6-17 一人暮らしの諭史


 少し時を遡り、諭史と映子が電話を終えた二日前。金曜日の夜……




 僕はエーコとの電話を終え、眠気もないまま布団の上に寝転がり、時間を浪費していた。


 隣の家からは微かに聞こえる親子の笑い声。

 いまの僕はそれを微笑ましく聞くことができるようになっていた。


 精神的にはだいぶ回復した。けど部屋は男の一人暮らしを誇示するように、自然と汚くなってきた。


 優佳と一緒に住んでいた時は部屋が汚くならないよう、進んで片付けやゴミ捨てなんかしていた。けど次第に物が散らかり出し、流しに洗ってない皿が溜まっている。トイレ掃除も三週間前に戻ってから一度もしていない、男やもめにウジが湧くとはよく言ったもんだ。


 ここは優佳と過ごした時間とイコールだ。

 どこに目をやっても優佳がいた頃の名残があって、部屋自体が優佳の不在を異常だと訴えている。


 以前の僕はそれを見て思ってしまった、寂しいと。側にいてくれる誰かが欲しいと。


 でもいまは違う。

 心の渇きに突き動かされ、すべてを台無しにしたくなるような衝動は襲って来ない。


 だって気に掛けてくれる人がいると知ることができたから、側にいなくたって一人じゃないと信じることができたから。



 傑先輩。


 わざわざ僕と一緒にレイカの母国まで着いてきてくれた。

 過去に迷惑をかけた借りと傑先輩は言うが、それでもここまで親身になってくれるものだろうか? 僕が傑先輩の立場だったら同じことをしてやれるだろうか? 


 正直、わからない。でもハッキリしていることは、今度先輩の身になにか起きたのであれば、僕は全力で借りを返しに行く。



 エーコ。


 思いもかけなかったことだが、エーコは五年前に僕へ怒鳴ったことをずっと悔やんでいたらしい。そして許しを求めて、これからも友達とでいたいと言ってくれた。


 エーコにずっと追い目を感じさせていたなんて、考えたこともなかった。隠していたこと――生徒会予算の横領を疑われていたこと――その話が大きくなることを恐れて黙っていた。


