでお義父さんは相当ショックを受けていることが伺えた。だってお義父さんの背中はこんなにも小さくない。弱々しい声で撫で肩になっている姿など見たことがなかった。
だからこそ自分に自信を失ってしまっているんだろう。そしてすべての責任を自分が被り、周りが罪悪感を被らないようにしている。
その姿は先日の誰かに――少しだけ似ていた。
「お義父さん」
「うん?」
優しい目をしたお義父さんが振り返る。いつもより目尻に皺が多く見えた。
「あんまりじゃないですか?」
僕の問いかけに、その顔が疑問に染まる。
「僕はお義父さんのことを家族だと思っているのに。お義父さんは違うって言うんですか?」
「それとこれとは違うよ、諭史君。私は……」
「いえ、違わないです」
それ以上発言はさせない、少なくとも撫で肩のままでいる義父には。
「巻き込んでしまった、なんて発言許せません。僕は縁藤一家の一員のつもりですし、その責任を部外者だからなんて言われたら我慢できません」
僕は自分で口にしてる言葉にどんどんヒートアップする。けどそれを感情任せに発言することは間違いじゃないと思えた。
「僕はお義父さんとお義母さんのことが好きです。それなのに家族の問題だって締め出されるなんて、そんなの認められません。そんな逃げ腰なお義父さんの意見なんて聞きたくない、僕もあなたたちの問題から逃げたくない」
お義父さんは手を止めて、惚けたように僕の顔を眺める。
いま頭に血が上ってはいるけれど、それを冷静に俯瞰できている別の僕もいた。
「だから優佳とは僕がしっかりと話して、しっかりと今後を決めます。そしてその責任は絶対にお義父さんに取らせたりなんてさせません」
そう言い切る。
真夏の昼下がり。
遠くには飛行機が青を切り裂く遠い音。僕が最後の一言を口にしてから、お互い沈黙を守った。
それは僕の言ったことをお義父さんが反芻する時間で、僕はその時間に少し気恥ずかしさを覚えた。
けれど不思議とそれに後悔はなく、ランニング後の爽快感みたいなものだけが残っている。
先に口を開いたのはお義父さんだった。
「……わかった、君に全部任せよう」
「ありがとうございます」
「諭史君、信用と信頼の違いを知っているかね?」
「信用と、信頼……ですか?」
「ああ、そうだ」
「あまり、深く考えたことはありませんが……」
「信用とはね。過去から今現在に対して、物理的な出来事で相手を信じることだ」
言われてみれば……言葉の雰囲気でその印象を感じられる。
信用取引という言葉があるが、あくまで事務的なもので人と人との温かみはあまり感じない。
これまで裏切られたことはないから、信じても大丈夫だろうという合理的な判断だ。
「そして信頼とは、今現在から未来に対して、無条件に相手の行動に期待し、信じることだ」
「……」
「諭史君、私がなにを言いたいかわかるかな?」
身の、引き締まる想いがした。
「僕は仕事柄、子供と関わることが多い。そして大事なのは子供のいうことは決して疑わず、いつでも信じてやれるという姿勢だ」
「はい」
「けれど、それは信頼にはなりえないし、信用であるとも違う。だから子供を信じてあげる反面、逆に信用・信頼といったものには割と縁遠いところにいる職業だ」
お義父さんはキッチンから戻り、僕のそばまで歩いて来た。
「だから、こういう気持ちは久しぶりだ。諭史君、好きなようにやりなさい。どのような結果でも私は受け入れるよ」
「……はい!」
お義父さんはそう言って僕の肩をぽんと叩いた。
「いつか、お義父さんに正式に頭を下げに来ますから」
後ろに引くつもりがないことを宣言したくて、愚かにも僕はそんなことを口走る。
「それは直接、優佳に伝えてやってくれ」
「もちろん、そうします。だからもしその時に僕がお義父さんに頭を下げに来たときは……」
「ああ、わかっている。君なんかに娘を渡せるかと、精一杯怒鳴りつけてやるとも」
「はい、よろしくお願いします!」
そういって僕たちは不敵に笑いあった。
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