 僕は悪くない、勝手に怒りだしたエーコが悪い……でも僕が悪者でいるほうが楽だった。自分のことを善と言い張るより、相手を善と認めるほうが楽だった。


 エーコは自分を信じて話して欲しかったのに、信じてもらえなかった。だからエーコが怒るのは自然な心の流れ……だと思っていた。


 けれどエーコはそれを呑み込んで謝ってくれた。そして先ほどの電話で、僕を応援するとまで言ってくれた。


 この関係を、大事にしていきたい。



 華暖にもずっと迷惑ばかりかけている。


 いつでも僕のことを気に掛けてくれていて、彼女の好意を断った後でさえも、変わらず僕の側で”親友”でいてくれている。


 ある意味で一番頭が上がらないのは華暖かもしれない……


 そういえば華暖のことで思い出した。

 僕は今日ヤジハチに行き、店長に頭を下げて正社員の話を白紙にさせてもらった。


 迷惑が掛かるのは間違いない、それでも店長は僕の頭をぐしゃっとかき混ぜ「いまのお前はそれでいい」と言ってくれた。


 その時に思った。僕はこうしてみんなに迷惑をかけ続けながら生きていくのだな、と。


 きっとそれは何年経っても変わることがないのだろう。


 ……そして絡まりに絡まった知恵の輪が、まだ目の前に残っている。


 優佳とレイカ。


 レイカには何度か連絡をしたが、まるっきり連絡が取れない。

 おそらく気づいていないことはない、明確に僕からの連絡を拒否している。


 まるで僕の心の機微を覗いてるような正確なタイミングだ。僕が今後どうしたいかを悟り、その言葉を避けるためにそうしているような……


 優佳とはそれなりに電話連絡を取ることはできた。話し出しに気まずいこともなく、一緒に暮らして時に交わしていたような他愛もない話をしていた。


 でも会って話をしたいって言うと、適当にはぐらかされる。先日からずっとその調子だった。


 優佳に嫌われてしまった――それは可能性としては十分にあることだ。だって優佳の気持ちが離れてしまうだけの材料は揃っているのだから。


 でも、それでも、あきらめたくない。

 僕と優佳の五年、いや十年の関係が、こんなくだらないことで終わってたまるものか。


 絶対に優佳の信頼を取り戻す。それこそどんな手段を使ったとしても――



 ……だからこそ、先に顔を合わせておきたいのはレイカだった。


 僕は、自分が弱い人間であることを知った。

 寂しいと思ったら人に頼りたくなるし、悩みが抱えきれなくなると、すべてを捨ててしまおうとさえする。


 だからレイカに会って、いまの僕の気持ちを伝えておきたかった。頭を下げ、支えてやることはできないと。


 僕は決意を新たにはしたけれど、同時に心の弱さを深くまで知った。だからこそ弱さが自分の心に到来した時、その自分を信じてやることはできない。だから先にレイカに会って逃げ道を断ちたかった。


 こんなこと考える時点で「お前の決意ってその程度かよって」思う。

 けれど僕が彼女たちに、いや僕が迷惑をかけた人全員に対して、僕が誠実でいられる最良の方法だ。


 ここまではたくさんの人に支えてもらった。だからこれから先は、僕が自分で決めていかなければいけない。


 もちろんこれからも支えてもらうこともあるだろう。けれどいまは僕が動かさなければいけない番だった。


 だからレイカに、会おう。

 明日、縁藤の家に直接行こう。


 そしてレイカと話をする――僕はスマホでLINEを開く。連絡相手は……優佳。



<優佳、明日の朝一会えないかな?)



 とだけ、メッセージを送る。


 優佳で合ってる……誤送信じゃない。優佳に連絡したのはちゃんとした意味がある。


 それは縁藤の家に行ってバッタリと優佳と顔会わせてしまう可能性を潰すため。だからそのための布石を打っておく。


 幸いにも優佳はスマホを触っていたのか、すぐに返信がきた。



(ごめん、明日はエーコちゃんとの約束が入ってるの……>


<そっか。でも朝に近くまで寄るから、もし会えたら話そう)



 ……これで大丈夫。きっと僕と鉢合わせたくない優佳は、朝一で家を出てどこかで時間を潰すことだろう。


 これで優佳と鉢合わせる可能性だけは無くなった。避けられることが前提の作戦なんて、かなり気が滅入るけど。


 エーコとの約束が入っているかどうかはわからない、けどそれを確かめる理由もないし、確かめる必要もない。


 時間も本当に朝一で行く必要もない、幸い明日は土曜日だ。傑先輩に聞いて、明日はレイカの仕事が休みであることも確認している。


 これでレイカと話をすることはできるはず。

 ……今更ながら、レイカと話すことは少しだけ怖かった。だってレイカと会ってしようとしていることは、拒絶なんだ。


 レイカを嫌いというわけではない。ただ「あなたとの関係はこれ以上進められない」と一線を引きに行く、それは相手を傷つけることに他ならない。


 それは……怖いことだ、ある意味では自分が傷つけられるより。


 ああ、少しばかり憂鬱になってきた。こういう時に大人はタバコを吸ったり、お酒を飲みたくなるのだろうか? どうせ眠れそうにもないけれど、少しばかり頭をスッキリした状態で臨みたい。そう思い、僕は早めに消灯して明日に備えた。



---



 案の定、寝つきは悪く、だいぶ布団の中で覚醒したまま時を過ごした。いくらか寝られたとは思うが二度寝することができず、結局七時前には寝直すことをあきらめた。


 窓を開いてベランダに出ると、少し肌寒い風が呆けた頭をに染み渡る。スズメの鳴き声が耳のそばで聞こえ、姿を探し求めたが、ランニングシャツで外に長く出るのは恥ずかしかったので早めに部屋に戻った。


 テレビをつけると朝の体操がやっていて、ロケット公園でスタンプを貰っていた日々が頭をよぎった。まだ夏休みがとても楽しいと思えたあの頃だ。もちろんいまでもずっと夏休みであればいいとは思うけど。


 僕はテレビをつけっぱなしにしてシャワーを浴び、チョコチップスナックとポタージュを温めてそれを朝食にした。


 まだ縁藤家に向かうには少しばかり早い、顔を合わせる可能性を少しでも潰すために遅めに行く予定は変えない。優佳は朝が苦手だし。


 土日になると優佳は限界まで寝ていて、僕が少しばかりうるさくしても起きる気配がない。


 一緒に暮らしていた頃、朝食は一週間の交代制だった。

 その時ばかりは優佳もちゃんと起きることができるのだが、起きなくていいとわかっていたら絶対に起きない。


 お互いに朝食がパンでも、なにかしら手の加えたものを出していた。

 それはスクランブルエッグやベーコン、もしくはソーセージを軽く炒めたりして、なにかしら手作り感を大事にした。


 僕は手作りをお願いしているわけではないし、優佳もそんなこと僕に求めなかった。なぜそれが当たり前になったか思い出せないが、そのルールが自然とできあがるから僕らは一緒に暮らすことになったんだろう。


 手作りの朝食という、憧れから始まった習慣かもしれない。でもその習慣が悪いものでないことは明白だ。


 それがいまはどうだろう……せいぜい冷凍のハンバーグに、溶けるチーズをかけるくらいが関の山だ。むしろ贅沢の域。


 ……こんなんじゃ優佳が帰ってきても、また出て行っちゃうかな?


 そう思った僕は立ち上がり、冷蔵庫の中になにか残っていないか探してみる。中にはろくなものが入っておらず、ほとんどが寿命を迎えていた。


 せいぜいあるものと言えば、先日カップラーメンにトッピングをするつもりで買ってきたメンマとチャーシューくらいだ。


 僕は自分に失笑しながらその二つを取り出し、レンジでチンするご飯と一緒にそれをフライパンに掛け、チャーハンのようなものを作った。まるでわけがわからない味がしたが不味くはなく、チョコチップパンよりはいくらかマシに思えた。


 僕はそれを口にしながらできるだけ背筋が曲がらないようにし、そのチャーハンのようなものを平らげた。



 お腹を満たしたらそれなりに眠気が来てしまったので、結局一時間ほど仮眠を取った。頭がシャキッとしない状態で、ことを構えるのはいくらか危険だし。


 そしてできるだけ綺麗に見えるポロシャツにジーパンとを身に着けて、十時過ぎくらいに家を出た。サンダルで行くつもりだったが、家にお邪魔するかもしれないので靴下を履き、スニーカーで外へ出た。三ヶ月間過ごした場所とはいえ、いまは人様のお城だ。さすがに素足では入れない。


 朝に浴びた肌寒い風がウソのように暑かった。外にはもうセミが騒いでいて、その風物詩がまた一層の暑さを際立てている。


 夏休みの土曜ということもあり、公園は朝から子供たちがはしゃいでいた。ふと目を横にやると植え込みの一部が凹んだままになっている……先日に僕が荷物を投げ込んだところだ。


 李さんの国へ行く日の早朝、優佳と話をし、彼女を傷つけ、身軽な状態で後を追うため、荷物を植え込みに放り込んだ。


 その凹み跡を見て、僕は公園にも迷惑をかけているんだな、と思った。いつか市政にでも恩返しをしなければな。税金はちゃんと納めますよ、大人になったらね。


 縁藤家のあるマンションが見えてきた。つい先日までの仮住まいで、優佳を追ってなんども駆け上がっているマンション。


 僕はそれをいままでの中で一番重い足取りで登り、チャイムを押した。

 ややあって、インターホン越しに男性の声が聞こえた。


「ハイ、縁藤です……って諭史くんじゃないか」


「おはようございます、イェンファさんはいますか?」


 お義父さんだった、話をするのは久しぶりだ。いや一応帰って来られた日に少しだけ顔を合わせたか。


「イェンファか? なんか大急ぎで出て行ったね、なんでも社長に呼び出されたとかで」


「……そうですか」


 予想外だった、派遣会社だとそういうこともあるのか?


「あと、優佳は友達と用事があるとかで出て行った。悪いけどいまは私しかいないよ」


「そしたらまた時間を改めて出直します、朝早くからすいません」


 どうしようか、レイカの仕事先の近くで仕事が終わるまで待っていようか? でも僕はレイカが働いている場所まで知らない。


 そんなことを考えていると、またお義父さんの声が聞こえた。


「よかったら少し上がっていかないか? 久しぶりに積もる話でもしようじゃないか」


 僕は”積もる話”という言葉の裏に隠れたものが怖かったが、拒否権はないのでその言葉に従った。


 靴下を履いてきて正解だった。

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